『無為自然の本性』 -生得の力-

『無為自然の本性』 -生得の力-

 
これは単なる「哲学・思想」や「宗教」、延いては「スピリチュアル系」などと揶揄されるお話などではない。また、昨今の時代の傾向や潮流とも言える「一般的なマインド強化(マインドフルネス)」を標榜するする自己啓発などの類ともまったく根本的に異なる。

ご本尊に手を合わせることも、グルを崇めることも、雄弁に語る講師に媚びる必要も一切ない ‼

時代性やトレンドと言った、変化に振り回されることのない『不変(普遍)の原理原則』を受動し、自身に拠って立つ『大いなる自己』へと能動的に変容(創造的進化)を遂げ、ついには『大道(自己超越による自己実現)』に至るための実践(方法)についての指南である。

本格的にこの道(「生得の力」を取り戻す実践)の実修方法や、そこから得られるエネルギーには、いくぶん圧倒されてしまうこともあるかもしれない。人によっては時として、人生観を変えてしまうような大きなきっかけと成り得るだろう。

ただし、自己を見失うことは決してない。如何に自らの「生命力」と再会し戯れるか、全ての「生得の力」を統合し、成長を促す軸が、元々自身の内に存在していたことに『大いに気づく』だけのことである ‼
 

より高度な練功段階に達する人は、それまでとは全く正反対の認識に至るであろう。つまり、真の「自由と充足」、「治癒と成長」とは、外部の何者かによって与えられ、望みを叶えてくれるのではないこと、自身が自由になるための『自由に降り立ち』、統合的な変容の基礎が自らの身体に根付いており、一時も離れることなく、厳然(現前)と内在されていたことを悟るのである。そして、これまでの実修・実践の諸テクニックは、実は単なる道具(手段)にすぎず、もはやそれを必要としなくなる時がくれば、容易に捨て去ってしまえるものであると言うことをも悟るのである・・・。

 
『生得の力』は、現代のサイコ・スピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)の専門家や教師たちの間においても、「重要な存在と認識」として捉えるべき課題である。そこには、「抽象」や「具象」の概念世界はもはや存在しない。それは「もう一つの世界(第三の道/文化)」、つまり『捨象の世界(無為自然の本性)』の存在と認識に至る「道」なのである。

「カタチを捨てる」こと、すなわちカタチを捨てれば何が残るか・・・。『本質が残る』のみである ‼
 

人間の『統合的な成長(変容)』が重要であると言う共通認識が芽生え、自己の心身(肉体と意識)両面の統合にしっかりと根ざした実践の提案が示されている。それらは現在、『ITP/インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』や『ILP/インテグラル・ライフ・プラクティス』と言う統合的で変容的な実践によって、人間の潜在的可能性を再度、統合的に繋ぎ合わそうとする試みであるが、広く一般的に理解され、実践され、そして現実的な私たちの世界(個人の生活、社会、政治、経済、文化、自然)に対する『ラディカル(根本的)で革命的な文化的衝撃(全人的・地球規模的変革)』には至っていない(まだまだ時間がかかる様相)・・・。

 
この考え方そのものは、なんら「驚くほど新しい」ものではない。世界の伝統的な教えや宗教に観る文献、古代の哲学や思想、神話や伝説の物語の中にも存在する。それらは時に、特定の覚者や聖者、そして賢者、神秘主義に傾倒する呪術者や錬金術師、特殊な思想家や芸術家、はたまた秘密結社等の間で『秘儀・秘伝』として、謎めいた迷信や暗号という形で現代にまで伝え及んでいるものもある。
 

ここではそれらに踏み込むことを避けたいと考えるが、にもかかわらず、それらを一笑に付すような未発達で馬鹿げた、取るに足らない非現実(非科学)的なものとして考えるならば、これから叙述する内容について読み進めることをここで中止頂いて構わない。ただし、歴史上のこれらの複雑な問いを探究する者、新たな資質や創造的活力、または感覚を、その個人の生活や仕事、コミュニティーの中で、自己の最も独自の資質を発現させたいと望む方であれば、この先の叙述を難無く自然な態度で消化しながら読み進めることができると確信している・・・。

 
まず何よりも、太古の時代から現代に至る人類が生み出してきた、『叡智と進化(変容へのアプローチ)』の物語すべてが内包する、それぞれの「価値と限界」、「真実と盲点」を尊重しつつ、健全なる態度によって吟味することは少なくとも無意味なことではない。盲目的に自己の趣向で唯一と思えるものに囚われるよりも有意義である。

物事を鋭い輪郭でとらえることよりも、一旦自分の観念や先入観を無にすることは実に難しい行為であり、時に新しいことを受け入れることよりも、古いものを忘れることは、なお難しいことでもある ‼
 

再度読者の方に願うことは、「信念(ある時は「ドグマやカルマ」)」や「精神(メンタル)」、「思考(マインド)」と言った、『ハートのチャクラの上』のみで物事を考察し、困難を乗り越えようとせず、その「マインドからプライド」を、「ハートから争い」を無くし、『無為自然の本性(身体・本能・性・感情)』より立ち昇ってくる『生得の力』の存在と認識に信頼を置き、世界を「抱擁する」こと、「受動する」こと、「偶然を悦ぶ」ことができた時の『並外れた感動と究極のエクスタシー(至高の悦)』を感得して頂きたい・・・。

 

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