- 『老子』という書の神秘的色彩 -
『老子』の説く「道」は、意志をもった人格としての「神」もしくは「上帝」ではなく、「道」の精髄(本性)は『無為自然』にこそある。その『道』は、万物に君臨し万物を治めるのではなく、「何もしないことによってこそ、すべてのことがなされる」のであり、「天下万物が生み出され形づくられて以後の、万物自身の運動・変化」も、同じように宇宙生成・化育の重要な一側面でもある。
『道』は「宇宙の根源で、万物を生成する存在」である。また『道』は「宇宙万物の法則・原理」である。さらに『道』の作用は「無為」であり、その存在自体は『限定不能で、五感では感知できないもの』とされている。
老子は『道』の本源性と宇宙の生成性を強調するが、それはことばにはできないものと考え、『道』を神秘化、虚無化するように覆い隠したため、ことばと『道』の関係に矛盾が生じることになった。
ましてや、老子は隠者として、また「不言」「貴言」「希言」の唱導者として、彼は著述をせず、弟子もとらなかったにもかかわらず、関所を出るときにだけ『堂々たる五千字の思者自道』を残した。
この「発憤の書」は、彼が唱導するところの『清静無為の境地』とは確かに矛盾している ‼
これらはいずれもみな批判もしくは検討に値する点があるかもしれないが、たとえどうであるにせよ、老子の中国哲学思想史への貢献は非常に大きいものであり、彼は『道』を通じて神や上帝といった『有神論の哲学源流』に反対し、同時に中国哲学史上に哲学の概念、つまり『パラダイムと体系』をうち立てた。
老子のこの「哲学詩」もしくは「詩的哲学」は中国哲学の思惟と詩学の風格すべてに影響を及ぼしてきたことであり、老子の貢献を拭い消し去ることはできないであろう。
老子の智慧、思想は、伝統文化に多大な影響を与えただけでなく、『中国人の文化心理構造』にも重要な作用を及ぼしている。また、儒家と道家は互いに調和している剛と柔であるというその考え方は、中国の文人の心理構造を制約し、中国伝統文化の発展と完全性を規定しつつ導いてきた。
彼の思想は哲学、政治学、社会学、詩学などの分野に影響しただけでなく、教育、政治、法律、経済、論理学、心理学や宗教などの領域においても看過できない影響を及ぼしている。
そうした『老子』は中国の学術史上、議論が百出した一個の『文化哲学現象』であると言えるだろう・・・。
2012年12月21日
老 子 陽 明
- 目 次 -
『老子』その人その書にまつわる「謎」とは
『老子』その人その書は、20世紀初めの「*1 疑古」の学術思潮の中で時代文化によって誤読され、広範囲で激烈な学術論戦を引き起こした。
*1 疑古:
疑古(ぎこ)とは、古代中国史の歴史記述をめぐる、歴史学・文献学・考古学の立場(歴史観・方法論・歴史学研究法)の一つ。疑古主義ともいう。尚、「疑古」を否定する立場、つまり古史を信じる立場も数多く提唱されてきた。そのような立場は「信古」(信古派)または「釈古」(釈古派)と呼ばれる。信古(釈古)の立場をとる学者は、中国考古学の成果を根拠とする。つまり例えば、先秦の遺跡の発掘調査の成果や、それによって得られた出土文字資料(甲骨文・金文・簡牘・帛書)の解読成果、または年代測定や天文考古学による歴史書の検証成果などを根拠とする。
「信古」と「釈古」の違いとしては、「釈古」の方がより優れた立場、すなわち「疑古」と「信古」を止揚する(どちらにも囚われずに調停する)第三の立場、つまり史料批判をしつつ古史を好意的に解釈する立場、という意味で「釈古」と呼ばれる。そのような「信古」と「釈古」の呼び分けは、1930年代の馮友蘭によって提唱された。あるいは後述の王国維が1920年代の時点で既にそのような立場をとっていた。
この論戦は二つに分けることができる・・・。
一つのテーマは、老子という人物が実在したか否か、そしてその人は一体いつ生きていたのか(いつ頃の人なのか)ということである。そしてそのあとに『老子』一書の作者が老子の著したものであるかどうかというテーマがくる。
そうした「学術界の一大難問(懸案)」は、この200年近く中国学術史上に議論百出の論争を引き起こしているが、これも名著の逃れることのできない宿命であろう・・・。
特に「司馬遷」は、老子のために伝記を書いた最初の人間であり、司馬遷の見方を我々は軽視することはできない。漢代は老子からすでに相当の時間的隔たりがあるため、司馬遷は老子の伝記を作るとき、慎重に資料に基づいて記述した。
彼は『史記・老子韓非子伝』で次のように述べている・・・。
「老子は楚の苦県(河南省)の厲郷、曲仁里の人である。姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は聃(たん/一説に伯陽)といい、周王室の書庫の記録官であった。老子は道徳(虚静無為の道)を修めたが、その学問は、自らの才能を隠し、いわゆる名声などをあげないことを旨とした。久しい間周にいたが、周が衰えたのを見て取りついに立ち去った。関(函谷関とも散関ともいう)に至ったとき、関守の尹喜が言った。“先生はいま隠遁しようとしておられます。どうか、まげて、私のために書物を残してください”そこで、老子は上下二篇の書を記述し、道徳の意について五千余字の文章を残して立ち去った。その後、老子がその生涯をどこでどのようにして終わったかを知るものはない。ある人は、“老棲子もまた楚の人である。著書が十五篇あって、道家の功用についてのべている。孔子と同時代の人だということだ”という。老子は百六十余歳まで生きたといわれ、あるいは二百余歳まで生きたといわれる。道を修めて寿を養ったからであろう。孔子の死後百二十九年たっての史官の記録に、“周の太史の捶が秦の献公にまみえて、‘はじめ、秦は周と合して一つでありましたが、合してから五百年で離れ、離れてから七十年で覇王となるものが出現いたしましょう’と言った”とある。ある人は、“捶がすなわち老子だ”といい、またある人は、“そうではない”というが、世間ではそのどちらが本当なのかを知るものがない。老子は隠君子である。」
司馬遷はここで三人の「老子」をあげている・・・。
第一は名を李耳、字を聃とする老子、第二は老棲子、第三は太史捶である。司馬遷の文章は後の二人について「ある人曰く」の語を用いており、念のために一言ふれただけであることははっきりしている。特に太史捶については、「ある人は、“捶がすなわち老子だ”といい、またある人は、“そうではない”というが、世間ではそのどちらが本当なのかを知るものがない。」とする。
ただし彼は基本的に、完全ではないけれども「老子は楚の苦県(河南省)の厲郷、曲仁里の人である。」という説、つまり名前は李耳、字は聃の老子説に傾いている。
司馬遷が完全に断定する言い方をしなかったために、老子とは一体どのような人間なのかという問題に関して疑問を抱く人々が代々あらわれ、長期にわたる論争が生じることになり、ここでは、論争についての具体的な内容はあげないが、2010年代に至ってもなお、「疑古」と「信古(釈古)」の対立は決着がついておらず、むしろ複雑化し、学者ごとに様々な見解がある。
中でも、戦国もしくは秦漢に成立したという説は、今のところ論拠がまだ十分ではない・・・。
そもそも『老子』という書物は、一人の手によって体系的に著述されたものではないという認識は、『老子』を研究する上で一般的になっている。
日本の研究者らも、武内義雄氏は「五千言中種々の矛盾があるのはそれが一家言でなく諸家の言をあつめてなった証据である。」とし、津田左右吉氏は「最初の原本が既に一人の作では無く、ほぼ類似した思想を持っていた幾人かの学者の言があつめられたものではあるまいか。」とし、木村英一氏もまた「道徳経は、その構造から言へば、多くの断片的な俚諺・格言・名言等の集積に外ならないのであるから、それを構成要素に還元してしまへば、その様な人生の智慧を語った発言者不明の多数の断片的な言葉の陳列に過ぎず、それ以上のものでも以下のものでもない。」とする。
確かに『老子』を読み込めば一見、「春秋戦国期の道家的傾向をもつ種々の金言を意図的に集めて成ったものだ」と、その内容上から考えられる節はある。そのため「道」或いは『老子』の思想の根源となるべきものについても統一されていない感があり、時に相矛盾するような内容となっていて、解釈し難い部分が多々見られる・・・。
しかしながら、『老子』の思想内容の一貫性と体系化、及びことばの緊密さから、老子の門人によって編纂されたものではなく、春秋時代の老子の大きな構想と深い思索が盛り込まれた個人の著作であると考えられる。
1973年12月、馬王堆3号の漢代の墓から帛書『老子』の二種類の抄本が発見された。世に言う甲本と乙本である。
甲本の字体は篆書と隷書の中間ぐらいであり、漢の高祖劉邦の「邦」という忌み名の字を避けていないので、書写された年代は漢の高祖の治世よりも前であろう。
一方、乙本の字体は隷書すなわち今体であり、「邦」の忌み名を避けているが、「盈」(恵帝)と「恒」(文帝)の字は使っているので、書写された年代は高祖の時代であったことがわかり、甲本とそう遠く離れてはいないようである・・・。
甲本と乙本は今より2000年以上前のものであり、当時目にすることのできる最も古い『老子』の抄本であった。そして『老子』帛書の発見により、『老子』が決して漢代の作などではなく、少なくとも秦代より前にすでに流布していたことが証明されたのである。
● 馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ)/『老子』甲本・乙本(帛書本):帛書本『老子』は、いずれの本も道經・徳經が今と逆転しているのが特徴で、『韓非子』の解老・喩老の両篇に引かれる『老子』の章句の順序がやはり道・徳逆転していることから、これが『老子』の古い体裁であるとして注目された。また、今本(通行本)が五千語に対し、帛書本『老子』は五千六百語と文字数としては近い。
それから20年後の1993年、湖北荊門郭店の戦国時代楚国の墓から大量の竹簡が出土したが、そのなかの竹簡『老子』(郭店節抄本)は2300年以上前のものであり、一番最初の祖本ではないものの現存最古の抄本である・・・。
通行本とは異なることばや思想がたくさん見受けられ、学界が真剣に比較と研究に取り組むに値するものであるが、それだけでなく『老子』の成立年代を帛書『老子』よりも100年以上引き上げ、『老子』の成書「晩出説」をひっくりかえして『老子』の時代はすくなくとも戦国時代中期あるいはそれよりさらに早いものであることを証明した。
● 郭店楚簡(かくてんそかん)/『老子』甲、乙、丙三篇(郭店本):郭店楚簡本『老子』は、簡の体裁などから三種類に区別されていて、甲本は都合39枚で一簡の長さが32.3cm、乙本は全18枚で一簡の長さは30.6cm、丙本は全14枚で一簡の長さが26.5cmとなっている。このうち丙本は同時に出土した『太一生水』と名付けられた「古佚書」と全く同じ体裁を持っており、文献学上注意が必要である。古佚書(こいつしょ)とは、先秦から南北朝期に作られた書物の内、既に亡佚して現存しない書物(「古佚書」という)、もしくは一部ないし大半が欠損した状態で現存している書物の佚文(別の古い書物の中で引用されている文のこと)。郭店楚簡本『老子』最大の特徴は、章の順序や区切り方が今の『老子』と全く異なっていることであるが、特筆すべきは、今本(通行本)『老子』に見られる「一」が、「道」を言い換えた鍵概念として極めて重要な思想的意味を担っていることは言うまでもないが、不思議なことに郭店楚簡本『老子』には見当たらない。また、今本(通行本)が五千語に対し、郭店楚簡本は二千語という文字数の差はもっと注目されてよいであろう。
よって、『史記』と先人の考証により、老子が春秋末期の人であり、彼が上下篇五千言の『老子』の著作権を有していることは基本的に認めて差し支えないと思われる。もちろん、この見方は、学術活動の成果を通じて検証を加えつづける必要がある。
一方で、広範囲にわたる「書証(すなわち文献)」と「物証(すなわち出土文物)」の裏付けを得ることが望ましく、「証拠が無ければ人を納得させられない、根拠のあることを言う、単独の証拠では十分に論を立てられない」という原則を堅持し、歴史の本来の面目により近い理にかなった証拠を得、そこから真実に基づいて復元していかなければならない。
もう一方でよいものを選び出し、先学の研究を踏まえて、相対的に整合性のある結論を導き出していかなければならない。
以上により、『老子』は「老聃(ろうたん)」の個人の著作であり、それは対話体ではなく哲学詩もしくは詩的な哲学であり、その伝承の過程で後世の人間によって手を加えられてはいるが、基本的には「春秋時代の老聃の思想」を反映したものであると言えよう・・・。
『老子』の呈示した『巨大な哲学思想』とは
老子は「本体論(存在論)」の斬新な論拠を呈示した。つまり『世界の根源についての命題』を呈示した・・・。
『老子』の思想の根本概念は、一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた「超感覚的な実在」ないしは「宇宙天地の理法」としての『道(TAO/タオ)』である。
「道」は老子の中心概念(最高の範疇)であり、老子の哲学思想は「道」から完全無欠な智慧の哲学大系をたち上げている ‼
先秦哲学では「人生論と政治論」についてだけ語っているものがほとんどであるのに対し、老子の哲学は「宇宙論・本体論」からはじまり、そこから「人生論・政治論」、及び「言語論」にまで議論を展開していると一般的には言われるが、そこから老子の哲学によって「人類の生存と社会の問題」についても考察し、こうした思考を「全宇宙の時空」にまで拡大発展させていくことも可能である・・・。
それゆえ老子の『道(TAO/タオ)』は、その「宇宙論と本体論」が拠って立つところの『根本』であるばかりでなく、その「認識論と弁証論」とが展開できる『基礎』でもあり、そしてその「人生論と政治論」や「言語論と審美論(美学思想)」の重要な『理論的支柱』でもある。
その『道(TAO/タオ)』の在り方を示すのが『無為自然』であり、それを体得した人物を『聖人』とした・・・。
しかし、老子は形而上的な「道」を説く一方で、現実世界で真の成功者となるにはどうすべきかという現実的観点から、「聖人の処世」、「政治の具体相」をくり返し説き、他と争わない「濡弱謙下(じゆじやくけんげ)/柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)の処世」、外界にあるがままに順応してゆく「因循主義の処世」や、人為的な制度によらず人民に支配を意識させない「無為無事の政治」などを強調する。
ところが、実際の『老子』には、乱世をいかに生き抜くかの『権謀術数の書』という一面も、かなり色濃く存在している ‼
この『現実的成功主義』こそ、老子の思想の本来的核心であったが、魏・晋以後は玄学の流行にともなってその形而上的側面が強調深化されるようになった・・・。
その一方、『老子』の思想は他を支配することよりおのれの保身を第一とし、「しいたげられた者の生活の知恵」を根底にもっていた。
いわば『弱者の処世術』である・・・。
現実社会に対する「批判と抵抗」、「超越(逃避)の精神」、その結果としての内面的世界の凝視と精神世界における「絶体的自由の確立」、個が個としての本来的価値を回復しそれぞれの立場に安住することを理想とする「徹底した個人主義」、世俗的常識的価値観を根底から覆えす「価値の転換」、「言語文字の軽視と体験の重視」などは、いずれも社会の底辺にありながら覚めた眼でおのれと社会とを凝視するものの立場を反映したものといえるだろう。
しかしながら、「道」が『老子』において、その思想の根幹であるとする指摘は枚挙にいとまがない・・・。
『老子』の説く「道」は、意志をもった人格としての「神」もしくは「上帝」ではなく、「道」の精髄(本性)は『無為自然』にこそある。「道」は万物に君臨し万物を治めるのではなく、「何もしないことによってこそ、すべてのことがなされる」のであり、天下万物が生み出され形づくられて以後の、「万物自身の運動・変化も同じように宇宙生成・化育の重要な一側面」でもある。
つまり『道』は抽象的な絶対であり、一切の存在の根源であり、自然界中の最初の原動力であり、創造力である ‼
『道』は「宇宙の根源で、万物を生成する存在」である。また『道』は「宇宙万物の法則・原理」である。さらに『道』の作用は「無為」であり、その存在自体は『限定不能で、五感では感知できないもの』とされている。
一方で「道」は現実社会におけるはたらきも見られる・・・。
『老子』の説く「道」は、本来相対的価値を否定し、おぼろげであり微妙である存在で、かつ万物の主宰者とはならないと説かれているにも拘わらず、一方では『老子』の「道」が他学派に対して優越性を持ち、規範として明確化され、万物に絶対的従順を求めるものという、『自己矛盾を抱える存在』となっている。
そうした『老子』は中国の学術史上、議論が百出した一個の『文化哲学現象』であると言える・・・。
まず、老子自身が相反する議論を内に抱え込んでいる問題にほかならず、二重性をそなえた矛盾体である。一方で、老子は「礼」の専門家であり、孔子もかつて彼に「礼」について質問したことがあるが、晩年になると老子は「礼」に手厳しい批判を加えている。
ところが、『老子』の中では意外なことに慈、倹、孝、祭祀など「礼」に関する問題について大いに論じている・・・。
老子は「道」の本源性と宇宙の生成性を強調するが、それはことばにはできないものと考え、「道」を神秘化、虚無化するように覆い隠したため、ことばと「道」の関係に矛盾が生じることになったのである。
老子は隠者として、また「不言」、「貴言」、「希言」の唱導者として、彼は著述をせず、弟子もとらなかったが、関所を出るときにだけ「堂々たる五千字の思者自道」を残した。この発憤の書は彼が唱導するところの『清静無為の境地』とは確かに矛盾している。
彼の書を「陰謀家の治世の術」で「君主南面の術」などと言うものもいるが、彼は『老子』の中ではっきりと専制独裁統治に反対し、戦争に反対し、一切の社会の不平等に反対している。
こうした諸矛盾が老子の神秘的な表情と『老子』という書の神秘的色彩を生み出しているのである ‼
根本に立ち返り、無知、棄智を主張する老子のやり方は、多くの学者から批判を浴びる。また彼の、心を静めてなにもなさず、柔らかく弱々しく他意を迎えあえて逆らわないという考え方も、進取の気性が乏しく退嬰的とみなされ、「小国の寡民」に至っては、原始社会に後退する『消極的思想』と受けとめられた・・・。
これらはいずれもみな批判もしくは検討に値する点があるかもしれないが、たとえどうであるにせよ、老子の中国哲学思想史への貢献は非常に大きいものであり、彼は「道」を通じて神や上帝といった『有神論の哲学源流』に反対し、同時に中国哲学史上に哲学の概念、つまり『パラダイムと体系』をうち立てた。
特に重要なのは、中国の哲学の中に含まれる「本体の概念の提示」とその「規範となる模式の構築」は、いずれも『老子』と関わりがある ‼
老子のこの「哲学詩」もしくは「詩的哲学」は中国哲学の思惟と詩学の風格すべてに影響を及ぼしてきたことであり、老子の貢献を拭い消し去ることはできないであろう。老子の智慧、思想は、伝統文化に多大な影響を与えただけでなく、『中国人の文化心理構造』にも重要な作用を及ぼしている。
また、儒家と道家は互いに調和している剛と柔であるというその考え方は、中国の文人の心理構造を制約し、中国伝統文化の発展と完全性を規定しつつ導いてきた。彼の思想は哲学、政治学、社会学、詩学などの分野に影響しただけでなく、教育、政治、法律、経済、論理学、心理学や宗教などの領域においても看過できない影響を及ぼしている。
老子は道家学派の創始者として漢代以後、次第にに神格化され宗教化されて道教の教主となり、「太上老君」とよばれるようになる。ただ彼の思想は道教と関連性があるとはいえ、両者の間には本質的な違いが存在する。また老子の思想は後世の道家の諸派に大きな影響を与えた。
先秦から明清まで老子の影響を被った道家の学派はたくさんある・・・。
たとえば、「荘子」を代表とする逍遙派、「呂氏春秋」に代表される養生思想を中心に据えた養生派、「玄の又玄」を強調する漢代の揚雄に代表される玄学派、「漢代の劉徳」を代表とする知足派、「魏晋の王弼、何晏」を代表とする貴無派、そして「道は隠れて名無し」という宗旨の影響下にある隠逸派などがある。
二千数百年来、老子とその書、その思想は儒家思想とともに中国思想の枢軸を構成していたと言えるであろう ‼
老子の思想は中国人の思惟に重大な影響を与えただけでなく、日本や西洋にも軽視できない大きな影響を及ぼしていた。隋代には早くも日本に『老子』が伝わり、平安初期には『老子』に注を加えた書籍、たとえば河上公、王弼、梁武帝、唐玄宗、成玄英など人々の注釈書が大量に将来されている。江戸時代になると、日本でも独自の老子学派が形成されている。20世紀の日本人研究者も老子には熱烈なる関心を示し、数多くの翻訳が出版されたのみならず、研究書も八十余点上梓されている。
西洋では19世紀から20世紀末までに八十数種の『老子』の翻訳本が出ている・・・。
1823年にはフランス語の抄訳本が出、1842年には『老子』の完訳本が出版された。1872年の前後にはドイツ語訳本と英語訳本が刊行されている。1893年、ロシアのレフ・トルストイはドイツ語訳から『老子』を重訳している。
第一次大戦後、ドイツでは「老子ブーム」がおこり、80年代初頭までにドイツで出版された『老子』の訳書は十余点を数える。特に著名な哲学者「マルティン・ハイデッガー」は晩年、黒森に住んでいたが、彼の机の上にはこの『老子』が置かれていた。彼の晩年の思想、とりわけ「道」に関するもの、言語に関するものなどは老子の神秘的な東洋思想との間に無視することのできないつながりがある。また、ロシアの学者の「老子学」の研究も高いレベルに到達している。
この数十年来、アメリカの学者は非常に「老子学」の研究を重要視している。比較的重要な翻訳と著述に、林語堂編訳の『老子の智慧』 、ブレイクニー編訳『生活の道』 、陳栄捷著『老子の道-道徳経』 、R.G.ヘンリックス訳『老子「徳道経」』 、A.シャア編『道-東洋と西洋とにおける受容』、M.ラファーグ著『道と方法』などがある。
総じて言えば、老子の思想は中国思想の重要な構成要素であるだけでなく、すでに世界的意義を有する重要な思想となっているばかりか、老子の思想は現在の全地球的規模な消費主義化、デジタル化の流れの中で、重要な警世の意義を有しており、生態のバランス、生存競争、享楽主義、拝金主義、快楽の追求といった思潮の前において、『老子は疑いもなく警世の鐘』であり、「知の思索から生命の道、文化と社会の道、そして宇宙の道」を見るよう人々に語りかけてくる。
本来の真性をまもり、物欲に煩わされない老子の思想、智慧は、時代の変遷によって消えてなくなることはありえない ‼
『道(TAO/タオ)』と相通じている彼の思想、そして大いなる智慧のことばは新時代、新世紀においても人類の生存に全く新たな啓発と影響を与えることであろう・・・。
『道家』と『道教』とは
老子の思想を根本とする『道家』や『道教』を広くは「タオイズム」と呼ぶが、タオイズムそのものには、さまざまな観念技術も思想要素も多様になっている。そこには神仙道もあれば、導引術のような呼吸医術もあり、呪術(方術・道術)もある。王羲之や竹林の七賢のような清談(せいだん)の趣向もまじっている。
ここに、「陰陽タオイズム」と「神仙タオイズム」という分け方ができる・・・。
そういうタオイズムが、やがて五斗米道や全真教のような過激な成団道教の運動にもなっていった。そこには老子の『無為自然の思想』から逸脱したものも少なくない。しかし、どんなに逸脱しても、道家・道教は老子を忘れない。しばしば「黄老」と尊称して、黄帝と老子を同一視した。
それはすべての仏教が「ブッダを忘れない」というような意味になっているかというと、また儒教が「孔子を忘れない」ようになっているかというと、そうではない。
つまり、老子は『*2 ロゴス』の中心にはいない。そこが老子の不思議なのである・・・。
*2 ロゴス:
ロゴス(logos)とは、古典ギリシャ語に起源を持つ言葉で、「言葉」「論理」「真理」等を意味する。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」または「言葉(言詮)を通じて表される恒常的真理もしくはそれに付随する言詮内容」という意味で用いられることもある。また「宗教(ミュトス)的位相」であるキリスト教では、神のことば、世界を構成するミュトスに基づく論理としてのイエス・キリストを意味する。
最初期に『ロゴス』を世界原理とした古代ギリシャの哲学者「ヘラクレイトス(紀元前540年頃 – 紀元前480年頃)」は、世界の本性である「アルケー(万物の始源、また宇宙の根源的原理。ただし、原子の意味ではない)」は、火また戦(戦争)にあると説いた。つまり、変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると述べた。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物である。
そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのが『ロゴス』であるとされ、「パンタレイ(万物流転)」のあいだに存する、調和・統一ある理性法則(ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理)として把握された。つまり、万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、『ロゴス(logos)』を見ている。
『ロゴス』が哲学用語として注目されるのは、ヘレニズム期のストア哲学である。ストア派において、『ロゴス』は根幹となる概念であり、世界を定める「理」を意味する。ストア派の『ロゴス』は「ピュシス(ありのままの自然の本性)」や「テュケー(運命)」とも表現され、神とも同一視される。また人間は、世界の一部であり「人間の自然本性(人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念である。心理学では特に進化心理学と発達心理学が人間の本性を明らかにしようと科学的な取り組みを行っている)」として『ロゴス』を持って生まれているとされる。こうした「人間の自然本性」としての『ロゴス』はダイモーンやヌースとも呼ばれ、これに従った生き方が賢者の生き方であるとされる。
従来、「道家」と「道教」とは相互関連しているとの認識であるものの、異なる概念であり、両者は同じものではないと考えられてきた・・・。
「道家」と「道教」の根本思想である『老子』は、前述の “『老子』その人その書にまつわる謎 ” において記述したように、その思想を記した『老子道徳経』の成立時期もさまざまな説があるものの、老子の思想は、後の世の『荘子』『列子』『管子』『文子』『呂氏春秋』『韓非子』『荀子』『淮南子』に多大なる影響を与え、乱世をいかに生き抜くかの『権謀術数の書』という一面も、かなり色濃く存在していることから、『*3 鬼谷子』や『孫子』などにも影響を与えたと考えられる。
*3 鬼谷子:
鬼谷子(きこくし)とは、諸子百家の一つで、中国の戦国時代に鬼谷(鬼谷子)によって書かれたとされる書。遊説の方法について書かれている。鬼谷は陳(楚の地)の人であるが、斉の稷下の学士であったかどうかは不明であり、専門といえば国際外交のような謀略である。学問というよりは、術のようなものに属していた。道教では鬼谷子を「古の真仙」とみなし、人間界で100歳あまり生き、その後は分からないとしている。本の『鬼谷子』は道教の経典『道蔵』に保存されている。民間の伝説では鬼谷子は占い師の開祖であり、道教では鬼谷子を玄都仙長と尊称する。『孫龐演義』という通俗小説では、孫臏と龐涓の師としている。
『老子道徳経』は「荘子学派(『荘子』外篇・雑篇)」や、「道家(『淮南子』など)」に影響を与え、老子と荘子の思想は「老荘思想」として統合されることになり、後に「道教」となった。ただ、「道教」の教えに近い『荘子』と、宗教的な内容が乏しい『老子』は内容にかなりの違いが有るため、果たして同一視してよいかどうかは異論が有る・・・。
戦国時代後期には、『老子』の「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は知られていたとされ、「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、老子の思想と同じ『道家』という学派で解釈されるようになった。
諸子百家の『道家』とは、先秦の黄老学派を代表する老荘思想を含む学術的な流派の一つであり、宇宙の起源や万物の生成、社会の興亡や人の善悪などを議論し、独自の学説を立てていた。
『道家の思想』は、「道」を究極の境地とし、「清浄な無為」の原則に基づく身体の修行だけではなく、国を治める方法としても使われ、「道法自然」の概念を通して、人と内外天地の間との関係にも対応した。「道」「天」「無」「無為自然」「養生」などの思想や、儒家批判を特徴とする道家の思想は、特に魏晋南北朝時代の清談・玄学で取りあげられ、道教・禅仏教・神仙思想とも関わりが深く、日本でも古くから受容された・・・。
漢代に入ると、『老子道徳経』の思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えた「黄老思想(黄帝と老子を神仙として崇拝する思想)」が成立した。
前漢の建国の際には、彼らの「清浄無為の思想」を用いて指導がなされ、後漢になると黄老思想は徐々に神秘化され、宗教的な面が現れるようになった。その過程で、老荘思想的な原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まり、老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になったのである・・・。
『道教』とは、中国三大宗教(三教:儒教・仏教・道教の三つ)の一つであり、ほかに「道家の教・道門・道宗・老子の教・老子の学・老教・玄門」などとも呼ばれる。
老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに様々な要素が積み重なった宗教とされ、「道」を教化したり修行したりすることで「仙人になり道を得る」ことを目的とした。
典型的な多神教であり、なにをもって道教の成立とみなすかについては諸説あり、道教による伝説的な説としては、道教は老子によって作られたとする説や、宇宙の創成者である元始天尊によって作られて老子に継承されたとする説、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖となって教団が創設されたとする説などがある。
「道教」は中国古来の宗教的な諸観念をもとに長い期間を経て醸成されたもので、一人の教祖が始めたものとはいえない。つまり、老子が道教の教祖であるとはいえないが、『老子』に説かれる「道」の概念が道教思想の根本であることは確かである・・・。
ほかにも、『墨子』の鬼神信仰や、『儒教』の倫理思想・陰陽五行思想・讖緯思想・黄老道(黄帝・老子を神仙とみなし崇拝する思想)なども道教を構成する要素として挙げられ、金属の精錬技術や医学理論との関係も深い。
「道教」はその長い歴史の中で、悪魔祓いや治病息災・占い・姓名判断・風水などと結びついて社会の下層に浸透し、農民蜂起を引き起こすこともあった一方、社会の上層にも浸透し、道士が皇帝個人の不老長生の欲求に奉仕したり、皇帝が道教の力を借りて支配を強めることもあった。
また、隠遁生活を送った知識人の精神の拠りどころとなる場合も多く、こうした醸成された道教とその文化は現代にまで引き継がれ、さまざまな民間風俗を形成している。
道教は宗教としての経典、教義、制度、儀式を加え、各教派と道観は歴史とともに発展し、このような具体的な宗教の伝承は、初期の黄老学派や方士思想とは明らかに異なってはいるが、「道家」は「道教」の信仰理論のみなもとであるため、両者を分けるわけにはいかない。
また、「四庫全書」の主編である紀曉嵐は、道家を「綜羅百代,廣博精微(あらゆる時代を網羅し、広範かつ精微なもの)」と称したが、この特徴は、道教の1800年にわたる発展過程にも反映されており、先秦の老荘典籍を取り込むことから、長期にわたる宗教活動を経て、その間に漢代以降の方術、数術、讖緯、そして仏典までに取り込まられ、教義、戒律、内外修行、齋醮科儀などに関する多種多様な経典を生みだした・・・。
隋唐から北宋時期にかけて、皇室や貴族による道教への崇敬から、道教信仰は盛んになり、社会的な影響も大きくなり、『道教』の義理思想・練気養生・符籙呪法・科儀規章などが完備されていった。
晩唐から北宋以降、主に内丹修行を中心とした金丹道派が堀起し、南宋や金元時代には、北方には全真道・太一道・真大道など新しい道派が現れ、南方には神霄道・清微道・淨明道なども現れた。
明代では、多くの皇帝(永楽帝と嘉靖帝など)が道教と密接な関係を持っていた。清代に入ると、皇室の信仰は主に仏教に向けられ、道教の発展は段々衰えていった・・・。
『養生説』などにおいて道教が道家の思想の影響を受けていることは確かであるが、従来の日本の学界では両者は区別されて考えられるのが一般的であった。ただし、欧米圏では中国における道家思想・道教・民間信仰などは同一視される傾向が強く、道教の源泉は道家思想に求めることが多いことから、近年は、道家・道教の区別はさほど強調されないことが多い。
『老荘思想』と『無為自然』とは
そもそも、「無為」と「自然」は共に『老子』にみられる語であり、老子はことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした。また、「自然」という言葉は、もともと中国に由来するものであるが、中国で自然という語が最初に現れてくるのは『老子』においてである・・・。
特に『無為自然』という語は、老子思想の精髄をなすものであり、「老荘思想」を論ずる人々が常に口にするところであるが、現代においても世間一般によく使われているその意味内容は必ずしも明瞭に把握されていないように思われる。
事実、『老子』にも『荘子』にも、「無為自然」の四字が連用されたところは一ケ所もなく、「無為」と「自然」は別々に使用されている。『老子』における使用例を挙げると「無為」が十章十二ヶ所、「自然」が五章五ヶ所に出ているが、いずれも離ればなれになっているのである。
いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味であるが、老荘思想では『無為自然』を重視し、それに対立するものとして人為的なものを否定する。
そこから現在の意味の「自然」を尊いものと見る観点が生まれたと考えられ、彼らは往々にして山間や森林に隠れ住み、また山や川を愛でた。いわゆる水墨画、山水画などもこの流れにある・・・。
因みに『老子』全81章中、37章が「道」について言及しており、あわせて79回出てくる。使用頻度の最も高いキーワードである。「徳」も全部で16章の中に47回登場する。「道」について言及している章は「道経(上篇)」に限らず全編にわたっており、この傾向は「徳経(下篇)」の出現でも同様である。
その「道」は現実世界や人間の生き方において具象化したときは「徳」とよばれ、「徳」は「道」の外にあらわれたはたらきにほかならない。「道」と「徳」は老子の論述の核心となる範疇であり、それゆえ後世、これを以て書名『老子・道徳経』としている・・・。
昔の日本においてはそもそも、自然は「じねん」と読み、親鸞聖人は自然を「おのずからしからしむ」と読んで、世界を今あるようにあらしめる阿弥陀如来の働きを見いだした。また、現代語の「自然=nature」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在しなかった・・・。
『自然(じねん)』とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、「ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけ」という、因果によって生じたのではないとする無因論のことであり、仏教の因果論を否定した。
つまり、日本には仏教から見た「外道の思想」のひとつである精神風土がある・・・。
「じねん」は自然の呉音読み(日本の音読みの一つ)であり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。
親鸞聖人は最晩年、「自然法爾(じねんほうに)」、つまり「あるがまま」「そのまま」を強調し、自己中心的な考えや行動など、すべてのはからいが脱落し、自力による分別を離れたとき、『自然の道理』、すなわち「仏のはたらきによって、あるがままに生かされることを知る」と述べた・・・。
そのように日本人にとって、自然とは自己と切り離されて客体的に存在するものではなく、自他を峻別する人間のさかしらを捨てたときに立ち表れる、ナマのままの世界であった。
一方、中国の古典(いわゆる漢文)には、一般に1つの語のうちに正反対の意味をふくむものがあり、これを『反訓』とよんでいる・・・。
反訓とは、「亂(らん)は治なり」というように、一字のうちに、同時的に正反の相反する両義をもつような文字の用い方をいう。中国の訓詁学(古代の言語を解釈することで日本の訓読みの「訓」もこれに由来する)において、古くから問題とされているものである。
自然の『自』についてみると、その訓読として「みずから」と「おのずから」の二つがある。みずからの場合には、「その働きが意識や努力を伴うこと」を意味し、おのずからは、「それを伴わないこと」を意味する。したがって、この二つの訓は、意識や努力の有無という事実を中心として見れば、正反対の方向をさすものといえる。
とするならば、この『自』も反訓の語であるということになろう。しかし漢文を読んでいると、「みずから」と読んでも具合が悪く、「おのずから」と読んでも具合の悪い『自』に出あうことが珍しくはなく、どちらでもない『自』がある。
つまり、「みずから」と「おのずから」の対立が現われる以前の『自』、対立以前の共通の地盤となる『自』があるはずである。その『自』とは、どのような意味をもつのであろうか・・・❓
『自』とは『他』の反対概念である。つまり、自とは他でないことであり、「他の力を借りない」という意味である。もし自の下に動詞が続くような場含には、『他のカを借りないで、それ自身に内在する力によって、そういう働きをする』という意味になる。これが「自の第一義」であるといえる。
この自己に内在する力が、意識や努力を伴って現われる場合が「みずから」であり、それを伴わない場合が「おのずから」である。もし意識や努力の有無ということを度外視すれば、それは「みずから」でもなく「おのずから」でもなく、それは単なる『自』であり、この言葉の意味を正確にあらわす日本語は見あたらない・・・。
次ぎに『自然』という熟語になった場合について見ると、これは『おのずから然り』と訓読する例が圧倒的に多い。つまり人為の反対概念である場合が多数を占める。
しかしながら、このような意味が自然の第一義であるとは考えられない・・・。
「自の第一義」が他に対する自であり、他の力を借りないという意味であったように、「自然」は「他然」の反対語であることから、その第一義は『他者の力を借りないで、それ自身のうちにある働きでそうなる』という意味であり、列子黄帝篇の張湛の注に『自然とは外に資らざるなり』とあるのが、まさしくこれである。
この「自然の第一義」を、自己の哲学的立場として発展させて行った代表的な例としては、晋の郭象がある。郭象は三世紀後半の人で、荘子の注を書いたのであるが、それは同時代の多くの荘子注を圧倒して流行し、今日では最古の荘子注として残っている。もっとも、郭象の荘子注は、自己の哲学的立場を荘子の本文の解釈に押しつける傾向が強く、その意味では最も悪しき荘子注であるかも知れない・・・。
また「老子」や「荘子」が、しばしば『無』を唱えるのは何のためであろうか・・・❓
それは『物を生ずるような物(造物者)は存在せず、物はそれ自身に内在する力によって生ずる』ことを明らかにするためである。
そこで、「自然の第二義」として『無為自然』、人為を否定するところに現われる自然、「人工」の対立概念としての「自然」をあげてみたい・・・。
普通に自然という場合には、この「無為自然」をさしている場合が最も多い。自然現象や自然科学という場合の自然は、いずれも人為に対立する意味での自然、「無為自然」を意味しているものと見られる。
このような意味での自然の観念に近いものは、中国においても古くから見出されるのであって、陰陽五行などの理数によって支配されている世界は、人為に対立するものであり、その意味において「無為自然」の一種であるといえる。
しかし中国で『無為自然』という場合には、直ちに老荘を連想するほどに、両者の関係は深い。そもそも無為自然という言葉は、本来は老荘の用語である。老荘の立場を一言でいえば、「人為を棄てて自然のままに生きよ」ということに尽きる。
その場合の『無為』とは、「感覚世界を超越した実在」、いいかえれば『道(タオ)』にほかならない。そして、「老荘思想」における『自然』とは、「人間のはからいを棄てるところに現われる絶大で霊妙な働き」を意味する。
人為の主体である人並の立場を放棄するところに、自然のもつ霊妙な摂理が現われるとし、自然の摂理に対する絶対的な信頼、これが「道家」や「道教」の哲学を支える地盤である。
しかし一口に老荘といっても、老子と荘子とでは『自然』の捕えかたが微妙に変化している・・・。
『老子』の立場は、全体として社会的な傾向が強く、そのため人為を主として文化というかたちで受けとめる。したがって「文化のない太古自然の世を理想とし、赤子の状態を人間の理想像」とする。
これに対して『荘子』の場合は、より多く宗教的であるために、自然を運命のかたちで受けとめようとする。したがって荘子が無為自然という場合、それは「一切のはからいを棄てて運命のままに生きよ」という意味になる。
また、『無為』についても両者の傾向には違いがある・・・。
『老子』は「無為の治(むいのち)」、すなわち君主が無為であれば国はかえって治まる、という政治思想を説いている。これは後に「黄老思想」として理論化され、前漢前期に流行した。
『荘子』は、心の平穏を得た境地を説明する際に「無為」の語を多く用いている。また、包丁名人や蝉採り名人のように、特定の行為を極めた人も、「無為と同様の境地に至る」とされる。
中国哲学における『無為』は、「道家思想(老荘思想)」の根本概念であり、人間や政治の理想的あり方であったが、後世の「道教」では、宗教行為として行うのが困難だったためか、『無為』が説かれることはあまり無かった。
一方、日本ではよく、老子の思想は無為自然で「無心」を勧めているのだから、「無欲」に徹することこそ統治の理念だろうと言われるが、日本人はそこに気をとられすぎている。それは老子独特の表現で、『過剰な作為や過度の執着を戒めた』と見たほうが良いであろう。
なお、『無為』という言葉自体は「儒家」や「法家」、「中国仏教」などでも使われる・・・。
『老子』の「自然」は実に現象としての自然ではなく、その現象の奥に道理や理法と称せらるべきものを想定して、それに順うことが「自然」であり、それに反するものが不自然だと考えている。
其の上で、『老子』の「無為(感覚世界を超越した実在)」とは私利私欲を排除して、清静虚明な人間本来の精神に立ち返り、「自然(人間のはからいを棄てるところに現われる絶大で霊妙な働き)」と一体になることである。
その窮極においては「無為即自然」「自然即無為」ということになる。つまり、実在の側からいえぱ「自然」、人聞の側からいえぱ 「無為」ということである。
後世の人々が両者を連用して『無為自然』なる語を作製した所以は、結局のところ「無為」も「自然」も「無為自然」も実質的には全くの同義語だったのである。ただ老子や荘子に忠実に記せば『無為・自然』であるべきであろう・・・。
『老子』の「道」、その精髄(本性)こそが『無為自然』
『老子の思想の根本概念』は、一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた「超感覚的な実在(感覚世界を超越した実在)」ないしは「宇宙天地の理法(宇宙万物の法則・原理)」としての『道(TAO/タオ)』であり、その『道』は「宇宙の根源で、万物を生成する存在」である。
さらに『道』の作用は『無為』であり、その存在自体は『限定不能で、五感では感知できないもの』とされている。
そして老子は、『道』のほうが「天」と比べてより根源的であり、「天」は『道』より派生したものだとした・・・。
「形はないが、完全な何ものかがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、がらんどうで、ただひとりで立ち、不変であり、あらゆるところをめぐりあるき、疲れることがない。それは天下(万物)の母だといってよい。その真の名を我々は知らない。(仮に)“道”というあざなをつける。真の名をしいてつけるならば、“大”というべきであろう。“大”とは逝ってしまうことであり、“逝く”とは遠ざかることであり、“遠ざかる”とは“反ってくる”ことである。だから“道”が大であるように、天も大、地も大、そして王もまた大である。こうして世界に四つの大であるものがあるが、王はその一つの位置を占める。人は地を規範とし、地は天を規範とし、天は“道”を規範とし、“道”は“自然”を規範とする。」【第25章】
ここで言う「“道”は“自然”を規範とする」とは、原文である『道法自然』の逐語訳(ちくごやく:原文の一語一語を忠実に解釈・翻訳すること、また、そのような翻訳・解釈)であり、多くは「道は自然に法(のっと)る」や「道はそれ自身、すなわち自然の法にのる」、または「道の法(規範/道の在り方)は、本来の己に由来する」と訳する。
さらに語釈(ごしゃく:言葉の意味を説き明かすこと。語句の解釈)するならば『道は他者の力を借りないで、それ自身のうちにある働きでそうなる』、つまり「道」は『常に自力による存在(自身に拠って立つ存在)』と言える。
老子はまた、『道』は「上帝」や「神」の存在の根本であるとまで強調している・・・。
「いくら汲み出しても、あらためていっぱいにする必要はない。それは底がなくて、万物の祖先のようだ。(そのなかにあっては)すべての鋭さはにぶらされ、すべての紛れは解きほぐされ、すべての激しいようすはなだめられ、すべての塵は(はらい除かれ)なめらかになる。常にふかぶかと水をたたえた深い池のようだ(湛々とした水のような静かな姿で深い淵のようにほの暗く、そこにあるようだ)。それは何ものの子であるのか、我々は知らない。(だが、それは実質のとらえがたいすがた)象として、(太古の)帝王より以前から存在していた(神の前に存在する“あるもの”のようである)。」【第4章】
老子はさらに『道』をなすという本体論について、ある「具体的な道」から「哲学の道」へと『道』に「形而上の超越」を加えている。つまり「“道”が語り得るものであれば、それは不変の“道”ではない。」【第1章】とし、「不変の道」と具体的な「語り得る道」とを分け、そこから『道』に「形而上の性格」を賦与している。
この語り得ない「不変の道」は、『相対を超越した一個の絶対本体』であり、それは『左伝』、『国語』、『論語』などが説くところの「先王の道」、「君子の道」、「人生の道」などとは異なる。なぜなら、これらはみな『語り得る道』であり、「人間の道」に属するものだからである。その「不変の道」を宇宙万物の本体論としていることからすれば、『存在の本体』ということになるであろうし、世界の生存論としては『本源』ということになる。
老子のこの巧みな考え方は、早期中国哲学における『精神の自覚』ということが言えるであろう・・・。
老子の『道』は、一般の事物とは異なる、有るようで無く、無いようで有る『形而上の存在』と言うことができる・・・。
それゆえ、彼は、「“道”というものは実におぼろげで、とらえにくい。とらえにくくておぼろげではあるが、そのなかには象(かたち)がひそむ。おぼろげであり、とらえにくいが、そのなかに物(実体)がある。影のようで薄暗いが、そのなかに精(ちから)がある。その精は何よりも純粋で、そのなかに信(しるし/確証)がある。」【第21章】と言う。
また、「目をこらしても見えないから、すべり抜けるものとよばれ、耳をすましても聞こえないから、かぼそいものとよばれ、手でさわってもつかめないから、最も微小なものとよばれる。これら三つのことは、それ以上つきつめようがなく、まざり合って一つになっているのだ。それが上にあっても明るさはなく、それが下にあっても暗さはない。次々と連続して名状しようもなく、何物もないところへもどってゆく。それらは状(すがた)なき状、物とは見えない象(かたち)とよばれ、はっきりとはしないそれらしきものとよばれる。それに正面から向かっていっても顔が見えないし、あとについていっても後ろ姿も見えない。だが、いにしえの“道”をしっかり握れば、いま現にあるものを制御し、いにしえの(すなわち)すべてのはじまり(にあったもの)を知ることができる。これが“道”の 紀(もとづな)とよばれる。」【第14章】と述べる・・・。
つまり老子は、なかに象(かたち)がひそみ、なかに物(実体)がありながら、状(すがた)なき状、物とは見えない象(かたち)というこの物質的実体は人間の意志では動かすことのできない永遠の存在であり、ありとあらゆる所を運行し、永久に停止することのないものでもあるため、これを『道』と命名するしかないのである ‼
論理学の本体論における『道』の意味から言えば、それは「宇宙生成論」と関連性があるだけでなく、それ自身にも特徴がそなわっている。それは本体的な第一存在の『道』を、ことばで表現できないということによって制限を加えられたものであるため、「この本体に関してはいかなる規定性ももたず、ただ純粋無な思惟の立ち上がるはじめの状態(初期の状態)」であるとみなしている。
『道』こそは「純粋存在であり、分析不能な純粋存在もしくは純粋無」である。それは『普遍的規律の先在性を強調し、普遍的規律を最高の実体』としている。
其の上で老子は、宇宙生成の過程について相当深く思索し、後世の人々の議論を呼び起こすような言説を残している・・・。
「“道”は“一”を生み出す。“一”から二つ(のもの)が生まれ、二つ(のもの)から三つ(のもの)が生まれ、三つ(のもの)から万物が生まれる。すべての生物は背を陰(ひかげ)にして陽(ひかり)をかかえるようにする。そして陰と陽の二つの気(いぶき)のまじりあった深い気によって(万物の)調和(平衡)ができる。」【第42章】
つまり、『道』は「一」の前にあり、「一」は天地が分かれる前の総体であり、「二」はすでに分かれた天と地であり、「三」は陰陽と衝気であるという・・・。
もちろん、その意味を理解するとき、我々は一、二、三がここで具体的にさす事物をいちいち対照して比べる必要はないであろう。
なぜなら大部分の不一致はみなここから生じているからである・・・。
ここでいうところの「一、二、三」は、『道』の万物創生の過程を形容しており、それは最も抽象的な本体から絶えず物質世界へと下りてきて具体的な形をとり、万物を創生する・・・。
これこそがまさしく『老子』でいう「天下のあらゆる物は“有”から生まれる。“有”そのものは“無”から生まれる。」【第40章】であり、『道』から万物が生まれるというのは、「少」から「多」へのプロセスであり、万物は「無」からのみ生まれると観照している。
つまり、「無」は『道』であり、『道』から「有」が生まれ得る。つまりは、『道こそは無と有の統一(統合)』ということになる ‼
老子はまた「“道”が(すべてを)生み出し、“徳”がそれらを養い、物それぞれに形を与え、環境に応じて成熟させた。それゆえに、あらゆる生物はすべて“道”をうやまい、“徳”をとうとぶものである。」【第51章】とする。
これは『道』が万物を創生したあと、万物を成長させ、栄養を与えつづけていることを述べており、だからこそ『道』が宇宙万物を生み育んだのだと言う。
そして『道』は万物に君臨し万物を治めるのではなく、「何もしないことによってこそ、すべてのことがなされる」のであり、天下万物が生み出され形づくられて以後の、「万物自身の運動・変化も同じように宇宙生成・化育の重要な一側面」でもあった・・・。
その『道』は意志をもった人格としての「神」もしくは「上帝」ではなく、「道」の精髄(本性)は『無為自然』にこそあると断言する ‼
前述の『老荘思想』と『無為自然』で指摘したように、老子が唱える『無為』とは、「感覚世界を超越した実在」、いいかえれば『道(TAO/タオ)』にほかならない。そして、『自然』とは、「人間のはからいを棄てるところに現われる絶大で霊妙な働き」を意味する・・・。
老子の『無為(感覚世界を超越した実在)』とは、私利私欲を排除して、清静虚明な人間本来の精神に立ち返り、『自然(人間のはからいを棄てるところに現われる絶大で霊妙な働き)』と一体になることである。
その窮極においては「無為即自然」「自然即無為」ということになる。つまり、実在の側からいえぱ『自然』、人間の側からいえぱ 『無為』ということである ‼
ただし、前述でも指摘したように、日本ではよく『老子の思想』は無為自然で「無心」を勧めているのだから、「無欲」に徹することこそ統治の理念だろうと言われるが、日本人はそこに気をとられすぎている。
それは老子独特の表現で、『過剰な作為や過度の執着を戒める』と見たほうが良いであろう ‼
『老子』の重要思想『生命体験にもとづいた悟りと観照』
『老子』の説く「道」は、『宇宙の根源で、万物を生成する存在』である。また「道」は『宇宙万物の法則・原理』であり、さらに「道」の作用は『無為』であり、その存在自体は『限定不能で、五感では感知できないもの』とされている。
『老子』がしばしば「無」を唱えるのは、『物を生ずるような物(造物者)は存在せず、物はそれ自身に内在する力によって生ずる』ことを明らかにするためである。「無」は『道』であり、『道』から「有」が生まれ得る・・・。
つまりは、『道こそは無と有の統一(統合)』ということになる ‼
『道』は万物に君臨し万物を治めるのではなく、『何もしないことによってこそ、すべてのことがなされる』のであり、天下万物が生み出され形づくられて以後の、『万物自身の運動・変化も同じように宇宙生成・化育の重要な一側面』でもある。
さらに『老子』の説く「道」は、意志をもった人格としての「神」もしくは「上帝」ではなく、『道の精髄(本性)は無為自然にこそある』と断言する・・・。
つまり、老子の『道』は「抽象的な絶対」であり、「一切の存在の根源」であり、「自然界中の最初の原動力」であり、「創造力」である ‼
しかし、ここ二千数百年来、決定的にその崇高で深淵(勇壮かつ玄妙)なる老子の『道(TAO/タオ)』に繋がる(「道」に精通する)「真理(スピリチュアル・バリュー/精神的価値)」から、「真実性と具象へ至る不変的(普遍的)プロセス」が、いまだ『抽象の域』でジレンマを踏んでいる・・・。
つまり老子は、「形而上的な道の本源性と宇宙の生成性」を強調するが、それはことばにはできないものと考え、「道を神秘化、虚無化するように覆い隠した」ため、『ことばと「道」の関係に矛盾が生じる』ことになった。
また老子は『隠者として「不言」「貴言」「希言」の唱導者』として、彼は著述をせず、弟子もとらなかったが、関所を出るときにだけ『堂々たる五千字の思者自道』を残した。
この「発憤の書」は、彼が唱導するところの『清静無為の境地』、いわゆる「言語文字の軽視と体験の重視」と矛盾していることなどが、後の学術史上において議論を百出させ、こうした諸矛盾がいまもなお『老子』に影を落としている要因に他ならない・・・。
延いては、形而上学的領域を「語って」しまう形而上学は意味を為さない『命題の集合』に堕するほかなく、「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」のである ‼
この言明は現在でもしばしば引用される・・・。
しかし、大方の了解とは異なり、神秘主義的で不可知論的な命題が語られているわけでも、あるいは逆に形而上学的な領域の存在を否定しているわけでもない ‼
『老子』においては、「語りえぬもの(語られえないもの)は示されうる」のである・・・。
つまり、命題的に語られうるものを最大限明晰に語りきることによって、語り得ず、ただ示されうる領域を示すことは可能であり、まさしく『老子』はそのような行為を遂行しようとしたのである。
そして、有意味な(即ち、真偽について判断を為しうる)命題として、「形而上学的」あるいは「価値的領域(それは人生の問題に直結する真実性)」を語ることができないという『老子』の主張は、そのような領域が存在することを否定するものではない ‼
西洋において現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、「思弁的思惟」や「知的直観」によって考究しようとする『形而上学』とは、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学である・・・。その語源は、『易経』の十翼の一つ『繋辞伝』における「形而上を道と謂(い)う」の語に基づくものである・・・。
中国哲学のかぎは「聞道」であり、西洋哲学の要諦は「求知」にあるとよく言われる・・・。
だが、老子の「聞道」の本体論と彼の「求知」、つまり認識論との関係は相当緊密に一つに結びついていおり、『老子の認識論』は自然や宇宙の規律についての認識や概括というだけでなく、その本当の立脚点は「社会闘争と人生経験」の方面に置かれている。
その認識論は「静観」、「玄鑑」、「知常」、「棄智」などいくつかの面において具体的に表現されており、老子は具体的な「物」から抽象的(形而上的)な「道」を認識すること、そしてまた抽象的(形而上的)な「道」から普遍的な「物」を客観的に観察することを特に重視する。
彼は直観的に「道」の本体を把握するこのやり方を『観』とよんでいる・・・。
「それゆえに、あるひとりの身については、その人の身(の修め方)によって見て取れ、一つの村については、その村(における修め方)によって見て取れ、一つの国については、その国(における修め方)によって見て取れ、天下全体については、天下(における修め方)によって見て取れるのである。私は何によって天下がそのようであると知るか。このこと(以上のこと)によってである。」【第54章】
ここで老子は、「直観の認識活動中における作用」を強調し、客体のはばと深さを上手く認識するよう客体に要求する。身を観、家を観、郷を観、国を観、天下を観て天下を認識するという考察の角度から、彼の『認識論の論理を展開する方式』を見て取ることができる・・・。
ただ、老子が直観的な方式によって「道」を把握することを強調する時、『ある種の神秘的な色彩を帯びてくること』は否めない ‼
そこで老子は、「穴(耳や目などの感覚器官)をふさぎ、門(理知のはたらき)を閉じるならば、一生の終わりまでくたびれることはない。」【第52章】と言いう。これを『自己の絶対真理を探究する認識方法』としており、そこで「感性の認識」と「理性の認識」とが対立しはじめるため、以下のような言説が出てくる。
「戸口から一歩も出ないで、天下のすべてを知り、窓の外をのぞくこともしないで、天の道をすべて知る。出てゆくことが遠くなればなるほど、知ることはいっそう少なくなる。それゆえに、聖人は出かけていかないでも知り、見ないでもその名をはっきりいい、何の行動もしないで万事を成しとげる。」【第47章】
これは老子が「感性の認識」を否定・放棄し(脱し)、『理性絶対論に到達した(感性の認識を超えて含んだ)』ということであろう・・・。
つぎに「玄鑑」は、老子の『認識論の重要な原則』である・・・。
帛書乙本『老子』第11章では、「神秘的な幻想(ヴィジョン)をぬぐい去って、くもりがないようにできるか。」(王弼本と河上公本ではいずれも「滌除玄覽」につくる)。高亨の考証に曰わく、「“覧”は“鑑”とも読め、昔は“覧”と“鑑”とは通用していた。玄鑑とは、心の中の光明を形而上の鏡として事物をよく照察するということであり、ゆえにこれを“玄覧”と称する。」とある・・・。
「玄鑑」とはすなわち、人間の心の奥底にあり、事物に対し子細な観察を加え認識させる『形而上の心の鏡』のことである。それは一般的事物の感性の認識を超越しており、論理的推理の認識でもなく、『生命体験( *注2 生得の力)にもとづいた悟りと観照』である。
特にこの幽玄で、影も形もなく名前をつけようもない「道」という認識対象に対しては、『生命の「鏡」の体験( *注2 生得の力)』を通してでしか把握できないのであり、それゆえ、主体の心が静かで落ち着いた境地にあるときに、総体的な「道」を直観的に体得し理解するのである ‼
「知常」(常を知る)とは、「一時のために永劫を放棄する」ことへの反撥である・・・。
「常」は、「恒」、「静」と意味が近く、一切の変化中の不変の法則である。『老子』には二度、「“常”を知ることは“明”(明察)とよばれる。」という句が出てきており、「常」を知らなければ、めくらめっぽうにやるしかなく、必然的に不幸な結果を迎えることになると強調している。
言い換えれば、調和のとれた道理を知ることが「常」であり、その「常」を知ることが「明」だということである・・・。
「常」の意は「恒」に近く、「静」とも近いということは前にも述べたが、老子は静かに観照する認識論を強調し、欲望と偏見から抜け出し自然の道と人の生きる道を知ることを要求しており、このようにしてはじめて運命に従い根本にもどることができるのであり、これこそが「明」すなわち『大なる智、大なる明』なのだと言う。
「常の徳」を「常の道」の運行過程中に置いて体得・認識すると言うのが、老子の重要な思想の一つである ‼
「棄智」についての考えであるが、老子は「知」を大変重要視しており、『老子』の中で、知を論じている章が全部で27ある。ただ、老子の言わんとするところは、「英知をなくしてしまい知識をなげすてよ。そうすれば人民の利益は百倍にもなるであろう。」【第19章】という点の強調にある・・・。
その他の言説からも、確かに老子には知を棄て知から遠ざかる傾向があるが、単純にそれを「愚民政策」とみなしてはならない。延いては、度を超して知力を弄び、悪巧みをはたらかせ、策略を弄し、そして陰険狡猾ないわゆる「智謀を巡らす当時の世の中に対しての反感」がそこにあることを読みとらなくてはならない ‼
「棄智」を提起し、本来の心に回帰し安寧で秩序ある本来の生活と社会秩序に立ち戻って、覇を競い智を好む行ないがもたらすマイナスの作用を取り除くことを老子は唱導したのである。
老子はよく言われるような、「君主のために愚民政策を立案した陰謀家」などではない。なぜかと言えば、『老子』の中には、彼の智に対する心からの賛美、あるいは智のプラスの効果に対する詳しい記述があるからである ‼
たとえば【第32章】では、「とどまるべきときを知ることにより、危険から免れることができる。」、【第33章】では、「他人を了解するものが智慧のある人であり、自己を了解するものが明察のある人である。」、【第28章】には雄(かた)さの力を知りつつ雌(よわ)さのままにとどまり、白の輝かしさを知りつつ、黒の知られないままにとどまり、栄誉のとうとさを知りつつ汚辱にとどまれば、天下の何ものをも受け入れる谿(たにま)のようなものとなるという説を述べている。
特に【第53章】「私にわずかでも知識があったならば大きな道を歩けるが、斜めのわき道に迷いこみはしないかと恐れるであろう。」は、もし自分にほんの少しでも知識があれば大きな道を歩くことができる、ただわき道に迷い込むのが心配だということで、老子が知識と道徳のプラスの効果について高く評価していることがわかる。
このほか、【第56章】では「知っているものはしゃべらない。しゃべるものは知っていない。」、【第70章】では「私のことばは大変理解しやすく、行ないやすい。それなのに天下のだれにも理解できるものではなく、行なうことができるものでもない。すべてことばに宗(おおもと)があり、物事をなすには、君(主宰者)があるものだ。人々が無知だからこそ、私は理解されないのである。私を理解するものはまれであるが、私に倣(なら)うものはとうとばれる。」、【第71章】では「知っていても十分には知っていないとみずから考えることが最上である。知らないの知っているとすることは欠点である。」と述べ、【第72章】では「それゆえに聖人は自らを知るが見せびらかさない。自らを愛するが自らをもちあげようとはしない。まことにあのこと(見せびらかすことなど)を投げやり、このこと(自らを知ることなど)をとるのだ。」とする。
老子がよく言われるように、どこまでも智に反対しどこまでも智を棄て智から遠ざかろうとしていたのでないということは見やすいであろう。彼が反対していたのは、本当の道からははずれている小智、道を掌の上で弄ぶ邪悪な智だけであり、人心や聞道と関わりのある耳目聡明な本当の大智を彼は強調している・・・。
以上のことから、「道」を追求する知識だけが本当の知識であり、自分の欠点を知り自分の限界を知悉している知識をはじめて明にして智なる知識とよぶことができ、それゆえに老子は「永久であるものを知ることが明察である」と言うのだ ‼
全体から見ると、老子は行き過ぎて知を追求することのプラスとマイナスの効果について言及しているが、同時に、理性の直観 -「玄鑑」及び道の本体についての把握 -「知常」を強調し、知の根本は、人の身の修め方を知り、家族の修め方を知り、村の修め方を知り、国の修め方を知り、天下の修め方を知ることにあると言う。
同時に彼は「知の可能性及びその限界性」を認識し、度を超して知識を追い求め、知識にひたすら耽溺している戯れの中から生ずる弊害を暴き出す・・・。
そして真の知を得るには、「玄鑑」と「知常」を通じてでなければならず、それによって「道」「徳」の体得・認識に到達できることを強調している ‼
認識論がまだ発達していなかった先秦時代にあって、このように深奥なる認識を獲得したということはまことに尊ぶべきことであろう・・・。
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