『老子』が暗示した「真の常道」に精通する『生得の力』

『老子』が暗示した「真の常道」に精通する『生得の力』

 

- 老子の説く『非言語的世界の次元』 -

老子の説く『非言語的世界の次元』、つまり、老子の「道」に精通する『生得の力』は、「言語知的に解釈」されればされるほど『近くて遠い問題』として、いよいよ問題の見方の問題を膨らませていく。

そして現在、その『道(源なるもの)』を故意的に葬り去ろうとする何千年もの苦悩が厳然と横たわり、いつしか宇宙や自然、そして生命や進化の神秘(聖なるもの)から果てしなく遠ざかる『流浪の生の旅』へと投げ出されてしまった・・・。

そのためここ二千数百年来、決定的にその『崇高で深淵(勇壮かつ玄妙)なる老子の道(TAO/タオ)』に繋がる(「道」に精通する)「真理(スピリチュアル・バリュー/精神的価値)」から、「真実性と具象へ至る不変的(普遍的)プロセス」が、いまだ『抽象域でジレンマ』を踏んでいる。

然れども、本来の真性をまもり、物欲に煩わされない『老子の思想と智慧』は、時代の変遷によって消えてなくなることはなく、今世紀においても『老子』その人その書は生き続けている。

尚且つ時代が進むにつれ、その「精神的価値」は洋の東西文化の隔たりを超え、より『力動を増すもの』となっている ‼

2012年12月21日
老 子 陽 明



 

『老子』が暗示した「真の常道」に精通する『生得の力』

老子の『語り得ない道(不変の道)』は一般の事物とは異なる、「有るようで無く」「無いようで有る」、『抽象的な形而上の存在』である・・・。

老子は、「形而上的な道の本源性と宇宙の生成性」を強調するが、それはことばにはできないものと考え、「道を神秘化、虚無化するように覆い隠した」ため、『ことばと「道」の関係に矛盾が生じる』ことになった。

また老子は『隠者として「不言」「貴言」「希言」の唱導者』として、彼は著述をせず、弟子もとらなかったが、関所を出るときにだけ『堂々たる五千字の思者自道』を残した。
 

故にこの「発憤の書」は、彼が唱導するところの『清静無為の境地』、いわゆる「言語文字の軽視と体験の重視」と矛盾していることなどが、後の学術史上において議論を百出させ、こうした諸矛盾がいまもなお『老子に影を落としている要因』に他ならない ‼

 
『老子』その人その書は、冒頭からすぐさま『道をなす』という本体論について、ある「具体的な道」から「哲学の道」へと『道に形而上の超越』を加えた・・・。
 

つまり、「“道”が語り得るものであれば、それは不変の“道”ではない。」【第1章】とし、「不変の道」と具体的な「語り得る道」とを分け、そこから『道』に「形而上の性格」を賦与したのである ‼

 
この語り得ない『不変の道』は、宇宙万物の本体論としていることからすれば、『存在の本体』ということになり、世界の生存論としては『本源』ということになる。それは本体的な第一存在の『道』を、ことばで表現できないということによって制限を加えられたものであるため、『この本体に関してはいかなる規定性ももたず、ただ純粋無な思惟の立ち上がるはじめの状態(初期の状態)』であるとみなしている・・・。
 

つまり『道』こそは、「純粋存在であり、分析不能な純粋存在もしくは純粋無」であり、その「普遍的規律の先在性と規律を最高の実体(実在)」とした。
 

其の上で老子の説く『道』は、意志をもった人格としての「神」もしくは「上帝」ではなく、『道の精髄(本性)は無為自然にこそある』と断言する ‼

 
老子が唱えるその核心とも言える『無為』とは、「感覚世界を超越した実在」、いいかえれば『道』にほかならない。そして、『自然』とは、「人間のはからいを棄てるところに現われる絶大で霊妙な働き」を意味する。

さらに老子は、『無為(感覚世界を超越した実在)とは、私利私欲を排除して、清静虚明な人間本来の精神に立ち返り、自然(人間のはからいを棄てるところに現われる絶大で霊妙な働き)と一体になることである』と説く。

その窮極においては「無為即自然」「自然即無為」ということになる。つまり、『実在の側からいえぱ自然』『人間の側からいえぱ無為』ということである。
 

何度となく述べるように、老子の『道』は「抽象的な絶対」であり、「一切の存在の根源」であり、「自然界中の最初の原動力」であり、「創造力」である ‼

 
この幽玄で、影も形もなく名前をつけようもない『「道」という認識対象』に対しては、一般的事物の感性の認識を超越しており、論理的推理の認識でもなく、全き人間の心の奥底にあって、事物に対し子細な観察を加え認識させる『形而上の心の鏡』、つまり、『生命の「鏡」の体験』とも言える『生命体験( 注2 生得の力)にもとづいた悟りと観照』を通してでしか把握できないのであり、それゆえ、主体の心が静かで落ち着いた境地にあるときに、『総体的な「道」』を直観的に体得し理解するのである・・・。
 

そして『老子』の説く『非言語的世界の次元』、つまり、老子の道に精通する『 注2 生得の力』とは人の本性に宿るものであり、その『生得の力』こそが「道」の精髄である『無為自然の本性』をも把握させる鍵となる ‼

 

【参照1】西洋的思想における『永遠の哲学』と呼ばれる世界観

先にも述べたように、老子の説く『非言語的世界の次元』、つまり、老子の「道」に精通する『 注2 生得の力』は、こうして「言語知的に解釈」されればされるほど、『近くて遠い問題』(それはある意味、現代における紛れもない「スピリチュアルへの認識と弊害、そして混乱」として、いよいよ問題の見方の問題を膨らませていく・・・。
 

実はここに、西洋と東洋ならぬ『コンテクスト』の差異、特に西洋的なものとしての東洋の哲学・思想の解釈に、誤解・誤読と思い込みが多く観られるのである ‼

 
例えば、時代と文化を越え、西洋における『永遠の哲学』と呼ばれている世界観は、キリスト教から仏教、タオイズムに至るまでの「世界の偉大な叡智の伝統の核心」を形成しているばかりか、東西、南北の多くの「偉大な哲学、科学、心理学の核心」のほとんどを形成してきたと主張する・・・。
 

この『永遠の哲学』の核心が『存在の大いなる連鎖』という考え方であり、基本的な考え方は「リアリティは単一の次元ではなく、幾つかの、異なった、しかし連続している次元で構成されている」と言うものである。

『顕現されたリアリティ』とは、したがって「異なった段階(ないしレベル)」で構成されており、ときに『存在の大いなる連鎖』は三つの大きなレベル、「物質―心―霊(スピリット、精神)」として提示される。

他の提示方法では「物質―身体―心―魂―霊」の五つのレベルでも考えられる。もっと詳細なレベル分けとしてヨーガのシステムでは何十にも明確に区分され、それは「低位の、最も粗く、最も意識の少ない段階から、高位の最も意識の高い段階まで連続している意識の次元」が提示されている。
 

つまり、『永遠の哲学』の中心的な主張は、人間は低位の意識段階から高位の意識段階までの「階層(レベル)」を登って成長し、あるいは進化できるということ、それはすべての成長と進化が「大いなる連鎖」という「階層性(ヒエラルキー)」を展開しながら、その完全性への到達を目指すことを示している ‼

 
『存在の大いなる連鎖』とは、ハーヴァード大学で学び、その後は学際的な学問分野である「観念史」を確立したアーサー・ラヴジョイが、「文明化された人間の歴史において、ほとんどの間、主要な公認の哲学」とした世界観である・・・。
 

つまり、「東洋と西洋における、より細密な探究心を持つ人々、偉大な宗教の師たちが様々な仕方で関わってきた世界観」とは、何らかの形での『永遠の哲学』、『存在の大いなる連鎖』の哲学のヴァリエーションであると主張する ‼

 
ヒューストン・スミスがその素晴らしい著書『忘れられた真実』で世界の偉大な宗教を一言でまとめたように、それは「存在と知の階層」・・・。
 

チュギム・トゥルンパ・リンポチェが『シャンバラ ― 聖なる戦士の道』で述べたように、「天、地、人という階層」は、インドからチベット、中国に至るまで、神道からタオイズムに至るまで、「アジアの哲学に浸透している基礎的な観念」であり、それはまた「身体、心、霊(スピリット、精神)」に等しいことを指摘している ‼

 
歴史的に研究されてきた『永遠の哲学』、その核心である『存在の大いなる連鎖の概念(観念)』は、人間の文明の歴史のほとんどにわたって「哲学の主流」となってきた・・・。
 

それは普遍的であり、したがって諸文化を横断して、「身体―心―霊(スピリット、精神)」から構成される「人間性(さらに一切の衆生)」の核心をついているとも主張する ‼

 
そして私たち人間には(少なくとも)、すべての大いなる連鎖に対応する『三つの知の眼(知のモード)』があることを示すことができ、そこにも「階層(レベル)」があるとしている・・・。
 

つまり、⓵ 物質的な事象と感覚の世界を捉える(開示する)『肉体の眼』、⓶ イメージ、概念、観念など、言語と象徴の世界を捉える(開示する)『心(理知)の眼』、そして、⓷ スピリチュアルな経験や状態、つまり、魂と霊(スピリット、精神)の世界を捉える(開示する)『観想(般若)の眼』である ‼

これらは、身体から、心、霊(スピリット、精神)に至る『意識のスペクトル』を単純化したものであり、世界のすべての叡智の伝統であるタオイズムからヴェーダンタ、禅からスーフィズム、ネオプラトニズムから孔子の哲学などは、すべてこの「大いなる連鎖に基礎をおいている」ことを論証している・・・。
 

それは「存在と認識」の様々な階層(レベル)を伴った、『意識の全体的なスペクトル』であると強調する ‼

 
すでに述べたように、『永遠の哲学』の中心的な主張は、人間は「物質―身体(生命)―心(ハート、マインド)―魂―霊(スピリット、精神)」の各段階(階層)を登って発達・成長し、あるいは進化しながら、「存在と認識はその完全性への到達」を目指して行く・・・。
 

この「永遠の哲学」の核心である『存在の大いなる連鎖』ないし『意識のスペクトル』の一方の端には、「物質と呼ぶ、感覚のない(少ない)、意識のない(少ない)」ものがあり、一方の端には「霊(スピリット、精神)」「至高神」「超意識」(それはまた、スペクトルすべての基底となる)がある・・・。
 

その間に並ぶのは、プラトン(実在)、アリストテレス(現実性)、ヘーゲル(包括性)、ライプニッツ(明晰性)、オーロビンド(意識)、プロティノス(抱擁)、ガラップ・ドルジェ(知性)など、呼び方の異なる「リアリティの次元」である ‼

 
それはステップを踏んで「段階的」「階層的」「多次元的」(言葉はどうあれ)に顕現する・・・。
 

叡智の伝統であるヴェーダンタでは、それは「鞘(コーシャ)」と言い、ブラフマンを覆う被層であり、仏教では、それは「八識」と言い、八つのレベルの識(アウェアネス)であり、ユダヤ教カバラでは、それは「知恵の木(セフィロト)」である ‼

 
『存在の大いなる連鎖』とは、単に階層主義などと言ったものではなく、実際にはアーサー・ケストラーの言う『ホロン階層』であり、包括性を増大させていく順位付けであり、高位に行けば行くほど、世界とその住人を包括していく・・・。
 

つまり、『永遠の哲学における階層性』という言葉の意味は、今では現代心理学、進化理論、システム理論にも使われるように、「単にその全体論的な能力(キャパシティ)に基づいて順序付けられた事象」に他ならない ‼

 
どんな『発達論的なプロセス』でも、「ある段階で全体であったものは、次の段階ではより大きな全体の部分」になる。文字は単語の、単語は文の部分であり、文は文節の部分である・・・。
 

いわゆるアーサー・ケストラーは『ホロン』という言葉を、「ある文脈において全体であり、それよりさらに大きな文脈において部分である」という意味で用いた・・・。
 

つまり、全体と言うのは、部分の単なる寄せ集めではなく、全体が多くの場合、部分の機能に影響を与えたり、あるいはそれを決定したりするのである ‼

 
したがって『階層(ヒエラルキー)』とは、「より増大するホロンの順序(ホロン階層、ホラーキー)」であり、『全体性と統合性の力の増大』を示している・・・。
 

いわば、『階層性という概念』は、現代におけるシステム理論、全体性理論(ホーリズム)の中核をなすもので、『永遠の哲学』において常にすでに、決定的に重要な中心概念をなしてきたのである ‼

 
そして『存在の大いなる連鎖』を構成するそれぞれの階層の輪は、より増大し、拡大する『自己同一性(アイデンティティ)』を示しており、それは、「身体という孤立したアイデンティティ」から始まって、「社会・共同体的(文化的)な心のアイデンティティ」、さらに「大いなるスピリットとの至高のアイデンティティ」へと、文字通り『すべての顕現とのアイデンティティ』へと進むことを示唆している・・・。
 

よって、(人間の)意識の進化、ないし展開の本質への理解がないままで、発達・成長・変容、あるいは発展のプロセスを理解しようという試みは、ほとんどと言って成功の見込みはないとの見解を強調する ‼

 
しかしながら、『永遠の哲学』は思想史上重要なキーワードの一つではあるが、時代により少しずつ異なった文脈で使用されてきたことが伺える・・・。
 

『永遠の哲学』と呼ばれるこの語は、16世紀(1540年)にアゴスティノ・ステウコーが著書『De perenni philosophia libri X』で初めて使用され、「あらゆる民族と文化に共通の真理」であるとされる思想であった。

17世紀には、ゴットフリート・ライプニッツが「すべての宗教の基礎となる思想」を示すのにこの言葉を用い、20世紀においてオルダス・ハクスリーは、『永遠の哲学(The Perennial Philosophy)』を出版し有名にした。

 
ハクスリーは『永遠の哲学』を以下のようにまとめている・・・。
 

 
1.物質、生命、心の世界の実体を成す神的リアリティを認識する形而上学
2.神的実在に類似する、もしくは同一の何かを人間のなかに見出す心理学
3.あらゆる存在に超越すると同時に内在している根拠を知ることを究極目的とする倫理学

 
ハクスリーが主張する『永遠の哲学』においては、古今東西で様々に異なる文化と時代に生きた人々は「現実、自己、世界、存在の本質に関して共通する知覚を記録している」という。

さらにこの知覚は「あらゆる宗教の共通の基盤を形成する」という・・・。
 

其の上で、「物理的世界は唯一の現実ではなく、それを超越した現実が存在している」と述べ、「物質界は感覚を超えた現実の影」であり、「人間は現実の2つの側面を反映している」とし、人間の物質的側面は「生成消滅という自然の法則の支配下」にあるが、人間のもう一方の側面である「魂と叡智」は、それを超えた「究極の現実(リアリティ)」に通じており、「人間には究極的なリアリティを認識する能力が備わっている」と結論づける。
 

よって宗教は、人間をこの「究極的リアリティ」と結びつけ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などでは「神こそがこの究極的リアリティ」であり、仏教や道教などの無神論的宗教でも「空や無が究極的リアリティ」とされると主張した ‼

 
このように、時代により少しずつ異なった文脈で使用されてきたことが明確に伺える、20世紀におけるオルダス・ハクスレーの『永遠の哲学(The Perennial Philosophy)』(1946年出版)では、「キリスト教の聖人の言葉」「ヒンドゥー教の聖典」「仏陀や高僧の言葉」「老荘の文献に共通する精神的な救済と慈愛・平和をもたらす、いつになっても必要とされ色あせない思想」をあらわす語となっている。
 

またハクスレーは、第二次世界大戦で疲弊した国際社会へのメッセージという性格をももつこの本の冒頭で、「永遠の哲学は、ゴットフリート・ライプニッツによって使われ始めたフレーズだ」と述べている ‼

 
確かにライプニッツは、1714年のニコラ・レモン宛書簡で次のように書いている・・・。
 

 
「真理はひとが思うより広まっています。しかし、粉飾されていたり、また、はっきりしなかったり、微かになったり、削られていたりすることが非常に多いです。付け加えによってゆがめられ、真理がそこなわれたり、あまり有用でなくなっていることもあります。古代人たち、あるいは(もっと一般的に言って)先人たちにおけるこの真理の跡を見出すなら、泥から黄金を、鉱石からダイヤモンドを、闇から光を取り出すことになります。それこそ『永遠の哲学』というものなのです。」

 
実際ライプニッツは、ここでいう『永遠の哲学』を実践していた・・・。
 

つまり彼は、プラトンの「宇宙創造論・魂の不死論」や、アリストテレスの「一と存在について」の考察などを自らの哲学に活かすのみならず、「古代中国の哲学」にも関心をもち、そこに「17世紀にも通用する真理」を見出していたのである。

例えばライプニッツは、古代中国の文化英雄とされる伏羲(ふつき)が古代ユダヤ人を教導したことさえ示唆している。しかしステウコは、時代的な制約から中国古典に目を通す機会がなく、中国哲学に『永遠の哲学』が含まれているか否かを論じることができなかった・・・。
 

後にイエズス会の宣教師たちが明や清にわたってヨーロッパ人に中国思想を紹介し、これを受けてライプニッツなどは中国哲学を『永遠の哲学』の理念に照らして吟味することができたのである ‼

 
ただ、ライプニッツ以前にも『永遠の哲学』という表現は使用されており、この点でハクスレーは正しくない ‼
 

具体的には、C.B. シュミットが記しているように、アゴスティノ・ステウコ(1497-1548)がライプニッツ以前にこの語を使い、彼に影響を与えたということになる。実際、ステウコは『永遠の哲学について(De perenni philosophia libri X)』で、「地域・時代に左右されない哲学(特に神学・宗教哲学)」があり、それは様々な文献に反映されているに違いないと論じている。

確かに、『永遠の哲学』は語義からして、15世紀以前にもあるだろうし、そもそも時間的起源をもたないとさえいえる。ただ、実質的には永遠である(かもしれない)内容に、新たな名が与えられ、自覚的にそれが探求されたという点に着目するならば、ステウコの著作はそうした自覚的探求の嚆矢といえるだろう・・・。
 

西洋の思想史的には、『永遠の哲学とその概念形成』を明らかにしようとするのであれば、ステウコについての考察は欠かせないと思われる ‼

 
いみじくも、19世紀に「様々な唯物論的な還元主義(それは科学的な唯物論から行動主義、実証主義に至っていた)」によって一時的に脱線させられた『存在の大いなる連鎖(存在の大いなるホロン階層)』、つまり、西洋における『永遠の哲学と呼ばれている世界観』は、時代と文化を越え、アゴスティノ・ステウコー「あらゆる民族と文化に共通する真理」から、ゴットフリート・ライプニッツ「すべての宗教の基礎となる思想」、そしてオルダス・ハクスリーが主張した、「人間には究極的なリアリティを認識する能力が備わっている」とされる『西洋的思想』は、20世紀において驚くべき復帰を遂げた ‼
 

それらは、ルパート・シェルドレイクの「形態生成場の階層」からカール・ポパーの「創発する特性の階層」、バーチとコッブの「階層的な価値を基礎にしたリアリティの生態学的モデル」、フランシスコ・ヴァレラの画期的な業績「自己生成システム(オートポイエティック)」、ロジャー・スペリー、エックルス、ペンフィールドによる「非還元的な創発因子の段階」などの脳の研究、ユルゲン・ハーバーマスの「社会批判理論(コミュニケーション能力の階層性)」に至るまでのほんの一例を挙げても、『存在の大いなる連鎖』が復帰したことが伺える・・・。
 

そして現在、『永遠の哲学』は「進化的なホロン階層の理論(場の中に場があり、それが無限に続く発達と自己組織化の全体論的な研究)」として再び多くの科学、行動理論の主要なテーマとなった ‼

 
さらに『大いなる連鎖の現代版(進化論的ホロン階層)とその自己組織化の原則』は、新しい洞察を付け加えながら、「大いなる連鎖の進化的な展開」に進んでいる・・・。
 

このことに誰も気が付いていないように見えるのは、それが様々に異なった名前で呼ばれているからであるが、しかし、いずれにしても、気が付いていようといまいと、それは進行している ‼

 
しかしながら21世紀の今、『永遠の哲学の復帰には、たった一つ、なすべきことが残されている』と訴える・・・。
 

 
物理学から心理学、そして社会学に至る現代思想において重要なたった一つの「統合的なパラダイム」とは、『進化的なホロン階層』である ‼
 

 
しかし、こうした正統的な学派は、『物質・身体・心の存在しか認めていない』と指摘する・・・。
 

 
つまり、『存在の大いなる連鎖』の内、「魂やスピリット(霊性、精神)などの高次の次元」は、同じ地位を与えられてはいない。それは、「存在の大いなるホロン階層の五分の三しか認めていない」と言えるのである ‼

したがって、なすべきことは「このホロン階層に残りの二つを導入すること」であり、『存在の大いなる連鎖』のすべてのレベル、すべての次元を認め、かつ敬意を払うこと・・・。

つまり、「物質と感覚の世界を開示する肉体の眼」、「言語と象徴の世界を開示する心の眼」、さらに「魂とスピリットの世界を開示する観想の眼」の『すべてに対応する知のモードを同時に認めることである』と指摘する。

 
よって、最後になすべきことは、『観想の眼を導入することなのである』と提唱するのである ‼
 

 
私たちは今こそ、『観想の眼』が、科学的で反復的な方法論によって、「魂とスピリットを開示する」のを認める時を向えた・・・。

このドラマティックで前例を見ない『統合的な未来展望(インテグラル・ヴィジョン)』は、人間の意識と行動の包括的な探究における「多次元的(統合的)なアプローチの重要性」を強調することになる ‼

『統合的なアプローチ』とは、「古代の叡智と現代の知識を結び付けること」「先駆的で本質的な洞察に敬意を払い、包含するとともに、かつて無かった新しい方法論と技術論を付け加えようとするもの」である。

これこそが、様々な文化的な相違を尊重しつつ、普遍的な文脈に置き直すという意味で、最良の、そして真の意味での「多元文化主義」である。

『インテグラル・ヴィジョン』では、「インテグラル・パラダイム(メタ・パラダイム)」となる『統合的な指示』に基づく「インテグラル・アプローチ」、つまり『統合的な実践』を要求する ‼

それは循環的に理解され完結するものになるだろう・・・。

あえて言えば『最終的な帰郷』、すなわち「現代人の魂とスピリットを本来の人間性の魂とスピリットに再び織り込む」ことであり、これが『多元文化主義(マルチ・カルチュラリズム)』の本当の意味でもある ‼

 
この精緻で例えようもなくスケールの大きな「統合的なヴィジョン」は、現代における最も包括的な哲学思想家『ケン・ウィルバー』によって、今から遡ること約20年前に提示されるまで、誰も完全には把握していなかったものである・・・。
 

確かに、彼のずば抜けたヴィジョンが持つ、「包括的で統合的な理論」を理解する鍵となる著書『進化の構造(1996年)』、その中でウィルバーが展開している『統合的理論』は、知的な思想レベルで言えば、私たちに希望を与える唯一の『世界哲学』であると言って過言ではない ‼

簡単に言えば、「哲学は合理性の範囲内では、やるべきことをすべてやり尽してしまった」のである・・・。
 

つまりは、知的言語、あるいは論理ないし知的レベルで考えている限り、私たちはけっして『自我と合理性の外(相対的の二元性の世界、「肉体の眼」及び「心の眼」の世界の外)』に出ることはできない ‼

 
また、彼のずば抜けた仕事を簡単に言えば、『様々な知の領域の真理性の主張/ウィルバーの四象限理論(それぞれの知の領域で何が真理とされているのか、ということ)、言い換えれば、それぞれの知の領域において人間のために提供されたすべての真理を統合し、一貫性のあるヴィジョンに織り上げた』のだが、その領域は一例を挙げても、おおよそ「一人の人間としての知的作業・能力の幅をはるかに超える領域を網羅(カバー)」していると言える・・・。
 

そこには、物理学から生物学、環境科学、カオス理論とシステム科学、医学、神経生理学、生化学、アート、詩、美学一般、フロイトからユング、ピアジェに至る発達心理学と心理療法のスペクトル、西洋のプラトン、プロティノスから東洋のシャンカラとナーガールジュナに至る「存在の偉大な連鎖」の思想家、デカルトからロック、カントに至る近代哲学者、シェリングからヘーゲルに至る観念論者、フーコーとデリダから、チャールズ・テイラー、ハーバーマスに至るポストモダニスト、ディルタイからハイデッガー、ガダマーに至る主要な解釈学派、コント、マルクスからパーソンズ、ルーマンに至る社会システム理論家、世界宗教の東西にわたる偉大な瞑想的伝統の中に至る神秘・観想学派など、途方もない領域なのである・・・。
 

そして、どのような領域を探究するに当たっても、そこにはウィルバーが『ある一定の抽象レベルからその領域を見ている』ことが伺える。そのレベルに達すれば、様々に対立するアプローチが実際は合意していることが見て取れるのである ‼

 
彼の主張は明快である・・・。
 

 
「どんな人間の考えも100パーセント、間違っているとは考えられない。どの方法が正しく、どれが間違っているとするよりも、どれもが正しいが部分的なのだと仮定する。そして、このような部分的な真実のどれか一つを取り上げて、他を捨て去るのではなく、どのようにそれを組み合わせることができるのか、どのように統合できるのかを考える。」

 
同時に彼は付け加える・・・。
 

 
「あまり大げさにとる必要はない。これは単に志向的な一般化にすぎない。細かい点はすべて読者が埋めるのに残されている。」

 
簡単に言えば、ウィルバーは概念的な拘束衣を提供しているのではない。まったく逆なのである ‼
 

 
「私は、コスモスにはあなたが考えるよりずっと広く自由な場所があることを示したい。」と述べている。

 
そして彼は美しい一編の詩を紡ぐ・・・。
 

 
『スピリットの眼において、私たちは出会う。私はあなたを見つける。そして、あなたは私を。奇跡とは、私たちがお互いを見つけ出したことである。この真実こそ、疑いもなく、まさにスピリットが絶えざる存在であることの最も単純な証拠なのである。』

 
スピリットはたった今、この文を読んでいる、まさにあなた自身なのである ‼
 

つまりウィルバーは現在、力強い蘇りを見せている『非 ― 二元性(ノン ― デュアル)』を、ある種「スートラ」の形で説いている。

「非 ― 二元」とは、世界の叡智の伝統である「永遠の哲学」の核心にある教えであり、『秘教(タントラ)』である。それがどんなものであるかを言葉で言うとパラドックスをきたすため、ウィルバーのように「指示」の形で示さざるを得ない・・・。
 

この伝統は20世紀において、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジ、鈴木大拙、エックハルト・トーレによって力強く蘇った ‼

 
上記の四名について、ウィルバーも高く評価しており、ウィルバーの名も勿論、ここに加えられるだろう・・・。
 

【参照2】現代の西洋文化における『統合的な成長』と『スピリチュアルの再構築』

そして現在、ウィルバーをはじめ多くの宗教的伝統にかかわる「スピリチュアル・リーダー」や「サイコスピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)」の研究者や専門家、及び探究者(教師・指導者・実践者)たちの間では、人間は『統合的な成長』が重要だという共通の認識が芽生えている・・・。
 

『統合的な成長』とは、身体、本能、ハート、マインド、意識という人間のすべての次元が、人間の多次元的な生成に対し、同等の立場で協同して『共創造的に参与する発達プロセス』である ‼

 
こうした共通認識が生まれている背景には、「偏った発達は多くの弊害を生みだす」という自覚がある・・・。
 

この弊害に関して、ほんの数例をあげておくと、スピリチュアルなバイパス(迂回)の問題( Welwood, 2000)、スピリチュアルな物質主義とナルシシズム(Caplan, 1999;Lesser, 1999)、攻撃的なスピリチュアリティとスピリチュアルな防衛の問題(Battista, 1996)、グル弟子関係における倫理的およびサイコセクシャルな問題(Butler, 1990;Kornfield, 1975;Kripal, 1999)、スピリチュアルな体験を統合することの難しさ(Bragdon, 1990;Grof & Grof, 1989)、そして、身体から生命力を奪うこと、および原初的な性エネルギーの抑制(Romero & Albareda, 2001)などがある。

 
つまり『統合的な成長』とは、人間のすべての次元(身体・本能・性・ハート・マインド・意識)を統合し、『完全に身体化されたスピリチュアルな生(統合されたスピリチュアルな生)』へと発達してゆくプロセスを意味する・・・。
 

心身の統合にしっかりと根ざした、『統合されたスピリチュアルな生』という考え方は、世界の宗教的文献のなかにも見られる。

たとえば、「シュリ・オーロビンド」のいう『綜合ヨーガ』や、「キリスト教」でいわれる『受肉という現象』などである・・・。
 

しかしながら、現代の西洋文化のなかには、人間の生のなかでこの潜在的可能性を実現させるための効果的な実践を探究し、発達させようという試みは、多くは存在していない。 もっとはっきりと言えば、身体や、本能、性、感情の世界の成熟については、さしたる関心が向けられていないのだ ‼

 
そして現在、『自己の心身(肉体と意識)両面の統合』にしっかりと根ざした実践の提案が示されている・・・。
 

それらの『統合されたスピリチュアルな生』とは、偏った発達のもたらす緊張や矛盾から解放されるだけでなく、人間のすべての属性の成熟と統合に基礎を置こうとする『スピリチュアルの再構築』とも捉えられる ‼

 
おそらく、この可能性は、多くの宗教的伝統に対して現在すすめられている見直しの作業とつながっている・・・。
 

たとえば、マシュー・フォックス(Fox, 1988)の「キリスト教にとってのクリエーション・スピリチュアリティ」、マイケル・ラーナー(Lerner, 1994, 2000)の「ユダヤ教の再生と解放のスピリチュアリティ」、ドナルド・ロスバーグ(Rothberg, 1998)の「社会にかかわる仏教」などの見解がある。

 
これらの人をふくむ多くのスピリチュアル・リーダーや著者たちは、自分たちの伝統の再構築を提案し、そのなかで、これまで抑制され、抑圧され、禁じられてさえきた『人間の諸次元(たとえば、女性と女性的価値の役割、身体の承認、官能的な欲求、親密な関係性、性の多様性など)』を統合しようとしている・・・。
 

『統合されたスピリチュアルな生』を原初的な潜在力や本能的生に根づかせることの重要性は、マイケル・ウォシュバーン(Washburn, 1995)の「トランスパーソナルな発達の螺旋モデル」においても、またハリダス・チョードリィ(Chaudhuri)による「シュリ・オーロビンドの統合ヨーガの再考」においても、中心的な意味をもっている(Shirazi, 2001)。

 
そのような『スピリチュアルの再構築』に対する試みおいて、サイコスピリチュアルな修練だけでなく、身体的な実践を含む『統合的・変容的な実践(ITP/integral transformative practice/インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス)以下ITPと略』への現代の提案には、主に3つある。(Murphy, 1993;Leonard & Murphy, 1995;Wilber, 2000a, 2000b)
 

これらは重なる点も多いのだが、彼らの提案のなかには、サイコスピリチュアルな修練だけでなく、身体的な実践もふくまれている・・・。

現代のさまざまな『ITPプログラム』は、西洋と東洋の伝統や流派から取り入れられた技法や実践を組み合わせて成り立っている。
 

そして、『ITPの方法』を提示するうえで、「マイケル・マーフィー」と「ケン・ウィルバー」はすぐれた貢献をなしてきた ‼

 
その『ITPプログラム』の第一の提案は、「マイケル・マーフィー」のものである・・・。
 

彼は「シュリ・オーロビンド」のいう『統合的ヴィジョンとヨーガの綜合』という点に触発され、「リチャード・プライス」とともに、1962年にエサレン研究所を設立し、エサレンでは『全人的成長をうながすこと』を目的とした。
 

厳密な調査のもとに書かれた『身体の未来』(The Future of the Body)のなかで、マーフィー(Murphy,1993)は、ITPが人類の進化にとっていかに重要かという点について説得力のある議論をしているだけでなく、ITPの基本原理や潜在的な利点について、かつてない広範な議論を展開している ‼

 
そしてマーフィーは、伝統的な『トランスフォーマティブ・プラクティス(変容のための修行)』に見られる「4つの欠点」をあげている・・・。
 

すなわち、「①個人の習性が強化される」こと、「②限定的な信念が永続化される」こと、「③バランスのよい成長が阻止される」こと、「④特定の経験にのみ焦点があてられる」ことである ‼

 
そのうえでマーフィーは、より統合的な発達を促進するために使うことのできる「エクササイズ、技法、プラクティス」の『幅広い一覧』をつくりだしている・・・。
 

そのいくつかをあげておくと、『身体的な自覚と自己統制』のための、センサリー・アウェアネスやフェルデンクライス・メソッド。『生命力を活性化』するための、深部サイコセラピー、アスレチック・トレーニング、および身体的な修行。『愛を育む』ための、共感的なヴィジュアライゼーション(観想イメージ法)、相互的自己開示、自己吟味。『精神的認知』のための、サイコセラピー、哲学的内省、哲学研究、神話、アート・ワーク、宗教的シンボル。『個性化と自己感覚』のための、気づきの瞑想、神秘的状態の鍛練、カルマ・ヨーガなどである。(このリストは、マーフィーが示した、人間のさまざまな属性とプラクティスの代表的な一部の例にすぎない。この範囲がどの程度まで広がるのかを正しく見きわめるには、彼の著書を読むことをおすすめする。)

 
つぎにマーフィーは、統合的な発達には欠かせないと考えられる『5つの相互に関連する徳と特性』。すなわち、「正直、創造力、勇気、バランス、回復力」について述べている・・・。
 

そのなかでマーフィーは、「いかなる徳や能力であれ、それを育めば、ひとつ以上の創造的な属性を育むことになる。」(p.579)ということを強調している ‼

最後に彼は、色々と重要な指摘がある中で「これらのプラクティスは実践者一人ひとりの独自な性向に合致しなければならない。」ということを強く主張し、それゆえ「誰にでも普遍的に適用でき、厳密に選びぬかれた技法をそなえた唯一の(正しい)インテグラル・プラクティスなどというものは存在しない。」(p.579)と述べている。

『われらに与えられたる生』(The Life We Are Given)のなかで、マーフィーは「ジョージ・レオナード」の『ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント』のもう一人のパイオニアと一緒にITPを定義して(Leonard & Murphy, 1995)、「ITPとは、個人およびグループの身体、マインド、ハート、魂のなかにポジティブな変化を生みだす、複合的で一貫性のある一連の活動のことである。」(p.12)と述べる ‼

 
レオナードとマーフィーの考案したITPは、以下の活動を組み合わせたものである・・・。
 

すなわち、エアロビクス、低動物性脂肪の食事、メンターとコミュニティのサポート、ポジティブなアファーメーション(肯定的な内的宣言)、そしてもっとも重要なものとして『ITPカタ(ITP Kata)』と呼ばれるエクササイズを定期的におこなうことがある。

この『ITPカタ』は、ハタ・ヨーガ、武術、現代の身体エクササイズなどを取り入れ、バランシングとセンタリングのムーブメントからはじまる。つぎに、変容をうながすイメージをおこなう(これは、身体の健康、ハートを開くこと、創造性など、各実践者が自分で選んだ資質を高めるためにイメージ力を意図的に用いることである)。

そして最後に瞑想の時間がとられ、自己観察と観想的な祈りが組み合わされる。『ITPカタ』は40分ほどで完了するものだが、個人のニーズや希望によって時間を伸ばしてもよい。

 
レオナードとマーフィーの『ITPプログラム』は、ギリシアの原則である「アンタコロウシア」(antakolouthia)すなわち「徳の相互含有」をふくんでいる・・・。
 

その原則によれば、身体、感情、精神など、どんなレベルにおいても、あるスキルを磨いていくことは、他のレベルにもよい影響をおよぼすのである。

このようなトレーニングの領域横断的な相乗効果(シナジー)は、ITPの中心的な原則のひとつであり、人間のすべての次元に相互依存の関係があるため、精神や感情や身体の各レベルのプラクティスは有機体全体にインパクトをおよぼすと考えられる。
 

マーフィーによれば、ITPの究極的目標は「統合的な変容」あるいは「統合的な悟り」(integral enlightenment) である。すなわち「私たちのすべての属性、すべての多様な能力、そして潜在的な神性が、すべての部分のなかで花開くこと」(Cohen, 1999, p.90)である ‼

 
さらに最近では、「ケン・ウィルバー」(Wilber, 2000a, 2000b, 2001)も『ITP』について考察をしている・・・。
 

ウィルバーは、「ハワード・ガードナー」(Gardner, 1983/1993)の『多重知能の理論』を引きあいにだして、さまざまな「発達のライン(認知、道徳性、情緒、セクシュアリティ、自己同一性など)」は、比較的に自律的なものであると指摘する ‼

 
その意味は、『人によって、あるラインは非常に発達し、別のラインはあまり発達していない』ということである・・・。
 

この研究にしたがえば、「ある人は、認知のようなある発達ラインでは比較的高いレベルに、道徳性のような他のラインでは中程度のレベルに、スピリチュアリティのような他のラインではいまだ低いレベルにいることがある。」(2001, p.259)と彼は述べている。
 

ウィルバー(Wilber, 2000a, 2000b)はITPという呼び方を、「レオナードとマーフィーの統合的なプログラム」に対してだけでなく、人間のすべての次元を開発するものであれば、「どんなプラクティス」に対しても用いている。また、ウィルバーは、これらのプラクティスの成果は、『絶対的な悟りの達成』などと混同されるべきではないと付け加えている ‼

 
興味深いことに、ウィルバーはITPを、彼が人間の生の究極的な目標と考える「非二元的な悟り」や「ワン・テイスト」(One Taste)へ至るための『促進要因』とみなしている・・・。
 

ウィルバー(Wilber, 2000b)は、リチャード・ベーカー老師の口調を借りて、「悟りは偶然の出来事であり、これらのプラクティスが悟りを引き起こすことはできないが、悟りへと至りやすくすることはできる。」と述べている。

また、「ITPの背後にある考えはシンプルである。すなわち、より偶発的な状態に開かれようとするなかで、人間の心身のより多くの次元がはたらき、神聖なものが浸透しやすくなり、それゆえ人は偶発的な悟りを得やすくなるのである。」(p.39)とも述べている。

 
ウィルバー(Wilber, 2000b)は、「人間の基本的な次元をはたらかせるプラクティス」について、まず『6つの柱』を描き、彼自身の一覧を提示しいている・・・。
 

それらは、「①身体」、「②感情と性(プラーナや気)」、「③精神もしくは心理」、「④観想もしくは瞑想」、「⑤コミュニティ」、そして「⑥自然」である ‼

 
つぎに彼は、それぞれの次元を訓練するさまざまなプラクティスを示している・・・。
 

身体の次元に対しては、エアロビクス、ウェイト・リフティング、健康的な食事。プラーナに対しては、ヨーガ、気功、太極拳。心理的次元に対しては、心理療法、イメージ法、アファーメーション。観想的次元に対しては、坐禅、ヴィパッサナー、センタリングを導く祈り。コミュニティの次元に対しては、地域サービス、思いやりのあるケア、他者への積極的関与。自然の次元に対しては、リサイクル、ハイキング、自然の祭りである。

ウィルバー(Wilber, 2000b)は、「ITPの考えはシンプルである。6つの柱のそれぞれから、少なくとも一つのプラクティスを選び、それらを同時におこなうのである。多くの次元でプラクティスをおこなうほど、それらはますます効果的になり、偶発性に開かれた一つの大きな魂になる。」(p.39)と述べている ‼

 
最後にウィルバー(Wilber, 2000b)は適切にも、読者に対して以下のように警告している・・・。
 

すなわち、「ITPは、エゴの支配をもたらす自己愛的なゲームに陥るだけでなく、プラクティスを取りあげて選ぶという点は、私たちの文化に非常に広まっているスピリチュアルなカフェテリアへと簡単に堕落してしまうおそれがある。」(p.126)と。

 
要約すると、『現代のITPプログラム』は、今日の西洋社会のなかで利用できる多くの身体的、心理的、そしてスピリチュアルな訓練法から選びだされた「プラクティスや技法の折衷」によって成り立っている。これらのプログラムをとおして、実践者は自分たちのさまざまな特性をはたらかせるために、『自分用に個別化された統合的なトレーニング』を考案する・・・。
 

つまり、代表的な提案者たちによれば、ITPは究極的に「統合的な悟り(マーフィー)」をもたらしたり、「非二元的なワン・テイスト(ウィルバー)」の出現を最大限うながしたりするのである ‼

 

【参照3】伝統的宗教の見直しと現代のITPに含まれた『落とし穴(盲点)』

しかしながら、それら伝統的宗教の見直しと現代のITPに代表されるマイケル・マーフィーやケン・ウィルバーらの諸提案には、潜在的に含まれた『落とし穴(盲点)』が影を落としている(彼らも気付いている)・・・。
 

さらにここでは、現代の西洋社会のなかで統合的な生を発展させていこうとする試みそのもののなかに、『もっと微妙で、潜在的にはもっと有害な落とし穴がふくまれている』ということを指摘したい ‼
 

言わば現代の西洋では、「サイコスピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行、実践)」はほとんどの場合、『マインド(精神)の成長』を重視し、『人間の生命体験の原初的世界である身体的および本能的側面』を軽んじる傾向にある。(それらは後ほど述べるように、『老子』の説く「道」に精通する『 注2 生得の力』=『生命の「鏡」の体験とも言える「生命体験」にもとづいた悟りと観照』などをはじめ、既に述べたように、西洋と東洋ならぬ「コンテクスト」の差異、特に西洋的なものとしての東洋の哲学・思想の解釈に、誤解・誤読と思い込みが多く観られることの決定的な論証を示している。)そのため、好ましくない症状もさまざまに生じている・・・。

 
つまり、彼らの示した処方箋でさえ、現代の特徴である『マインド中心の成長モデル』を脱してはいない ‼
 

彼らの処方箋では、すでにあるプラクティスを各人のマインドが選びとり、それにコミットすることを求めているからである・・・。

手短に言えば、『ITPプログラム』は、人間のすべての次元の内の「精神的(メンタル)」な面が考案した統合訓練になってしまうのである。

つまり、実践者のマインドが、自分の身体、本能、性(セクシュアリティ)、感性(ハート)、そして意識を発達させるのに一番つごうのよいと思えるプラクティスや技法を一方的に決定してしまうのである ‼
 

結局のところ『現代西洋の教育』は、ほとんど排他的とまで言えるほどに「合理的なマインドとその認知機能の発達」にのみ焦点をあわせており、「人間のその他の次元の成熟」にはほとんど注意が向けられていない。その結果、私たちの文化では大部分の人たちが、大人になるころにはかなり成熟した精神的機能をもっているものの、『非言語的な世界』である「身体、本能、性、そしてある種の感情的世界」はほとんど発達しないままになっているのである ‼

 
西洋の生活様式にみられる極端な4 認知中心主義』を考えれば、統合的成長が精神面によってのみ方向づけられるということは、ほとんど避けがたいことのようにみえる・・・。


4
認知中心主義:

「認知中心主義」という言葉を用いるとき、それは現代の西洋世界のなかで、合理的で分析的なマインド(およびそれに結びついた道具的理性とアリストテレス的論理)が他の知の様式に対して有している特権的な地位のことを指している。ここで他の様式というのは、身体的、性・生命的、感情的、美的、想像的、ヴィジョン的、直観的、観想的な知のことである。それゆえ、マインド以外の次元が「認知的」でないと言っているのではない。すなわち、これらの次元が知識をとらえたり、その形成に創造的に参与したりできないと言っているのではない。

 

しかしながら、『認知中心主義』のいちばん悲劇的なところは、それが悪循環に陥り、それ自体を正当化してしまう点にあると考えられる・・・。
 

つまり、現代の教育では、身体や本能やハートが自律的に成熟するための空間がつくりだされていないので、これらの世界は、「精神に導かれたり、外側から導かれたりしなければ、進化の道に参与することができない」のである ‼

 
しかし問題は、それらが精神に導かれたり、外側から導かれたりしているかぎり、「人間のこれらの次元は自律的に成熟することができない」ということである・・・。
 

そして、精神や外部からの方向づけを求める気持ちが永続的に正当化されることになる ‼

 
この状況をさらに複雑にするのは、マインド中心の教育や生活が何世代もつづき、それに身体や本能、性、情熱などのコントロールや抑制がつけ加わってくると、これらの『非言語的な世界』はたんに未発達というだけでなく、「しばしば傷つき歪んだものになり、退行的傾向があらわすようになる」ということである・・・。
 

したがって、そのような個人がこれらの『非言語的世界』に導かれていくと、ふつう最初に出くわすのが「葛藤や恐れや混乱の層」であり、そのため、かえって、これらの世界が健全に進化するためには「精神によって制御される必要がある」という深い思い込みが永続化されることになる ‼

 
しかしながら、通常ここで見落とされているのは、この層の下にある『本質的な原初的知性( 注2 人間の生得の力)』である・・・。
 

もしそこにふれることができれば、「その葛藤の根を癒すことができるだけでなく、これらの世界の成熟と進化をその内側から促進すること」ができる ‼

 
そこで必要となるのは、「マインドが適していると考える発達の原則や力動にしたがうことではなく、人間のこれらの次元が、それら自身の発達の原則や力動にもとづいて癒され、成熟することのできるような空間をつくりだすこと」である・・・。
 

そして、私たちの「身体、本能、性、そして感情の一部」が自律的に成熟することを許されるとき、それらははじめてマインドと同じテーブルにつき、『真に統合的な発達とスピリチュアルな生を共創造』することができる ‼

 
発達論的に言えば、『統合』のまえに、人間のこれらの次元は『分化』されなければならないのである ‼
 

最近では、ケン・ウィルバーらの長年の研究と考察による『統合的な生活の実践(インテグラル・ライフ・プラクティス/integral life practice/ILP)』の提案によって、いくらかの実践における改良等が見受けられるが、広く一般的に理解され、実践され、そして現実的な私たちの世界(個人の生活、社会、政治、経済、文化、自然)に対する『ラディカル(根本的)で革命的な文化的衝撃(全人的・地球規模的変革)』には至っていない(まだまだ時間がかかる様相)・・・。

 
逆説的に、ウィルバーが強調するポストモダンにおける『フラットランド(平板な世界)化』は、ここに来て急激に進行している ‼
 

皮肉にも21世紀の今、『多様性の中の統一性の実現化』と言う実りある対話と相互作用、その『本格的な統合』に向かう過程における『本質的な分化』を前にして、その実現は遂に果たされぬまま、『永遠の哲学』として歴史の中に返されてしまいかねない『落とし穴ならぬ盲点』が見え隠れする・・・。

既に述べたように『統合的な成長』とは、身体、本能、ハート、マインド、意識という人間のすべての次元が、人間の多次元的な生成に対し、同等の立場で協同して5 共創造的に参与する発達プロセス』である ‼
 

5 共創造的に参与する発達プロセス:

この『共創造的に参与する発達プロセス』には二つの基本的要素がふくまれると考えられる。それが『統合的プラクティス』と『統合的トレーニング』である・・・。

『統合的プラクティス』は、人間のすべての次元の自律的成熟を促進するもので、それらが独自の知性をあらわし、調和的に統合され、発達プロセスに共創造的に参与するように準備する。統合的プラクティスは、すべてのレベルにおける新しい潜在力と質と能力を「生みだし」、「引きだす」のである。

『統合的トレーニング』とは、人間のすべての次元をそれぞれの発達の原則と力動にもとづいて訓練することである。統合的トレーニングは、統合的プラクティスから生じてきた、あらゆるレベルの潜在力と質と能力を「鍛錬」して「強化」する。

『統合的プラクティス』と『統合的トレーニング』の区別は重要である・・・。

ある意味で、『現代のITPのいろいろなプログラム』は、すでにある技能の「トレーニング」や「鍛練」をより重視しているように思われ、新しい質や能力があらわれてくる条件づくりには、あまり関心が払われていない。しかし、そうした質や能力のいくつかは、その人独自のものである。トレーニングだけを頼りにしようとすることは、西洋の教育における「男性的」パラダイムと軌を一にしている。

西洋の教育というのは、「技能の習得と、精神による学習の方向づけ」に基礎を置いている。したがって、統合的成長がおもに「統合的トレーニング」に基礎を置くならば、精神が人間のその他の次元を植民地化し、統合的成長のプロセスを精神が指揮することは、ほとんど避けがたくなる。うまくいけば、「精神が構成したITPプログラム」は、個人の統合的な健康を促進するかもしれない。

この『統合的な健康』は、ふつう統合的な成長や変容と重なりあうものだが、それらと決して混同されるべきではない。精神が人間のその他の次元を管理することは、悪くすれば、それらの次元の真の声や、知性や智恵を押し殺したり、押し流したりすることになる。それは長期的にみれば、統合的な健康に対して取り返しのつかない結果をもたらしかねない。

したがって、意図的なトレーニングは大切ではあるが、基本的に重要なのは、「女性的」な空間をつくりだすことによって、それを補完することである。女性的な空間のなかでは、私たちの内にひそんでいる無限の潜在力が、身体をとおしてあらわれてくる。さらに、独自の潜在力の自然な展開や力動的発達が押し流されてしまわないように、統合的プラクティスが統合的トレーニングに先行しておこなわれる必要がある。

大半のサイコスピリチュアルなプラクティスや技法は、人間の経験と成長を特定の方向に形づくったり導いたりするという意味で、意図的なものである(たとえば、Fenton, 1995を参照)。しかしながら、たしかに多くの点で有益である反面、身体や本能や感情の諸世界が成熟するまえに意図的なプラクティスをおこなうことは、それらの次元のもっとも独自な潜在力の発現を妨げるだけでなく、多くの傷や葛藤をそのまま放置することになってしまうかもしれないのである。

そこで、『統合的トレーニングのプログラム』が計画されるまえに、身体や本能や感情の諸世界は、それら自身の発達原則にしたがって、『癒しと発芽と成熟のプロセス』に入る必要がある。そうでなければ、長い目で見たとき、「統合的プログラム」は、生命力を欠き、停滞し、葛藤をふくみ、『真の創造性を欠いたサイコスピリチュアルな生』を導いてしまうことにもなる。

一例をあげて、ここで示そうとしている区別を明らかにしてみたい・・・。

ハタ・ヨーガからエアロビクス、ウェイト・リフティングにいたるまで、身体の開発を目的とするプラクティスや技法が数多く存在する。明らかに、これらのプラクティスは価値のあるものとなりえるし、発達の節目にある多くの人たちの健康や成長を効果的に促進することができる。しかしながら、これらの技法をとおしてのみ身体を開発していくなら、それらがマインドによって選ばれたり、外的基準(たとえば、身体の位置、姿勢、動き、外観など)によって規定されていると、身体の自律的な知性の発現が阻止されてしまうおそれがある。言いかえると、これらのプラクティスは、身体の最適な発達にとっていっそう自然で、生命力にみちた位置や動きや姿勢を、身体そのものが生みだしていくことを妨げてしまうかもしれないのである。

たとえば、筋肉が衰えている場合におこなうには適切とされているものの、ウェイト・リフティングは、身体のプライドを高め、エネルギーの鎧をつくりだしてしまい、その鎧のために、「身体が生命エネルギーと意識エネルギーの両方の流れにふれることを妨げてしまう」のである。真の身体的成長を促進するためには、身体にふれ、その時々の状態や欲求を知り、それ自身のプラクティスや能力が生まれるための空間をつくること。いわば、『それ自身のヨーガを考案すること』が決定的に重要である。

ソバツスキー(Sovatsky, 1994)がヨーガを「性愛のアート」(ars erotica)として解釈しているように、ヨーガの姿勢(アーサナ)は最初まず、身体とその生命エネルギーのなかから自然にあらわれでたものである。ソバツスキーは「内的な知に導かれて、プラーナは、身体が必要とするまさにそのとおりに身体を動かす」(p.96)と述べている。興味深いことに、ソバツスキー(Sovatsky, 1994)は、いくつかのヨーガのテキストで、840,000ものヨーガの姿勢が記されていると報告している。実際、レオナードとマーフィー(Leonard & Murphy, 1995)は「身体のなか、つまり脈動、呼吸のリズム、関節の曲げ伸ばしのなかには深遠な叡知がある」(p.145)と強調している。

そしてさらに、以下の点を付け加えたい・・・。

すなわち、身体が生命エネルギーと意識エネルギーに開かれるとき、身体はそれ自身のリズム、習性、姿勢、動き、そしてカリスマ的な儀礼を見いだすことができるのである。要約すると、このプロセスは、4つの大まかな連続した段階として描かれる。すなわち、「①身体の現在の状態とつながること」、「②その欲求、声、創造的な衝動へ耳を傾けること」、「③欲求や声や創造的な衝動に応えるプラクティスを発展させたり選択したりすることをとおして、身体の癒しや成熟をうながすこと」、「④身体発達のダイナミックスにしたがって、発生してきたスキルや能力をトレーニングすること」である。

人間のそのほかの次元の発達に対しても、それぞれの特徴に応じたちがいはあるにせよ、同じことが言える・・・。

ここで二つの重要な点は、第一に、このアプローチを、自我的なマインドがプロセスをコントロールする自己中心的な統合的プラクティスからはっきりと区別する必要がある。それとは対照的に、このアプローチは、マインドに対し、その自我的なコントロールを謙虚に手放してもらうように要求する。そのためには、まずマインドに他の次元の成熟の手助けをしてもらい、つぎに、マインドがみずからを開いて他の次元から学べるようにする。マインドがそのプライドを手放したとき、正確なプラクティスが徐々に内側から出現してくる。

第二に、言うまでもなく、この統合的なアプローチは、既存のプラクティスを役立たずで、時代遅れのものにしてしまうわけではない。それどころか、ひとたび身体、本能、ハートが成熟し、それらと通じ合えるようになると、それらは既に確立された修練の方法を用いるように、ほぼ確実に求めてくるのである。伝統的にこれらの次元の開発は、例外的に優れた人たちによって考案された外的な基準に依っていた(そして、しばしば何世代にもわたって精練されてきた)のであるが、いまや多くの人たちが、自分の統合的な成長に対し、より創造的に関与していく用意ができているということである。

いずれにせよ出発点となるのは、精神が何らかのプラクティスを、身体や、セクシュアリティ、ハート、意識に押しつけるということではない。なぜなら、マインドは、そのプラクティスが最高で、もっとも有益であるという考えを、何らかの仕方で採用しているにすぎないからである。しかしながら『創造性を宿した生』は、私たちのなかに存在している。それは知性をもった生命のダイナミズムであり、私たちが完全な人間になる過程にひそみ、その内部から出現し、全体を調和的にとりまとめるものである(Heron, 1998を参照)。

この節を終えるにあたり、統合的な成長について『3つの相互に関連する指導原則』をあげておく・・・。

(1)『統合的な成長』は人間のすべての次元によって共創造される。統合的な成長の真のプロセスは、マインドだけで方向づけられることはなく、身体、本能、ハート、マインド、意識という、人間のすべての次元の協同的参与と創造的な力から生じる。

(2)『統合的な成長』はもっとも生命的な潜在力に根ざし、そのなかから展開する。人間のさまざまな次元が成熟し、発達の道に共創造的に参与するとき、統合的な成長は有機的に内側から展開する。私たちのもっとも独自な潜在力に根ざした真に統合的な成長は、他者によってすでに歩まれた道をたどることはめったにない。また、外的基準によって方向づけられることもない。外側からもたらされた道標は、旅の分岐点で重要な参考になるかもしれないが、私たちのもっとも独自な資質の発現へと向かう道筋は、外側から方向づけられない。

(3)『統合的な成長』は女性性と男性性のバランスを保つ。統合的な成長は、技能の「エクササイズ」や「トレーニング」といった男性的な要素を、内側から新しい資質や能力を「生みだす」女性的な要素と結びつける。成長のプロセスを、個人のもっとも生命的な潜在力のなかにうまく根づくようにするには、女性性の次元が男性性の次元に先行して生じる必要がある。

 
また、ライプニッツがニコラ・レモン宛書簡で述べたように、太古の時代から現代に至る人類が生み出してきた『叡智と進化(変容へのアプローチ)の物語』には、それらすべてが内包する、それぞれの「価値と限界」「真実と盲点」が潜んでいる・・・。
 
尚且つ、洋の東西における「世界の見方、考え方、表現の仕方」には、その前提としてそれぞれの基本的な歴史や文化の違いによる『発達と成長の相違」、すなわち、『メタ・パラダイムの形成において、文化的・社会的な 6 コンテクストとリテラシー』の違いによるところが大きく関わっている ‼
 

6 コンテクストとリテラシー:

思いは伝わらなくては意味がないし、価値も生じない。主義・思想・哲学・イデオロギーなど、読者に伝えるべきは「テーマ性」などではない。ひとりよがりな思いだけが先だったコミュニケーションは、たいてい全体主義的「ファシズム」になる。どんな御大層な思想も、伝えられなければ価値はなく、思いは他者に伝わってこそ、はじめて意味あるものになる・・・。

書き手が伝えるべきは、「テーマ」ではなく、『コンテクスト』である ‼

『コンテクスト』とは、文脈や背景、前後関係のことを指す。日本人は、行間を読むのがうまいと言われるが、それは、日本文化がコンテクストを理解する能力がないと生きていけないことの裏返しでもある。

『リテラシー』とは、英語のリテラシー(literacy)がもともとの言葉で、そもそも「読み書きができる識語」という意味である。そこから、知識を持ち合わせていること、様々な分野に関して長けている、知識があるという風に使われるようになった。

あうんの呼吸が通用する文化を『ハイ・コンテクスト(high-context)』といい、対照的にいちいち全て背景から説明しないと気がすまない文化を『ロー・コンテクスト(low-context)』という・・・。

『ハイ・コンテクストな社会』では、仲間内などの人脈が極めて重視される。会社とプライベートの区別が弱く、あまり野暮なことを聞くと嫌われてしまい、根回し力、雰囲気を察する能力、空気を読む能力が求められる。(日本、中国、中東、仏、伊、スペインなど)

『ロー・コンテクストな社会』では、言葉できちんと説明しないと気がすまない。会社とプライベートは明確に区別する。(北米、イギリス、スイス、ドイツ、北欧など)

また、日本は『ハイ・コンテクストな文化』だが一方でマニュアル大好きで、規制・許認可でがんじがらめの一面も持ち、みんなできちっと規則を定めないと、日本民族は気持ちが落ち着かない。中国も日本と同様に『ハイ・コンテクストな文化』を持つが、マニュアルは嫌いで、政府やお役人を信じない、徹底的な個人主義を貫くことから日本とは対照的である。

この世界には、一見無関係に見えるものが裏ではつながっているということがよくある。裏側も視野に入れて見ないと状況はつかめない。しかし、裏側と言っても浅い深いがあり、浅いものは対症療法と呼ばれるものに近く、深いものは東洋医学のようにホリスティックに対象をとらえる。

私は、裏にあって表側に影響を与えている深く本質的な仕組みを『コンテクスト』と呼んでおり、大きく分けて「自然的コンテクスト」、「社会的コンテクスト」、「精神的(主観的)文化的(間主観的)コンテクスト」の3つの側面があると考えている。

科学にも「自然科学」、「社会科学」、「人文科学」の3つの分野がある・・・。

しかし実験室を舞台とする科学に対し、日常生活においては、途中までは科学的思考を利用するが、あるところからは日常感覚の直感に従い、科学が限定している範囲を超えて裏側を想定することが可能である。なぜなら、日常世界は、やがて科学で証明されることになる仮説が生まれる場であるからだ。

さらには生活のとらえ方も、私たちが生きている世界としてではなく、私たちが生かされている世界としてとらえ、世界を客体化せず、そこに依存する一部の存在としてとらえることも可能である。

その、私たちを活かしている世界の表面世界の背後にあるマクロな自然からミクロな自然へ至る、連続性や関連性、それらを貫通する働き、そして日常の表層意識に常にひそかに影響を与え続ける深い意識や、さらにもっと深い意識の存在など、日常の土台となっている仕組みをここでは『コンテクスト』と呼んでいる。

そして、『コンテクスト・リテラシー』というのは、浅いものから深いものまでさまざまなレベルがあるにせよ、そういう仕組みを認識し、読み解き、気づき、表現する能力のことである。

 
いずれにせよ、そこには必ず「価値と限界」、「真実と盲点」という『事象の背後に死角』が潜んでいる。しかし、そこにはそれ相応の『創造性を宿した未顕現の秩序と可能性』が同時に潜んでいる ‼
 

【参照4】新たな統合のプラクティス『ホリスティック・インテグレーション』

現代のさまざまなITPの提案は、西洋社会のなかで『統合的なスピリチュアリティ』を探究し育んでいくための重要な努力であると考えられる。「統合的なスピリチュアリティ」は、偏った発達のもたらす緊張や矛盾から解放されているだけでなく、『人間のすべての属性の成熟と統合』に基礎をおくものである。

しかしながら、ITPに潜在的にふくまれる『二つの落とし穴』を確認してきた・・・。
 

つまり、もしも個人の身体や本能や感情の世界が未発達な場合、精神的(メンタル)な部分を中心に考えられた『ITPのプログラム』は、「精神によるそれらの世界の植民地化を永続化し、それらの自律的な成熟を妨げ、逆説的なことに、多次元的で共創造的な統合的成長の可能性そのものを損なう」ことになるかもしれないのである。

また、現代西洋の生や教育には過剰なまでの『男性面の強調』がみられ、すでにあるプラクティスや技法を用いて人間の諸次元を修練し訓練することを強調してみても、それらの次元にそなわっている『女性的な質や潜在力の自然な発現』を妨げることになるかもしれないのである。

 
ここで必要とされているのは、現代のITPの諸提案を『参与的なアプローチ』によって補完することである・・・。
 

このアプローチは、(1)人間のすべての次元がそれら自身の発達のダイナミックスに従って自律的に成熟することを促し、(2)人間のさまざまな属性をバランスよくはたらかせながら、新たな質や内的潜在力が生じてくるための空間を創造するものである。

そうするなかで、『統合的な成長』が展開していく可能性があり、もっとも生命的な潜在力に根ざすとともに、人間のすべての次元によって共創造されるものが、『真の統合的な成長』へと導くのである。また、『参与的な視点』から見て、ITPは「禅におけるような非二元性の悟り」だけでなく、その他スピリチュアルな意味において、重要な『自己と世界の生成を最良のものにできる』かもしれないのである。
 

それらのなかには、すでに世界の観想的な伝統によって語られてきたものもあるし、さらに創造的な取り組みを要するような新たな質をもったものもある ‼

 
いずれにせよ、ITPは『受肉(身体化)したスピリチュアルな実践』の現代的な探究とみなされると考えられる・・・。
 

つまり、それらが促進しているのは、「身体を有する個人と世界の創造的な変容」や、「物質のスピリチュアル化」や、「スピリットの感覚へのグラウンディング」、究極的には『天と地の統一』ということなのである。そして、人間が徐々に超越的かつ内在的なスピリチュアルなエネルギーを身体化する、『いわば二重の受肉』をするにつれ、「人はスピリチュアルな変容と進化が起きている最先端の場所が、ほかならぬこの具体的な物理的現実にあることに気づく」のである ‼

 

内面から人の進化を導き促進する『ホリスティック・インテグレーション』とは

そこで、前節で確認されたITPに潜在的にふくまれる『二つの落とし穴』を回避すると同時に、統合的な成長に関する参与的視点の例示となる「現代の提案を補完し拡張するような、革新的な統合的アプローチ」の一例として、「マリナ・T・ロメロとラモン・V・アルバレダ」によって創出された『ホリスティック・インテグレーション(Holistic Integration)』について言及したい・・・。
 

もともとスペインで発展した『ホリスティック・インテグレーション(Holistic Integration)』は、統合的な成長やヒーリングへのアプローチであり、これは「既存のプラクティスや技法」にはもとづいていない ‼
 

2000年以降、このアプローチは、アメリカ合衆国でも、以下の機関で導入されている。サンフランシスコのカリフォルニア統合学研究所(CIIS)、パロアルトのトランスパーソナル心理学研究所、ビッグサーのエサレン研究所、そしてサンフランシスコのベイエリア地区で、統合的な成長の促進にかかわっているいくつかのグループ。

 
『ホリスティック・インテグレーション』は、30年以上にわたるプラクティスにもとづく探究から生まれ、ヒーリングやサイコスピリチュアルな過程にあった数百人の経験にも助けられている・・・。
 

ロメロとアルバレダ(Romero & Albareda, 2001)によれば、その主たる目的は、「自然な条件をつくりだし、個人の統合的な進化の道を各自が定められるようにすること」である。そのさい個人は、「サイコスピリチュアルなモデルや理念によって知らぬ間に押し付けられた潜在的な制約」から解放されている。
 

体験に根ざした知がワークから徐々に出現してくるわけだが(Albareda & Romero,1990, 1999;Romero & Albareda, 2001)、ホリスティック・インテグレーションは実際、イデオロギーや形而上学の重荷を持ち込むことなく提供される。おそらく、このワークが無宗派的な特徴をもっているために、多様な心理的、社会的、文化的、霊的な志向性をもつ人たちに訴えかける力をもっているのであろう。アルバレダとロメロによれば、そうした人たちはたいてい、新たな創造的活力の感覚を、個人の生活や職業、コミュニティや伝統のなかへもたらすのである。

 
さらに、このワークをとおして、実践者はプロセスを自分で制御するようになり、そのなかで『存在の異なる次元(身体、本能、ハート、マインド、意識)』は自律的に成熟し、徐々に統合される。そのプラクティスは、『人間のこれらの次元を、生命エネルギーと意識のエネルギーの双方の本質へ向けて開いていこう』とするものである。
 

ロメロとアルバレダ(2001)は、これらの次元がこうしたエネルギーに結びつくとき『新しいエネルギーの軸が出現する』と言う。その軸とは、外的な基準や理念によってではなく『内面から人の進化を導き促進するもの』である ‼

 

内在的なスピリチュアルの源『闇のエネルギー(第二の霊的極)』とは

ワークの全般的な構造を説明するまえに、以下の点について少し説明しておくことが重要であろう・・・。
 

つまり、『生命的・原初的世界とセクシュアリティ』は一般的にみても、「真の創造的な統合的成長のなかで中心的な位置を占めている」が、とりわけホリスティック・インテグレーションにおいてはそうなのである ‼
 

生命的な原初的エネルギーとして理解される「セクシュアリティ」へ特別に焦点をあてているため、このワークは『ホリスティック・セクシュアリティ』としても知られている。

 
特筆すべき事項として彼ら(2001)は、「超越的な意識のエネルギー」のほかに、宇宙には「内在的なスピリチュアルの源」、すなわち『闇のエネルギー(dark energy)』が存在していると言う・・・。
 

ここで使われる形容詞の「ダーク(dark)」は、否定的な意味あいをもつものではなく、たんにすべての可能性がいまだ未分化であるがために、意識の「光」によって見ることのできないエネルギー状態のことを指している。

 
『闇のエネルギー(dark energy)』は、顕現されたもののうちに存在する「固有のスピリチュアルな生命」であり、さらに「すべてのレベルの真の革新と創造性の源となるスピリチュアルな生命」であると考えられる(cf. Heron, 1998)。

言いかえるなら、『闇のエネルギーはスピリチュアルなプリマ・マテリア(第一素材)』である。すなわち、それは変容の状態にあるスピリチュアルなエネルギーであり、いまだ実現されてはいないが、『創造性を宿した未顕現の秩序と潜在力や可能性』で満たされている。

ロメロとアルバレダがつけ加えて言うには、人間の現実において、このエネルギーは『身体や性や本能の組織原理』であるだけでなく、『生命力や自然な知恵の感覚の源』であり、「意識のエネルギーと闇のエネルギーは究極的には同じエネルギーなのだが、異なる状態にある」と考えられている。
 

つまり、『闇のエネルギー』が濃密で、無形で、未分化であるのに対して、『意識のエネルギー』は微細で、明るく、無限に分化したものである ‼

 
このような区別には、スピリチュアルなプラクティス(修行)や創造性に関して、重要な意味がある・・・。
 

たとえば、それは私たちを、伝統的なスピリチュアリティの『単極的(monopolar)な見方』から解放してくれる。この見方では、スピリチュアリティは、もっぱら私たちの現在の瞬間の直接体験と、微細ないし超越的なスピリチュアルな意識との交わりから出現するものと理解されている(Heron, 1998を参照)。

この文脈において、スピリチュアルなプラクティスは、そのような『もっとも重要なリアリティに到達することか(「上昇」の道)』、あるいは、『スピリチュアルなエネルギーを大地へと降ろし、人間の性質や世界を変貌させること(「下降」の道)』をめざしている。

このような単極的な理解の問題点は、注3 第二のスピリチュアルな極の存在(第二の霊的極)』、すなわち「闇のエネルギーの存在を無視していること」である。この極が取り入れられると、「自発的で創造的なスピリチュアルな展開が内面から呼び起こされる」のである ‼

言いかえるなら、「人間のより多くの次元がスピリチュアルな知に積極的に参与すればするほど、生はより創造的でスピリチュアルなものになる」のである・・・。
 

この点で、マインドと意識が超越的な覚醒意識に自然に結びつくかけ橋となるのと同様に、身体と生命的・原初的エネルギーが内在的なスピリチュアルな生との自然なかけ橋になることを、区別して知っておくことは重要である。つまり、『身体、ハート、マインドが葛藤やブロックから解放されるとき、これらの二つのエネルギー(意識と生命)が自然と出会う場所が人間のハート』である ‼

 
これが重要だというのは、マインドや意識をとおして、私たちは微細なスピリチュアル・エネルギーに到達しようとする傾向がある。そうしたスピリチュアル・エネルギーは、歴史のなかですでに発現しており、より固定化した形式や力動のなかにあらわれている(たとえば、独特の宇宙論的モチーフ、元型的な配置、神秘的なヴィジョンや状態など)。
 

たとえば、最近の意識研究が明らかにしたところでは、人間の意識は、それまで見聞きしたことさえない特定の宗教的世界に属する霊的洞察や、秘教的シンボル、神話的モチーフ、宇宙論に到達するだけでなく、それらを理解することも可能であるという。

 
これに対して、「生命的・原初的世界」とつながると、『闇のエネルギーとその生成力に到達することが可能になる』のであり、端的に言って、「身体と生命的・原初的エネルギー」に結びつくことは、真正で創造的な統合的スピリチュアリティにとって必要不可欠なことなのである。一方では「真正である」ために、統合的でスピリチュアルな成長は、もっとも『生命的な潜在力に根ざす』必要がある。
 

そうした「潜在力」は、『私たちを唯一無二の存在』にするものであり、「原初的エネルギーのいちばん深いレベル」に蓄積されている。他方では「創造的である」ために、統合的な成長は、生成状態にあるスピリチュアルな力との相互作用から生じる必要があり、それは『生命エネルギーの身体化』をとおして自然に到達される ‼

 

セクシュアリティの重要性と『有機的な恥(organic shame)』とは

特に、セクシュアリティの重要性について彼ら(Romero & Albareda, 2001)は、つぎのように述べている・・・。
 

「セクシュアリティは潜在的に、闇のエネルギーが人間の現実のなかで組織化され、創造的に発達するための最初の土壌のひとつである。そのため非常に重要なのは、セクシュアリティが、自然な進化の原理に根ざした開かれた土壌であることである。それは恐怖や葛藤にもとづいたり、マインドや文化やスピリチュアルなイデオロギーに指揮された人工的な要求に従ったりしてはならない」(p.13)。

 
西洋の歴史全体を通じて、原初的で性的なエネルギーの全般的な抑制があったために、葛藤や傷や恐怖の蓄積された層が、表層の現代的自己と深層の闇のエネルギーの本質とのあいだに存在している。個人の力動に加え、この蓄積された層にほとんど普遍的にみられる要素は、有機体に埋め込まれた「恥」である・・・。
 

『有機的な恥(organic shame)』は、心理的な恥とは明確に区別されるべきである(心理的な恥なしでも存在しえるものである)。有機的な恥は、「身体内の無意識的エネルギーの収縮」をとおしてあらわれる。その収縮は、「私たちの内側にある闇のエネルギーの流れや、創造的な力をブロック」する。

それゆえ『統合的な成長のプロセス』のなかで基本的に重要なことは、この葛藤を引き起こす滞りを癒し、「闇のエネルギーの創造的な要素と再びつながること」である ‼
 

身体に埋め込まれた「恥」が一掃されるとき(そして、ハートが争いから、マインドがプライドから解放されるとき)、この闇のエネルギーは自然に流れだし、私たちのうちで懐胎する。そして、身体やハートのなかで変容のプロセスをへて、最終的には「神秘」に根ざし、それと一致した知によってマインドを照らしだす。歴史的・文化的な状況に左右されるというだけでなく、「神秘」自体のもつダイナミックな本質のために、この知は決して完結することなく、つねに進化していく(Ferrer, 2002)。

 
多くの要因がはたらいていることは明らかなのだが、それでも「セクシュアリティとスピリチュアルな創造性」とのあいだのつながりは、以下のいくつかの事柄の理由を明らかにするであろう・・・。
 

(1)人間のスピリチュアリティと神秘主義がほとんど「保守的」でありつづけてきたのはなぜか。つまり、異端の神秘主義者は例外であるが、ほとんどの神秘主義者は、受容されてきた教義と規範的な聖典に確固として従ってきたのである(たとえばKatz, 1983を参照)。

(2)多くのスピリチュアルな伝統が厳格に性行動を規制し、性的エネルギーや性的欲望の創造的な探究をしばしば抑圧し、禁止さえしたのはなぜか(たとえばCohen, 1994;Faure, 1998;Feuerstein, 1998;Wade,近刊;Weiser-Hanks, 2000を参照)。

 
ここで言いたいのは、宗教上の伝統が意図的に性的活動を規制し制限して、スピリチュアルな創造性を妨げ、教義を現状のまま保持しようとした、ということではない。つまりは、諸伝統のなかで、そのようなセクシュアリティとスピリチュアルな創造性とのあいだの意図的な関連がつくりだされた痕跡は見当たらなかったし、すべての証拠は他の社会的、文化的、道徳的、教義的な要因を示しているようにみえる(たとえばBrown, 1988; Parrinder, 1980を参照)・・・。
 

そうではなく、「セクシュアリティに対する社会的・倫理的な規制は、何世紀にもわたる多くの伝統のなかで、予期せぬかたちで、人間のスピリチュアルな創造性を衰退させてきたかもしれない」ということである・・・。
 

この後述べるように、「過去にはこのような性の抑制が必要だったのかもしれないが、現在ではますます多くの人が、より創造的なスピリチュアルな生の関与を受け入れる用意ができている」というのが見解である ‼

 
要約するとこのワークのなかで、実践者はまず「⓵ 自分の身体、本能、感情、精神、意識の諸世界の現在の状態にふれること」を学ぶ。つぎに、それらの「⓶ 成熟と活性化と統合を促進するためのプラクティスを考案」する。そして、いくつかの『革新的な身体を介した相互的な観想的プラクティス』をとおして、実践者は「⓷ 生命エネルギーの創造的な力にふれ、徐々にそれを意識のエネルギーと結びあわせていく」ことを試みる・・・。
 

こうした両者の結びつきは、その個人のなかでエネルギーの軸を生みだし、統合的な成長を内側から方向づけるのである ‼

たとえば、個別化された統合のプラクティスの形式や構造は、実践者の身体、生命、感情、精神、意識の経験から生まれるが、これらのプラクティスの実際の効果を測定する体系的な研究は、たしかに必要なことである・・・。
 

カリフォルニア、ビバリー・ヒルズのサラマンダー財団(www.salamanderfund.org)の援助を受けておこなわれている調査では、「ホリスティック・インテグレーション」のもつ癒しと変容の効果ばかりでなく、創造性や愛や利他性の発達に対する影響についても調べられている。この調査にふくまれる研究は、質的な方法や質問紙、生理学的・生体電位的測定であり、これらをつうじて、個人の生活に対するワークの影響や、コミュニティに対する影響の可能性が継続的に調べられている。

 
しかし、多次元的で自然発生的・統合的な成長の進展は、ITPにひそむ『自我による支配』という危険をまぬがれることができる。この『自我による支配』については、ウィルバー(Wilber, 2000b)によって正しく指摘されている・・・。
 

ロメロとアルバレダによって創出された『ホリスティック・インテグレーション』は、独自の発達の道筋を生みだすことに加え、このプロセスは、個人、文化、社会、エコロジーなどの領域の創造的なプロジェクトをとおして、日常生活と世界の変容をともない、またそうした変容のなかで最高の帰結をみるのである ‼

 

【参照5】世界的に顕在化する『乖離した知』と『脱身体化されたスピリチュアリティ』

人類は歴史上、かつてないほどの『複雑で大掛かりな危機』に直面しており、実際に「社会的、政治的、経済的、生態的、倫理的危機」の直中に立たされている。その深刻さの度合いは、ここ30年間において急激に増しており、その細部には踏み込まないが、「人類史上において21世紀の現在が、これほどあらゆる面において一時に差し迫った危機に曝されたことは無かった」と言えるほどである・・・。
 

この危機は、現代人が首まで浸かっている「理性(合理性)」や「知識偏重」の社会的文化的方向性に横たわる「二元論的な思考と行動様式」が、いまだその根にあることは間違いないとは言え、本質的には私たち自身が陥ってしまった『乖離した知の産物』によるものである ‼

 
例えば、学術界に従事する専門家たちにおいて『老子その人その書』を研究する際の「パラダイム」とは、もっぱら客観的で科学的な探究手法によって、老子はいったい「自己において何を悟り」「文化において表現し」「社会において体現したか」を、その物証と研究者間での一応に同意できる考証により、その主眼(視座・視点)は『内面的領域(人文科学における本来の面目)』をその外側から解釈し語るものの、あくまでも歴史学的、考古学的な側面、いわゆる『様々な唯物論的な還元主義』それは科学的な唯物論から行動主義、実証主義に至っていたによる『外面的領域からのアプローチ』を軸に知的活動を推進していると言える。
 

つまり、現代の科学主義は、客観的・実証的・経験的な『外面世界(表層)』の記述に没頭するあまり、自分たち自身の「内省」や「意識」、「内面性」や「主観性」を根本的に拒絶する・・・。
 

この『科学的物質主義(唯物論)』が高等教育や学問の世界で強力かつ支配的であるため、『スピリチュアルの研究』はどこでもまじめにとりあげられることはなく、「人文学」ですら『スピリチュアルの研究』には近づかない ‼

 
しかしながら、過去と現在の多くの「スピリチュアルの研究(スピリチュアルなヴィジョン)」の分野においても、ある程度『乖離した知の産物』を抜け出していない・・・。
 

この『乖離した知』というのは、主として「微細な超越的意識に感情的あるいは精神的なかたちで接することで生じる」ものであり、その反面、「生命的で内在的なスピリチュアルな源には根ざしていない」のである ‼

たとえば、身体もこの世界も究極的には幻想(低次元で、不純で、スピリチュアルな解放にとって障害)であるといった、ゆがんだスピリチュアル・ヴィジョンは主として、微細な超越的意識に未成熟な感情や精神的優越観というかたちで、そのエネルギーに触れることから生じる・・・。
 

それゆえ、身体的で生命的に内在する『スピリチュアルな生と源』には根ざさないまま漂うこととなり、自己感覚は身体も世界も究極的には幻想で欠陥のあるものだという、『心身の乖離した心理』に陥ってしまうのである ‼

 
まさしくこれが、『現代に見られる病理』であり、それは個人の健康から社会に至るまでのほぼ全体に対して、『重大な問題を引き起こしている元凶』となっている・・・。
 

そして今日、世界的に顕在化する『乖離した知』は、統合的・変容的な成長を促すはずの「スピリット」「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」の中にまで浸透し、それらは国境を越えて進行しながら、現代における紛れもない『スピリチュアルへの認識と弊害、そして混乱』(7 スピリチュアルペイン/霊性的苦痛)のみならず、『人間の生にまで同時多発的な認識と弊害、そして混乱』(8 トータルペイン/全人的苦痛)を招いているのである ‼
 

7 スピリチュアルペイン/霊性的苦痛:

スピリチュアルペインとは、喪失感や不全感、自身の信条や希望からの乖離感、神から引き離された感覚、罪責感、悔悟の念などから生じる深い痛み、苦悩、魂の孤独であり、「霊性的苦痛」とも言われる。

8 トータルペイン/全人的苦痛:

トータルペインとは、自己の存在に対して着目すべき複雑な苦痛のことであり、「全人的苦痛」とも言われる。全人的とは、全人格を総合的にとらえるさま。人間を、身体・心理・社会的立場などあらゆる角度から判断するさま。人を、身体や精神などの一側面からのみ見るのではなく、人格や社会的立場なども含めた総合的な観点から取り扱うさまであり、全人的苦痛には、1. 身体的苦痛、2. 精神的苦痛、3. 社会的苦痛、4. スピリチュアルな苦痛(スピリチュアルペイン)の4つの要因が複雑に絡み合った構成となっている。

 
そこには『ハートのチャクラから上だけをスピリチュアリティとみなす傾向』(全体性は語るものの)があり、その背後には非常に多くの歴史的、文脈的要因がある ‼

 
数千年に及ぶ様々な伝統に属す霊的人物や神秘家の生き方をざっと見ただけでも、先のテーマにて叙述した『人類の霊性史(スピリチュアリティ)』は部分的に、「人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語」として読むことができる・・・。
 

それは現代においても、有機的に「表層意識」や「潜在意識」、それに「集合的無意識」に深く浸透し、『人間と世界のあらゆる次元が著しく分断の様相を顕在化させている原因』でもある ‼

 
過去から現在において、スピリチュアリティを特徴づけている『決定的な欠陥要因(乖離)』、あるいは、『霊的ヴィジョンの断片化(偏り)』とは、意識的に精神の解放を求める過剰(ハイパー)なまでの衝動によって、『自己感覚を超越的意識にのみ同一化させる』ことを主眼としてきたところにある・・・。
 

それはしばしば、注2 人間の生得の力(生得的に与えられている人間の原初的・基礎的諸次元)』である「身体的」「本能的」「性的」、そして「ある種の感情的」な次元(9 身体化されたスピリチュアリティ)を、再三にわたって抑制することとなった ‼
 

9 身体化されたスピリチュアリティ:

『身体化されたスピリチュアリティ』は、最近のスピリチュアリティ関係者のあいだで流行語になっているが、その概念が徹底して吟味されたことはまだない。『身体化されたスピリチュアリティ』とは、「身体と性をふくむ人間の属性をすべて統合したもの」に基づいている・・・。

『身体化されたスピリチュアリティ』は、人間のすべての次元である「身体、生命、心、精神、意識」が同等のパートナーとして働き、自己と共同体と世界を、『より完全なかたちで究極の実在である神秘(聖なるもの)と結びあわせる』と見なす。そうした『神秘』から、すべてのものが生じるのである。このアプローチから見れば、『身体とその生命的・原初的エネルギー』を取り入れることは、決して障害となることはなく、むしろ霊的変容をもっと徹底したものにし、霊的自由をもっと広く創造的に探究するうえで決定的に重要なものとなる。

人間の全体を聖なるものと見なすことによって、おのずと『全チャクラ型のスピリチュアリティ』が開拓される・・・。

このタイプのスピリチュアリティでは、人間のすべての属性が、『内在的および超越的な双方の霊的エネルギーの存在』に浸透されるようになることが追求される。このように言ったからといって、「身体化されたスピリチュアリティ」が、身体と本能を疎外する傾向から、それらを救い出す必要性を無視しているということではない。むしろここで意味しているのは(身体的次元や原初的次元だけでなく)人間のすべての次元が疎外されることがあり、また同時に、この地上での『神秘(聖なるもの)』の展開に等しく自由に参加することができるということである。

しかしその一方で、身体化された霊的実践を提唱する人たちは、過去から現在におよぶスピリチュアリティの主要な諸潮流は「身体から切り離されている」と言う。そして、『脱身体化されたスピリチュアリティ』は、「身体からの分離や昇華」にも基づいており、人類の宗教史のなかに蔓延している。

『昇華』と『統合』を対比させてみると、この違いが明確になる・・・。

『昇華』では、人間のひとつの次元のエネルギーを用いて、別の次元の機能を増幅し、拡大し、変容させる。たとえば、非婚を守る僧侶は性的欲求を昇華させ、それを霊的飛躍のための触媒としたり、ハートによる信愛を高めたりする。タントラの実践者は生命的・性的エネルギーを燃料にして、意識を急激に上昇させ、身体を離れた超越的で、超人間的ですらある状態に至ろうとする。

これとは対照的に、人間の二つの次元の『統合』は、そのどちら側のエネルギーにも変容をもたらすのであり、『聖なる結婚』をもたらす。たとえば、意識と生命的世界の統合により、意識はより身体性を帯び、活力を得て、エロス的な面が増す。また生命的世界には、生き物の衝動的本能を超える知的進化の方向性がもたらされる。

大雑把に言えば、「昇華」は『脱身体化されたスピリチュアリティ』の目印となるものであり、「統合」は『身体化されたスピリチュアリティ』の目標となるものである。しかし、これは、『身体化されたスピリチュアリティ』の実践のなかに、「昇華」がどんな位置も占めないということではない。霊性の道は複雑で多面的である。その道程のある地点で、あるいは、ある種の個人的性向にとっては、ある種のエネルギー昇華は必要であり、決定的ですらあるだろう。しかし、「昇華」を恒久的な目標にしたり、エネルギーの力動パターンにしてしまうと、すぐに『脱身体化されたスピリチュアリティ』の道に陥ってしまうことになる。

身体と世界の価値を極端に低く見積もるようなスピリチュアリティに加えて、脱身体化の方向性がもっと微妙でわかりにくいタイプもある。このタイプでは、霊的な生は、現在の直接経験と意識の超越的源泉との相互作用からのみ生じると考える。この文脈では霊的実践は、そうしたもっとも重要なリアリティにつながることを目的とするか(古典的な新プラトン主義の神秘主義のような「上昇」の道)、そのような霊的エネルギーをこの地上に引き降ろし、人間性や世界を変革することを目的とするか(シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガのような「下降」の道)、いずれかのかたちをとる。

このような「単極的理解が不十分」なのは、それが『第二の霊的極』、すなわち「内在的な霊的生の存在を無視している」という点である。この『第二の霊的極』は生命的世界と深くつながり、そして「スピリット」のもっとも生き生きした力を蓄えている。この霊的源泉を見落としてしまうと、修行者は身体的変容に関心を持っている人でさえ創造的なスピリチュアリティにとって生命的世界が重要であることを無視したり、性エネルギーの超越や昇華を追求したりするようになる。

『完全に身体化されたスピリチュアリティ』は、完全な個人のなかで、内在的および超越的な双方の霊的エネルギーが創造的に相互作用することから生じるものである。ここでいう『完全な個人』とは、人間の生命体験のすべての面をふくみもち、同時に身体と大地にしっかりと根ざしているような人のことである。

 
ついには、人間の注2 生得の力』である「原初的・基本的諸次元」は抑圧され、統制され、変容され、「意識を霊化する」と言うより高次な目標にのみを主眼としたために、『統合されたスピリチュアルな生(完全に身体化されたスピリチュアルな生)』「ハートのチャクラの上の霊的生(脱身体化されたスピリチュアリティ)」にのみ凝縮されてしまった・・・。
 

このような霊的生は、もっぱら精神や感情をとおして超越的意識へと至る過程にもとづき、『身体や自然や物質に内在する霊的源泉』については見落としがちであった ‼

 
そして、身体から切り離された『人間の原初的・基礎的諸次元や自然や物質に内在する霊的源泉』は遂に、我々の注2 生得の力』であり注3 内在的なスピリチュアルな源(創造性の源泉)= 第二の霊的極』であるにも関わらず、自己と共同体と世界からも切り離され、常軌を逸するほどの圧倒的な科学技術とそれに基づく経済、産業、情報社会が、ほぼ完全に「スピリット(気)を抜き取り」、排気ガスが立ちこもる「モノクロームな世界」を形成している・・・。
 

スピリチュアリティの歴史上『身体から切り離されている』とは、「10 宗教的実践とその歴史」において、身体やその生命的・原初的エネルギーが無視されてきたということではない。決してそうではなかった ‼
 

10 宗教的実践とその歴史:

たしかに「宗教」は、人間の身体に対して意味深くも『両価的な態度』をとってきた。つまり、身体は一方では、「囚われ、罪、穢れの源泉」と見なされながら、他方では、「霊的啓示がもたらされ神性が宿るところ」と見なされてきた。宗教の歴史を見れば、その目的や実践が『脱身体化の方向性』をもつものから、『身体化の方向性』をもつものまで、一連の傾向が見られる。

たとえば、『脱身体化の方向性』には禁欲主義の諸潮流があり、これには、「バラモン教、ジャイナ教、仏教、修道院のキリスト教、初期道教、初期スーフィズム」がふくまれる・・・。

『ヒンドゥー教』では、身体は実在せず(mithya)、世界は幻影(maya) だと見なす(Nelson, 1998)。『アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)』では、「身体を伴わない解放」(videhamukti)は死後にしか成し遂げられないと考え、それは、身体のカルマによって無情にも穢される「生ける解放」(jivanmukti)よりも「高次」のものと見なされる(Fort, 1998)。『初期仏教の見解』では、身体は苦しみの忌まわしい源であり、涅槃とは身体感覚や欲求の消滅であり、「般涅槃」(parinirvana)は死後にのみ達成できると見なされる(Collins, 1998)。『キリスト教』では、肉体は悪の源泉で、復活した肉体には性別がないと見なされる(Bynum, 1995)。『サーンキヤ・ヨーガ』では、身体と世界から純粋意識を「引き離す」(kaivalya)ことをする(Larson, 1969)。『カシミール・シヴァ派』では、性エネルギーのタントラ的変換は、神との合一を果たすために行なわれる(Mishra, 1993)。『道教の自己修養』では、そうしたエネルギー変換は「道」の創造的な流れと調和するためになされる(Yuasa, 1993)。『サフェドのカバラ主義』では、マスターベーションや夢精は罪深いという囚われがある(Baile, 1992)。『カバリストのルリア』は、身体を「魂の完成を妨げるものである」(Fine, 1992, p.131 に引用されている)として拒否する。『イスラム教』では、死後の世界(al-akhira)は物質世界(al-dunya)にくらべ、計り知れないほど価値が高いと考えられている(Winter,1995)。『ヴィシシュタ・アドヴァイタ(非限定者不二一元論)を主張するヴェーダーンタの一派』では、完全な解放は身体化の全面停止をともなうと主張する(Skoog, 1996)。

同じように、以下『身体化に向かう潮流』についての例をあげておく・・・。

『ゾロアスター教』では、身体は人間の究極的な本質の一部であると見なされている(A. Williams, 1997)。『聖書』には、人は「神の像」としてつくられたと述べられている(「創世記」Jónsson, 1988)。『タントラ』では、性欲と覚醒とのあいだの非二元的同一性を認めている(Faure, 1998)。『初期キリスト教』では、受肉を重視する(「言が肉となって……」「ヨハネ福音書」、Barnhart, 2008)。『真言宗』では、即身成仏を目標としている(Kasulis,1990)。『ユダヤ教の安息日サバス』には、肉体的欲求や食欲が宗教的に享受される(Westheimer& Mark, 1995)。『スーフィの詩人ルーミーやハーフィズの詩』では、官能性が大胆に詠われている(Barks, 2002; Pourafzal & Montgomery, 1998)。『道教』では、身体は宇宙全体の神秘の象徴的器と見なされる(Saso, 1997)。『多くの先住民のスピリチュアリティ』のなかでは、身体は内在的な霊的源泉とつながっていると見られている(たとえば、Lawlor, 1991)。『曹洞禅』では、光明にいたるために、精神を身体に委ねるようにと求める(Yuasa, 1987)。『イスラム教シーア派の指導者イマームの秘教的な言葉』のなかでは「霊は身体、身体は霊(arwahuna ajsaduna wa ajsaduna arwahuna)」(Galian, 2003)と言われている。『ユダヤ教、キリスト教』はどちらも長年にわたって、世界の霊的変容のなかで社会参加や正義が果たす役割を唱えてきた(たとえば、Forest, 1993; Heschel, 1996)。

その一方、『身体化の方向性』は明らかに多くの宗教で見られるにもかかわらず、官能性と物理的身体に対しては非常に「アンビバレント(相反する感情や考えを同時に持ったことで、葛藤状態に陥った精神)」な見方が隠されている・・・。

たとえば、『道教』では、通常は物理的身体それ自体に価値を置かず、それが神の宿る場所だと信じられているという理由だけで、その価値を認めている。また道教の性的修行では、しばしばきびしい自制や禁止規定があり、性的関係が非人格化され、個人間で愛を育むことが軽視されている(Clarke, 2000; Schipper, 1994)。

また、『ユダヤ教のサバス』は、夫婦の性交を神聖なものとする日だが、伝統的教義の多く(たとえば、Iggeret ha-Kodesh 〔ユダヤ教のラビであるナフマニデスが記した書簡〕)では、性行為は、原罪以前の果樹園でおそらくなされたように、悦びや情熱なく営まなければならないと説かれている(Biale, 1992)。

さらに、『金剛乗(ヴァジラヤーナ)仏教』では、「粗大」な物理的身体は悟りを促すものとして認められているが、それはより実在的で非物質的な「星気体」(astral body)や「虹の身体」の基礎と考えられている(P. Williams, 1997)。

同様に、『ヒンドゥー教のタントラ』では、身体と世界は現実に存在するものと見なされているが、宇宙と一体化する儀式においては、「不浄な」物理的身体を浄化したり、イメージのなかで破壊したりして、まさにその肉体の灰から微細身や神的身体を出現させようとする(たとえば、ヴィシュヌ派タントラの「ジャヤカーヤ・サンヒター」、Flood, 2000)。

以上を要約するに、「身体化の方向」をより多くふくむかたちで霊的目標を定めている宗教諸派は確かに存在するのだが、実際の修行においては、『完全に身体化されたスピリチュアリティ』は、今も昔もきわめて稀にしか見つからない真珠のようなものでしかないのである。

しかし、私たちのいまこの時代にとくに必要なことは、人間のこのような潜在力をすべて統合するかたちで、ふたたびつなぎあわせることであろう。言いかえると、自己内省的意識や心の微細な次元は十分に発達してきたので、いまは、人間性のより原初的で本能的な次元をふたたび取り入れ、統合して、『完全に身体化された霊的生』を生みだすときなのである。

 
つまり、スピリチュアリティの主要な諸潮流、及び宗教的実践の歴史上において、身体とその生命的・内在的・潜在的な注2 人間の生得の力/原初的エネルギーの次元(生得的に与えられている人間の原初的・基礎的諸次元)』は、それ自体で霊的洞察をもたらす正統で信頼のおける源泉とは見なされてこなかったのである。

言い換えれば、「身体、本能、性(セクシュアリティ)、そして感情の一部」は、「心(ハート)や思考・精神(マインド・メンタル)、意識及び超越的意識(魂/ソウル及び微細・元因・非二元的な霊性/スピリット)」と同等のものとして、それらと協同して霊的(スピリチュアル)な悟りや解放を達成できるとは、一般に認められてはこなかった・・・。
 

さらに言えば、多くの伝統宗教や宗派、神秘思想では、『身体と原初的世界が実際、霊的成長の妨げになる』と信じられてきたのである ‼

 
残念ながら、心身の統合にしっかり根ざした『統合されたスピリチュアルな生』という考え方や、「人間の生(精、性、聖)」のなかでこの潜在的可能性を実現させるための効果的な実践を探究し、発達させようという試みは、現代の文化において多くは存在していない・・・。
 

もっとはっきりと言えば、『 注2 生得の力』、いわゆる『人間の基礎的諸次元』である身体や本能、性、感情の原初的世界の成熟については、さしたる関心が真剣に向けられてはいない ‼

 
そのため、スピリチュアルな道の実践者のあいだで、真に統合的な成長が開花していくことは希であり、仮にあったとしても一瞬の出来事に終わる・・・。

 
現在、研究者や専門家のあいだにおいて、かなりの注意が払われていることは確認でき、実際、考慮されてはいる・・・。
 

しかしながら、宗教的な伝統の文脈では、人間のある種の性質が、スピリチュアルな意味が他の性質よりも正しく健全であるとして、「平静さは激情にまさり」「超越は感覚的な身体経験にまさり」「貞操は性的放縦にまさる」といったことが広く自我に浸透している・・・。

文化面での文脈のなかでは、人間の意識のさまざまな価値を出現させ、成熟させていくためには、注2 生得の力』、いわゆる『人間の原初的・基礎的諸次元』である「身体的」「本能的」「性的」、そして「ある種の感情的」な『非言語的世界の次元を抑制すること』が、ある時点では必要なことであった。
 

なぜなら、まだ発生したばかりで比較的脆弱であった自己意識とその諸価値が、かつての本能的な衝動エネルギーが有している強力な存在の中に、ふたたび吸収されてしまうのを阻止する必要があると考えるようになってしまったからである ‼

 
そして何より、私たちは『性(セクシュアリティ)』がコントロールし難い本能と思っている・・・。
 

そんな動物的本能をあからさまに語ることは、はしたないことだと過去も現在も抑制し、抑圧して避けてきた。特に「性欲は抑え難い欲求なのだから表に出さないよう抑え込んでおかなければならない」と、『性(セクシュアリティ)』を得体のしれない怪物のように恐れてきた・・・。
 

しかし、人間がそう思うのは、「私たちの性がそうした性」であり、現代の文明社会の中で、実は天使である性を悪魔に変化させてしまう社会的あるいは文化的、国家的(このなかには歴史的宗教による支配も含む)支配の背景が何千年と続いてきた中での、「原罪」「カルマ」「因習」として扱われてきたからである ‼

 
そして、現代の文明社会で私たちの『性(セクシュアリティ)』が怪物のように大暴れするのは、私たち自身が『自然であることを失った結果』であり、それは同時に注2 人間の生得の力/原初的エネルギーの次元(生得的に与えられている人間の原初的・基礎的諸次元)』であったはずの注3 身体や自然や物質に内在する創造性の霊的源泉 = 第二の霊的極』をも忘却亡失した結果でもある。
 

注2 人間の生得の力:

『人間の生得の力』とは、我々人間に生得的に与えられている原初的・基礎的諸次元である「身体的、本能的、性的、そして感情的な次元(非言語的な世界)」が有する『創造性を宿した生(本質的な原初的知性)』であり、『内在的な霊的源泉(第二の霊的極)』である。

『創造性を宿した生』は、私たちのなかに存在し、それは「知性をもった生命のダイナミズム(力強さや活力、エネルギーに満ちた活動性)」であり、私たちが『完全な個人(完全な人間)』になる過程にひそみ、その内部から出現し、全体を調和的にとりまとめるものである。

ここでいう『完全な個人』とは、「人間の生命体験のすべての面をふくみもち、同時に身体と大地にしっかりと根ざしているような人」のことである。

そして、『完全に身体化されたスピリチュアリティ(完全に身体化された霊的生)』とは、完全な個人のなかで「内在的(原初的な生命の世界/生命エネルギーの次元)」および「超越的(超越的な意識世界/意識エネルギーの次元)」双方の『霊的エネルギー(霊的極)』が創造的に相互作用することから生じるものである。

よって、私たちのいまこの時代に特に必要なことは、『人間の生得の力』、すなわち「人間性のより原初的で本能的な次元」をふたたび取り入れ、人間のこのような潜在力をすべて統合するかたちでふたたびつなぎあわせ、真に『統合的な成長』へと発達してゆくプロセスによって、『完全に身体化されたスピリチュアリティ(完全に身体化された霊的生/統合されたスピリチュアルな生)』を生みだすときなのである。
 
注3 内在的な霊的源泉(第二の霊的極):

宇宙には「超越的な意識のエネルギー」のほかに、「内在的なスピリチュアルな源/第二のスピリチュアルな極の存在(第二の霊的極)」、すなわち『闇のエネルギー(dark energy)』が存在している。

ここで使われる形容詞の「ダーク(dark)」は、否定的な意味あいをもつものではなく、たんにすべての可能性がいまだ未分化であるがために、意識の「光」によって見ることのできないエネルギー状態のことを指している。

『闇のエネルギー』は、顕現されたもののうちに存在する「固有なスピリチュアルな生命」であり、さらに「すべてのレベルの真の革新と創造性の源となるスピリチュアルな生命」であると考えられる。

言いかえるなら、『闇のエネルギーはスピリチュアルなプリマ・マテリア(第一素材)』である。すなわち、それは「変容の状態にあるスピリチュアルなエネルギー」であり、いまだ実現されてはいないが、『創造性を宿した未顕現の秩序と潜在力や可能性』で満たされている。

人間の現実において、このエネルギーは『身体や性や本能の組織原理』であるだけでなく、『生命力や自然な知恵の感覚の源』であり、「意識のエネルギーと闇のエネルギーは究極的には同じエネルギーなのだが、異なる状態にある」と考えられている。

つまり、『闇のエネルギー』が濃密で、無形で、未分化であるのに対して、『意識のエネルギー』は微細で、明るく、無限に分化したものである。

 
そのためここ二千数百年来、決定的にその『崇高で深淵(勇壮かつ玄妙)なる老子の道(TAO/タオ)』に繋がる(「道」に精通する)「真理(スピリチュアル・バリュー/精神的価値)」から、「真実性と具象へ至る不変的(普遍的)プロセス」が、いまだ『抽象域でジレンマ』を踏んでいる・・・。
 

実は、そこにこそ、私たちの「原初的生命の世界(生命エネルギーの次元)」から「超越的な意識世界(意識エネルギーの次元)」までを全包括し、統合し、創発(創造的進化)を生み育て、非二元的世界(禅の究極的な悟りから現代のITPに代表されるマイケル・マーフィーやケン・ウィルバーらの諸提案)をも抜き超えた「至高の悦=究極のエクスタシー(源なるエネルギーの次元)」、つまりは、老子の言う『常道』が実在している ‼

 


『老子』が暗示的に語った『常道』の裏に隠された真の意味

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