アリストテレスは、「どんな人物も、その人生の最後にならなければ、自分の人生にどんな価値があるか、そして人生を全体として眺めなければ、徳のある人生を送ったかどうか判断できない」と述べている。
たしかに、「ある全体は、より大きな全体の部分」である。その全体について価値判断を下すことはもとより、把握することさえ、とても困難なことを誰もが知っているだろう。個人的な「生の断片(存在の意味や価値など)」が、どのように組み合わさり、誰と、そして何と結びついているのか考えようとすると、たちまち興奮したり、時にはトラウマに襲われたりするのはそのためである。
あらゆる現象(出来事)の全体を理解するためには、部分を理解することは必要である。しかし、部分を理解するためには、全体を理解することが必要である。これが『理解の循環』である。理解の循環の中で、私たちは「意味」、「価値」、「ヴィジョン」へと導かれる。部分を結び付け、断片を癒し、切り離された破片を織り合わせ、『遥かなる前方に光を当てること』ができるのである。
人が真に理解(相互理解)に至るためには、その一歩一歩が癒されるような足どりと、優しい報いで満ちている必要がある。そして、全体と部分のすべて調和が取れているかどうかが、正しく理解されているかの基準となり、こうした調和を達成することに失敗すれば、それは理解することに失敗したことになる。
部分と全体の関係とは、つまり「個人と集団」、「自立性(独立性)と関係性(協調性)」、あるいは「権利と責任」などを意味している。しかし、最も深い意味では、部分も一個の全体であり、全体もより大きな全体の部分である。よって私たちは、「理解した意味の統一体(部分の単なる寄せ集めではない)を、いわば同心円的(ホロン)に拡大させていく」ことである。
「ホロン」。アーサー・ケストラーが作ったこの言葉は、『全体が同時に他の全体の部分である』ということを示している。全体としてのクォークは、全体としての原子の部分であり、全体としての原子は、全体としての分子の部分であり、全体としての分子は、全体としての細胞の部分である。全体としての細胞は、全体としての有機体の部分である。
言語学においては、全体としての文字は、全体としての単語の部分であり、全体としての単語は、全体としての文の、全体としての文は、全体としての段落のそれぞれ部分である。こうして無限に続く。
言い換えれば、私たちは全体のみから構成された世界にも、部分からのみ構成された世界にも生きているわけではなく、全体・部分、すなわち「ホロン」から構成された世界に生きているのである。全体は全体だけで、部分は部分だけで存在できない。すべては同時に全体であると同時に部分である。そして私たちが知り得る限り、それは無限に続いている。たった今、存在している宇宙は、次の瞬間の宇宙の部分であり、この宇宙のどこにも、全体だけ、部分だけというものはなく、すべては部分であり、同時に全体、すなわち「ホロン」なのである。
かくして理解とは、「常に部分から全体へ、全体から部分へという循環運動を行うもの」である。そして私たちは、「理解した意味の統一体(部分の単なる寄せ集めではない)を、いわば同心円的(ホロン)に拡大させていく」ことである。すなわち、私たちは「ホロンの世界」に生きている。コスモスは終わりのないすべてであり、すべてはどこまでも上昇し、どこまでも下降するホロンで構成されているのである・・・。
そこで、私たちが生きている、上記の抽象的な「ホロンの世界」を理解するために、いま一度、具体的に「経験的な世界」として解釈する必要がある。そのためには、私たちの「思考」、そのメカニズムの発生と循環を理解することに繋がる。
まず、文化のないところでは「言語的思考」は生まれない。言語的な文化なしに成長した人間の脳は、言語的な思考を生み出すことができないのである。この人間の内面的な思考は、私の文化的背景の中においてのみ、意味を持つ。私の思考それ自体が、個人的な思考に意味と質感をもたらす文化的背景の中でのみ、起こり得るということである。つまり、思考の持つ意味とは、「文脈(コンテキスト)」に依存しているのである。この「文脈依存症」は、宇宙とそこに生きる私たちの生のあらゆる局面に偏在している。
文化的な共同体は、私の個人的な一つ一つの思考にとって、背景及びコンテキストとなっている。私の思考は、無からいきなり頭の中に浮かびあがったものではない。私個人の一つ一つの思考は、文化的な実践、言語、意味、文脈の広大な背景の中でのみ存在し、幾らその背景から遠ざかっていたとしても、そこから逃げることはできない。何故ならそもそも、文化的な背景なしに個人は思考というものを構成できないからだ。
私に語りかける個人からなる共同体の中に存在していなければ、私は自分に語り掛けることもできないどころか、そもそも「独り言」を言うこともできない。私の思考自体、文化的背景の中で起きるものであり、その文化的背景が私の個人的な思考に、意味とコンテキストを付与する。
すなわち、「私」という『主観的な個人の内面的世界(思考をはじめ、意識、気づき、心、魂、精神あるいは霊性など)』というものは、「私たち」という『間主観的な集団の内面的世界(共通言語や意味をはじめ、倫理観、道徳、共有する価値観、文化的な世界観など)』である、共有された文化的な背景と文脈を内在的に持って存在している。(個人及び集団の内面的側面/領域/象限/ホロン)
しかし、文化それ自身は、ただ単に切り離されて概念的(観念的)な空中に浮いているわけではない。それは物質的な要素を持っている。私の思考が「脳という物質的側面(個人の外面)」を持っているように、すべての文化的な事象は、社会的に相関(相補)する要素を持っている。これら具体的な社会的要素とは、技術・生産のための諸形態(鍬・鋤農業、各種工業・産業、情報、その他)、具体的な社会制度、文書化された法律、地政学的な位置など、「社会行動システムを構成する具体的な社会的側面(集団の外面)」である。(個人及び集団の外面的側面/領域/象限/ホロン)
こうした具体的な物質的要素、すなわち実際の社会システムは、「文化的な世界観のタイプ」を決定するのに極めて重要な役割を果たす。その世界観の内部で、私の個人的な思考は生起するのである。したがって、私の「個人的な思考」というものは、実際には少なくとも『四つのアスペクト(四つの様相/側面/領域/象限/ホロンなどと呼ぶ)』を内在的に持っている現象なのである。(四つの象限ないし次元)
四つのアスペクトとは、「私」という『志向的な主観性(個人の内面)』、「私たち」という『文化的な間主観性(集団の内面)』、「それ」という『行動的な客観性(個人の外面)』、「それら」という『社会的な間客観性(集団の外面)』として、それぞれ言語的に記述する際の主語となる、「私」「私たち」「それ」「それら」の世界を示している。そして、これを巡ってホーリスティックな循環が作動する。(あるいは、ホロンのサークルが一巡する)
社会システムは、文化的な世界観に強い影響を与え、それは私の持つ個人的な思考に限界を定め、個人的な思考は、私の脳の物質的な活動として現れる。こうして私たちは、この循環に沿ってどのような方向にも動くことができる。すべては互いに結び合わされており、すべては互いに決定し合う。すべては互いに他のアスペクトの生起する原因となり、またその結果でもある。そして、それらのアスペクトは、無限に続く文脈の中の文脈という同じ中心を持つ球体の連続なのである。(あるいは、それらのホロンは、同心円的な多層構造を持つ無限に続くコンテキストの中にある)
よって、私たちの「経験的な世界」とは、単に知覚にあるのではなく、様々に重要な意味合いにおいて「解釈」にある。言い換えれば、単純であるはずの「経験的・客観的な世界」は、ただ「外部の世界」に横たわっているのではなく、むしろ「客観的な世界」とは、実際は主観的で解釈学的な文脈と背景の中に置かれ、それが「経験的な世界」で見えるもの、見え得るものを様々な仕方で統制しているのである・・・。
しかし、ここで重要なことは、私たちの「経験的な世界」に対する同意(認識及び承認)、そして人間という存在において、この四つのアスペクトが非常にリアルであり、非常に永続的で、かつ深いものであるという見方である。
どのアスペクトからの、どんなアプローチ(知的な活動)もいわば、私たちに「コスモスの一つの顔(側面/領域/象限/ホロン)」を見せてくれるのである。どのアスペクトも、この世界に関して非常に重要なことを告げている。そして、どのアスペクトも、攻撃的、暴力的な歪曲、あるいは無視すること無しには、他のアスペクトに完全に還元することはできない。(還元とは、すべてを一つの象限ないし次元で説明しつくすことができると主張すること)
最も重要なことは、私たちの「経験的な世界」に対する同意、及び様々な重要な意味合いにおける理解と解釈の過程において、この四つの素晴らしいアスペクトのいずれにも敬意を払い、包括することが目的の一つである。
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