人類の霊性史『スピリチュアリティ』

人類の霊性史『スピリチュアリティ』

 

- 人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語 -

数千年に及ぶ様々な伝統に属す霊的人物や神秘家の生き方をざっと見ただけでも、『人類の霊性史(スピリチュアリティ)』は部分的に、「人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語」として読むことができる。

それは現代においても有機的に、「表層意識」や「潜在意識」、それに「集合的無意識」に深く浸透し、人間と世界のあらゆる次元が著しく分断の様相を顕在化させている原因でもある。

文化面での文脈のなかで、人間の意識のさまざまな価値を出現させ、成熟させていくためには、生得的に与えられている人間の原初的・基礎的諸次元である「身体的」「本能的」「性的」、そして「ある種の感情的」な『非言語的世界の次元』を抑制することが、ある時点では必要なことであった。

なぜなら、まだ発生したばかりで比較的脆弱であった自己意識とその諸価値が、かつての本能的な衝動エネルギーが有している強力な存在の中に、ふたたび吸収されてしまうのを阻止する必要があると考えるようになってしまったからである・・・。

老 子 陽 明



 

拒絶される『スピリチュアルの研究』の真実

現代において、『スピリチュアル』と言う言語そのものに対する、ある種の抵抗感や違和感、あるいは非科学的で退行的な迷信のように捉えている人々も当然少なくはないだろう・・・。

中には宗教や信仰そのものに抵抗を示す「無神論者」から、霊能力や超越的世界への不信感と胡散臭さを抱くのも、今日の文明社会では仕方のないことであろう。返ってそのような話題を真剣に議論することさえ、バカバカしいと考えるのも止むを得ないほど、論理的な理性重視の時代を私たちは生きている。

一方、現代の知識人または知的産業に従事する人達は「二つの陣営」。すなわち、『科学』と『人文学』に分かれている。

この二つの陣営が、互いに口をきこうとしないのは確かに良くないことだが、しかし、この二つの陣営から全く拒絶されている分野が『スピリチュアルの研究』である。
 

誤解のないように説明すると、「スピリチュアル」とは数ある知性の一つであり、具体的には人間の「内省」や「意識」、「内面性」や「主観性」の研究である。この分野における知的に非常に洗練され、合理的で、非神話的で、実験的に発達した『スピリチュアルの思考システムと実践』が多数ある。例えば、仏教の「現象学」、ヴェーダーンタの「哲学」、カバラの「解釈学」などであるが、これらは学問と教育の主流においては真剣には取り上げられることはない・・・。

 
現代の科学主義は、客観的・実証的・経験的な「外面世界(表層)」の記述に没頭するあまり、自分たち自身の「内省」や「意識」、「内面性」や「主観性」を根本的に拒絶する。この科学的物質主義(唯物論)が、高等教育や学問の世界で強力かつ支配的であるため、『スピリチュアルの研究』はどこでもまじめにとりあげられることがない。「人文学」ですら、『スピリチュアルの研究』には近づかない ‼

唯物論的な「科学」、特にニュートン・デカルト的な科学が『スピリチュアルの研究』を殺した。しかし、実は、これが本当の理由ではない。事実に近くもない。

問題は、『人文学』が内省や主観性を、それも完全に徹底的に拒絶した。すなわち、『科学』が殺したのではなく、『人文学』が殺したのである ‼

20世紀後半、二つの陣営両方ともに、『科学』ばかりでなく、『人文学』ですら、内面性を完全に拒絶したのである・・・。
 

世界の偉大な智慧の伝統『永遠の哲学』と『存在の偉大な連鎖』

世界の偉大な智慧の伝統とは、何らかの形での『永遠の哲学』、『存在の偉大な連鎖の哲学』のヴァリエーションであると言える・・・。

時代と文化を越え『永遠の哲学』と呼ばれている世界観は、「キリスト教」から「仏教」、「タオイズム」に至るまでの世界の偉大な叡智の伝統の核心を形成しているばかりか、東西、南北の多くの偉大な哲学、科学、心理学の核心のほとんどを形成してきた。この「永遠の哲学」の核心が『存在の偉大な連鎖』という考え方であり、基本的な考え方は「リアリティは単一の次元ではなく、幾つかの、異なった、しかし連続している次元で構成されている」と言うものである。

顕現されたリアリティとは、したがって『異なった段階(ないしレベル)』で構成されており、ときに存在の偉大な連鎖は三つの大きなレベル、「物質―心―霊(スピリット、精神)」として提示される。他の提示方法では「物質―身体―心―魂―霊」の五つのレベルでも考えられる。もっと詳細なレベル分けとしてヨーガのシステムでは何十にも明確に区分され、それは低位の、最も粗く、最も意識の少ない段階から、高位の最も意識の高い段階まで連続している意識の次元が提示されている。
 

『永遠の哲学』の中心的な主張は、人間は低位の意識段階から高位の意識段階までの「階層(レベル)」を登って成長し、あるいは進化できるということ、それはすべての成長と進化が『偉大な連鎖という階層性(ヒエラルキー)』を展開しながら、その完全性への到達を目指すことを示している・・・。

 
そして、私たち人間には(少なくとも)、すべての偉大な連鎖に対応する『三つの知の眼(知のモード)』があることを示すことができる。そこにも「階層(レベル)」があり、物質的な事象と感覚の世界を捉える(開示する)『肉体の眼』、イメージ、概念、観念など、言語と象徴の世界を捉える(開示する)『心(理知)の眼』、そして、スピリチュアルな経験や状態、つまり、魂と霊(スピリット、精神)の世界を捉える(開示する)『観想(般若)の眼』である。

これらは、身体から、心、霊(スピリット、精神)に至る『意識のスペクトル』を単純化したものであり、世界のすべての叡智の伝統である「タオ」から「ヴェーダンタ」、「禅」から「スーフィズム」、「ネオプラトニズム」から「孔子の哲学」などは、すべてこの偉大な連鎖に基礎をおいていることを論証している。それは「存在と認識」の様々な階層(レベル)を伴った、『意識の全体的なスペクトル』である。
 

すでに述べたように、『永遠の哲学』の中心的な主張は、人間は「物質―身体(生命)―心(ハート、マインド)―魂―霊(スピリット、精神)」の各段階(階層)を登って発達・成長し、あるいは進化しながら、存在と認識はその完全性への到達を目指して行く。この永遠の哲学の核心である『存在の偉大な連鎖』ないし『意識の全体的なスペクトル』の一方の端には、物質と呼ぶ「感覚のない(少ない)」「意識のない(少ない)」ものがあり、一方の端には「霊(スピリット、精神)」「至高神」「超越的意識」(それはまた、スペクトルすべての基底となる)がある・・・。

 
その間に並ぶのは、「プラトン(実在)」、「アリストテレス(現実性)」、「ヘーゲル(包括性)」、「ライプニッツ(明晰性)」、「オーロビンド(意識)」、「プロティノス(抱擁)」、「ガラップ・ドルジェ(知性)」など、呼び方の異なる『リアリティの次元』である。

それはステップを踏んで「段階的」「階層的」「多次元的」(言葉はどうあれ)に顕現する・・・。
 

スピリチュアルへの『認識と弊害、そして混乱』

現在、多くの宗教的伝統にかかわるスピリチュアル・リーダーやサイコスピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)の研究者や専門家、及び探究者(教師・指導者・実践者)たちの間では、人間は『統合的な成長・発達(integral growth)』が重要だという共通の認識が芽生えている・・・。

統合的な成長とは、『人間のすべての次元(身体・本能・性・ハート・マインド・意識)を統合し、完全に身体化されたスピリチュアルな生へと発達してゆくプロセス』を意味する。そして、自己の心身(肉体と意識)両面の統合にしっかりと根ざした実践の提案が示されている。

それらは現在、『ITP/インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス(統合的・変容的な実践)』や『ILP/インテグラル・ライフ・プラクティス(統合的な生活の実践)』と言う統合的で変容的な実践によって、人間の潜在的可能性を再度、統合的に繋ぎ合わそうとする試みであるが、広く一般的に理解され、実践され、そして現実的な私たちの世界(個人の生活、社会、政治、経済、文化、自然)に対する『ラディカル(根本的)で革命的な文化的衝撃(全人的・地球規模的変革)』には至っていない(まだまだ時間がかかる様相である) ‼
 

こうした共通認識が生まれる背景には、『偏った発達が多くの弊害を生み出すという自覚』があるからだ。そして、この分野を探究し育んでいく多くの重要な研究者たちが指摘するには、どんな伝統のスピリチュアルな指導者や教師でさえ、偏った発達を示している・・・。

 
たとえば、認識とスピリチュアルな機能の面では大変すぐれていても、倫理的な面では因習的であったり、対人関係や感情面や性的行動の面では機能不全だったりすることがある。発達がバランスを欠いていると、真剣に取り組んでいるスピリチュアルな努力の多くが、身体や性や感情のレベルで生じる葛藤や傷によって損なわれてしまう。
 

スピリチュアルな探求者はあまりにもしばし、自分の抱くスピリチュアルな理想と自分のなかの本能的、性的、感情的な欲求との間の緊張に悩まされる。そして、誠実な意識的な意図をもっていたとしても、無意識の衝動パターンや習癖に繰り返し陥ってしまうのである。さらには、サイコスピリチュアルな発達が偏っている場合には、『人間の開花だけでなく、スピリチュアルな認識力』にもマイナスの影響を及ぼしかねないのである・・・。

 
現代の「スピリチュアルの信奉者」の中には、その点について大きな誤りを犯しているものが多い ‼

特に西洋型の「サイコス・ピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)」を試みる人々が、自己の心身(肉体と意識)両面の統合にしっかりと根ざした『真に統合的・変容的な成長』を開花していく例は稀であるように見える。

西洋の大半は依然としてルネッサンス以来、確立に執心してきた「個」にしがみつき、個を越えようとする努力などは逆に退行か逃避としか見ない一方、過剰な「上昇志向」とも言える、「意識のみの偏った超越」や「アルカイック的(古層・古代)な終末論や時間波ゼロ」など、ハイパー・アセンディングと退行的なレトロ・ロマンやポップ・オカルトも横行している。
 

しかし、東洋型においても、インド思想が後の時代に変容させたその概念にも、肉体の存在を「カルマ解消」のための足枷であるかのように捉える傾向が伺える。その傾向は日本においても同様であり、『スピリチュアルへの認識と弊害、そして混乱』は今日において一層高まりつつある・・・。

 
結局のところ、現代の教育・文化が、ほとんど排他的とまで言えるほどに『合理的なマインドとその認識機能の発達』にのみ焦点を合わせており、人間のその他の次元の成熟にはほとんど注意が向けられていない。

もっとはっきり言えば、『生得的に与えられている人間の身体や本能、性、感情の原初的な世界の成熟』を軽んじている ‼

その結果、私たちの文化における大部分の人たちが、大人になるころには、かなり成熟した精神的機能をもっているものの、それらの『原初的世界はほとんど発達しないまま』になっているのである。
 

いわゆる、現代の極端な『認知中心主義(マインド中心の成長モデル)』では、身体、本能、性、ハートが自律的に成熟するための空間が作り出されていない状態に加え、これらの世界が健全に進化するためには、精神(メンタル)によって制御される必要があるとの深い思い込みをかえって永続させることが問題となる・・・。

 
そして、いちばん悲劇的なことに、身体や本能、性、感情の永続的なコントロールや抑制が、これらの『非言語的な世界』の単なる未発達というだけでなく、しばし傷つき歪んだものとなり、退行的傾向が最初に出くわすのが、『葛藤や恐れや混乱の層』である ‼
 

それが悪循環に陥ると、『人間の原初的・基礎的諸次元』である「身体的」「本能的」「性的」、そして「ある種の感情的な次元」の自律的な成熟がより困難となり、より精神や外部からの方向づけを求める気持ちが永続的に正当化されることにより、好ましくない症状もさまざまに生じて来る・・・。

 
特に『スピリット(霊)』ではなく、『スピリチュアル(霊的/霊性)』と言う場合において、人為的な概念・定義・解釈、そして誤解が生じてくる ‼

つまり、私たちの知覚・意識・精神をスピリチュアルな意味として理解するために、「①精神的な態度や姿勢」、「②いくつかある成長と発達の中での最高の段階」、「③独立して私たちの中にある、スピリチュアルな成長と発達の道筋」、「④至高体験や意識の変容状態」など、いくらかの定義可能な概念を組み立てる知的な作業がついて回る。
 

『スピリチュアル』への認識と弊害、そして混乱はある意味、こうして「言語知的に解釈」されればされるほど、『近くて遠い問題』として、いよいよ問題の見方の問題を膨らませていく・・・。

 
実はここに、西洋と東洋ならぬ『コンテクスト』の差異、特に西洋的なものとしての東洋の哲学・思想の解釈に、誤解・誤読と思い込みが多く観られるのである ‼

また、せっかく『多様性の中の統一性の実現化』と言う実りある対話と相互作用、その『本格的な統合』に向かう過程における『本質的な分化』を前にして、その実現は遂に果たされぬまま、『永遠の哲学』として歴史の中に返されてしまいかねない『落とし穴ならぬ盲点』が見え隠れする。
 

今日の『乖離した知(自己感覚は身体も世界も究極的には幻想で欠陥のあるものだという「心身の乖離した心理」)』が、統合的・変容的な成長を促すはずの「スピリット」「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」の中にまで浸透し、それらは国境を越えて進行しながら、『人間の生にまで同時多発的な認識と弊害、そして混乱』を招いているのである。そこには「 ハートのチャクラから上」だけを『スピリチュアリティとみなす傾向』があり、その背後には非常に多くの歴史的、文脈的要因がある・・・。

 
数千年に及ぶ様々な伝統に属す霊的人物や神秘家の生き方をざっと見ただけでも、『人類の霊性史(スピリチュアリティ)』は部分的に、「人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語」として読むことができる。

それは現代においても有機的に、「表層意識」や「潜在意識」、それに「集合的無意識」に深く浸透し、人間と世界のあらゆる次元が著しく分断の様相を顕在化させている原因でもある。

過去から現在において、スピリチュアリティを特徴づけている『決定的な欠陥要因(乖離)』、あるいは、『霊的ヴィジョンの断片化(偏り)』とは、意識的に精神の解放を求める過剰(ハイパー)なまでの衝動によって、『自己感覚を超越的意識にのみ同一化させる』ことを主眼としてきたところにある ‼

それはしばしば、『生得的に与えられている人間の原初的・基礎的諸次元(人間の生得の力)』である「身体的」「本能的」「性的」、そして「ある種の感情的」な次元を、再三にわたって抑制することとなった。
 

つまり、スピリチュアリティの主要な諸潮流、及び宗教的実践の歴史上において、身体とその生命的・内在的・潜在的な『人間の生得の力/原初的エネルギーの次元(生得的に与えられている人間の原初的・基礎的諸次元)』は、それ自体で霊的洞察をもたらす正統で信頼のおける源泉とは見なされてこなかったのである。

言い換えれば、身体、本能、性(セクシュアリティ)、そして感情の一部は、心(ハート)や思考・精神(マインド・メンタル)、意識及び超越的意識(魂/ソウル及び微細・元因・非二元的な霊性/スピリット)と同等のものとして、それらと協同して霊的(スピリチュアル)な悟りや解放を達成できるとは、一般に認められてはこなかった。

さらに言えば、多くの伝統宗教や宗派、神秘思想では、『身体と原初的世界が実際、霊的成長の妨げになる』と信じられてきたのである・・・。

 
過去から現在において、人間の『生得の力』である原初的・基本的諸次元は抑圧され、統制され、変容され、「意識を霊化する」と言うより高次な目標にのみを主眼としたために、脱身体化されたスピリチュアリティは『ハートのチャクラの上の霊的生』にのみ凝縮されてしまった。

そして、身体から切り離された『スピリット/霊 = 共通の命』は遂に、我々の『生得の力であり創造性の源泉』であるにも関わらず、自己と共同体と世界からも切り離され、常軌を逸するほどの圧倒的な科学技術とそれに基づく経済、産業、情報社会が、ほぼ完全に「スピリット(気)を抜き取り」、排気ガスが立ちこもる「モノクロームな世界」を形成している・・・。
 

スピリチュアル・ヴィジョン:『身体化された天国(一なる世界)』

過去と現在の多くのスピリチュアルなヴィジョンでは、ある程度『乖離した知の産物』を抜け出していない・・・。

たとえば、身体もこの世界も、『究極的には幻想(低次元で、不純で、スピリチュアルな解放にとって障害)である』といった、ゆがんだスピリチュアル・ヴィジョンは主として、微細な超越的意識に未成熟な感情や精神的優越観というかたちで、そのエネルギーに触れることから生じる。

それゆえ、身体的で生命的に内在する「スピリチュアルな生と源」には根ざさないまま漂うこととなり、自己感覚は身体も世界も究極的には幻想で欠陥のあるものだという、『心身の乖離した心理(いわゆる乖離した知)』に陥ってしまうのである ‼
 

まさしくこれが、『現代に見られる病理』であり、それは個人の健康から社会に至るまでのほぼ全体に対して、重大な問題を引き起こしている元凶となっている・・・。

 
残念ながら、「心身の統合にしっかり根ざした、統合されたスピリチュアルな生」という考え方や、「人間の生(精、性、聖)のなかでこの潜在的可能性を実現させるための効果的な実践を探究し、発達させよう」という試みは、現代の文化において多くは存在していない。

明確に断言すれば、身体や本能、性、感情の原初的世界の成熟については、さしたる関心が真剣に向けられてはいない ‼
 

決定的にその道に繋がる「真理(スピリチュアル・バリュー)」から、「真実性と具象」へ至る不変的(普遍的)プロセスが、未だ「抽象の域」でジレンマを踏んでいる。つまり、スピリチュアルな道の実践者のあいだで、真に統合的な成長が開花していくことは希であり、仮にあったとしても一瞬の出来事に終わる・・・。

 
前文で指摘したように、「ハートのチャクラの上」だけをスピリチュアルとみなす傾向(全体性は語るものの)の背後には、非常に根深い多くの歴史的、文脈的な要因があり、これらには、研究者や専門家のあいだにおいて、かなりの注意が払われていることは確認でき、実際、考慮されてはいる。

しかしながら、宗教的な伝統の文脈では、人間のある種の性質がスピリチュアルな意味が他の性質よりも正しく健全であるとして、「平静さは激情にまさり」、「超越は感覚的な身体経験にまさり」、「貞操は性的放縦にまさる」といったことが広く自我に浸透している。
 

文化面での文脈のなかでは、人間の意識のさまざまな価値を出現させ、成熟させていくためには、『人間の原初的で基礎的な次元(身体、本能、性及び感情のいくつかの面)』を抑制することが、ある時点では必要なことであった。なぜなら、まだ発生したばかりで比較的脆弱であった自己意識とその諸価値が、かつての本能的な衝動エネルギーが有している強力な存在の中に、ふたたび吸収されてしまうのを阻止する必要があると考えるようになってしまった・・・。

 
そして何より、私たちは『性(セクシュアリティ)』がコントロールし難い本能と思っている ‼

そんな動物的本能をあからさまに語ることは、はしたないことだと過去も現在も抑制し、抑圧して避けてきた。特に性欲は抑え難い欲求なのだから表に出さないよう抑え込んでおかなければならないと、性を「得体のしれない怪物」のように恐れてきた。

しかし、人間がそう思うのは、私たちの性がそうした性であり、現代の文明社会の中で、実は天使である性を悪魔に変化させてしまう社会的あるいは文化的、国家的(このなかには歴史的宗教による支配も含む)支配の背景が何千年と続いてきた中での、「原罪」「カルマ」「因習」として扱われてきたからである ‼
 

実は、そこにこそ、私たちの「原初的生命の世界(生命エネルギーの次元)」から「超越的な意識世界(意識エネルギーの次元)」までを全包括し、統合し、創発(創造的進化)を生み育てる、「非二元的世界(禅の究極的な悟りから現代のITPやILPが提言する世界観)」をも抜き超えた『至高の悦=究極のエクスタシー(源なるエネルギーの次元)』が実在している・・・。

 
そして現在、その「源(一なるものの前=道)」を故意的に葬り去ろうとする何千年もの苦悩が厳然と横たわり、いつしか宇宙や自然、そして生命や進化の神秘から果てしなく遠ざかる「流浪の生の旅」へと投げ出されてしまった。

今日まで、抑制され、抑圧され、禁じられてさえきた「人間の原初的・基礎的諸次元(身体、本能、性、ハート)」の中には、疎外されていた『TOU(徳)・・・この意味については今後述べる』に位置する、「女性と女性的価値と役割」、「官能的な欲求」、「親密な関係」、「性の多様性」などの次元を、真に統合的なスピリチュアルな生への中心的な性質として復帰させる必要がある ‼
 

そこでは、これらの世界が健全な働きを回復できるよう、男性的原理に位置する「精神(メンタル)」のみによって制御されるべきといった思い込みや、「マインド」重視の発達の原理や力動に従うことを一旦は手放し、人間の原初的次元がそれら自身の発達の原則や力動に基づいて癒され、成熟することができるような空間を作り出すことから始まる・・・。

 
私たちの身体、本能、性、ハート(感情のいくつかの面)が自律的に成熟することを許したとき、それらははじめてマインドと同じテーブルにつき、真に統合的な発達とスピリチュアルな生を共創造(co-create)へと向かわせる。

そして、身体的世界や生命世界が、スピリチュアルな生に招き入れられ、私たちのアイデンティティが「超越的意識」だけでなく、「内在的なスピリチュアル・エネルギー(性なる精)」にまで広がったとき、全き人間とこの世界は「ヒエロファニー(聖なるものの現われ=聖なる精)」となり、人間と宇宙のスピリチュアルな変容と進化が起きる最先端の時間と場所が、ほかならぬこの具体的な物理的現実(今、ここ)にあることに気づく(帰結する)のである ‼
 

スピリチュアル・ヴィジョンは、地球は人類の姿をその内なる光により『身体化された天国(一なる世界)』へと進化・変容(共創造)し、そこは宇宙の中にあって、身体化された愛をあらゆる具象(真なる信)で満たされた、独特の時空と化すだろう。

その理想郷(一なる世界)へのプロセスは、ほかならぬ『老子書:TAO(タオの秘伝)』、及びいくつかの革新的なプラクティス(修行・実践)とルネサンス(文化的革命)をとおして、「原初的で内在的な生命エネルギー(人間の生得の力)」の創造的な力(ダイナミクス)にふれ、徐々にそれを「超越的意識エネルギー」と結び合わせるための『ラディカル・プラクティス(本質的で根本的な実践)』によって懐胎する・・・。

 
こうした両者の結びつきは、その個人の中で「エネルギーの軸」を生み出し、それは外部からの方向づけといった受動的な導きではなく、内部から方向づける能動的な「生命のダイナミズム」によって、ホリスティックに調和的にとりまとめるものである ‼
 

人間のあらゆる次元に宿る「創造性」、いわゆる心身の統合にしっかりと根差した「スピリチュアルな生」と言われるものは、もっとも生命的な潜在力に根ざすとともに、人間の全ての次元によって共創造される。そして、「創造性を宿した生」は、身体の中に存在し、それは身体知と呼ばれる知性をもった「生命のダイナミズム」である。それは、我々が完全な人間になる過程に潜み、その内部から出現し、全体を調和的にとりまとめる・・・。

 
そして、個人の統合的な健康と身体を取り戻し、日常生活から社会活動の場において、独自の可能性と創造性をあますことなく表現しながら、万物との一体化のなかで変容と進化をうながすものである ‼

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