第10章|ラディカルで革命的スピリットの創発

 

  ~ ケン・ウィルバーを案内役に現代版「永遠の哲学」を解き明かす ~

 世界の偉大な智慧の伝統は、何らかの形での「永遠の哲学」「存在の偉大な連鎖」の哲学のヴァリエーションである。

時代と文化を越え「永遠の哲学」と呼ばれている世界観は、キリスト教から仏教、タオイズムに至るまでの世界の偉大な叡智の伝統の核心を形成しているばかりか、東西、南北の多くの偉大な哲学、科学、心理学の核心のほとんどを形成してきた。この「永遠の哲学」の核心が『存在の偉大な連鎖』という考え方であり、基本的な考え方は「リアリティは単一の次元ではなく、幾つかの、異なった、しかし連続している次元で構成されている」と言うものである。

顕現されたリアリティとは、したがって異なった「段階(ないしレベル)」で構成されており、ときに存在の偉大な連鎖は三つの大きなレベル、「物質―心―霊(スピリット、精神)」として提示される。他の提示方法では「物質―身体―心―魂―霊」の五つのレベルでも考えられる。もっと詳細なレベル分けとしてヨーガのシステムでは何十にも明確に区分され、それは低位の、最も粗く、最も意識の少ない段階から、高位の最も意識の高い段階まで連続している意識の次元が提示されている。

「永遠の哲学」の中心的な主張は、人間は低位の意識段階から高位の意識段階までの「階層(レベル)」を登って成長し、あるいは進化できるということ、それはすべての成長と進化が「偉大な連鎖」という「階層性(ヒエラルキー)」を展開しながら、その完全性への到達を目指すことを示している。

 ハーヴァード大学で学び、その後は学際的な学問分野である「観念史」を確立したアーサー・ラヴジョイが、「文明化された人間の歴史において、ほとんどの間、主要な公認の哲学」とした世界観。「東洋と西洋における、より細密な探究心を持つ人々、偉大な宗教の師たちが様々な仕方で関わってきた世界観」とは、既に述べたように、何らかの形での永遠の哲学、存在の偉大な連鎖の哲学のヴァリエーションである。

ヒューストン・スミスがその素晴らしい著書『忘れられた真実』で世界の偉大な宗教を一言でまとめたように、それは「存在と知の階層」。チュギム・トゥルンパ・リンポチェが『シャンバラ ― 聖なる戦士の道』で述べたように「天、地、人」という階層は、インドからチベット、中国に至るまで、神道からタオイズムに至るまで、アジアの哲学に浸透している基礎的な観念であり、それはまた「身体、心、霊(スピリット、精神)」に等しいことを指摘している。

歴史的に研究されてきた「永遠の哲学」、その核心である「存在の偉大な連鎖」の概念(観念)は、人間の文明の歴史のほとんどにわたって哲学の主流となってきた。それは普遍的であり、したがって諸文化を横断して、「身体―心―霊(スピリット、精神)」から構成される「人間性(さらに一切の衆生)」の核心をついている。

 私たち人間には(少なくとも)、すべての偉大な連鎖に対応する「三つの知の眼(知のモード)」があることを示すことができる。そこにも「階層(レベル)」があり、物質的な事象と感覚の世界を捉える(開示する)『肉体の眼』、イメージ、概念、観念など、言語と象徴の世界を捉える(開示する)『心(理知)の眼』、そして、スピリチュアルな経験や状態、つまり、魂と霊(スピリット、精神)の世界を捉える(開示する)『観想(般若)の眼』である。

これらは、身体から、心、霊(スピリット、精神)に至る「意識のスペクトル」を単純化したものであり、世界のすべての叡智の伝統であるタオからヴェーダンタ、禅からスーフィズム、ネオプラトニズムから孔子の哲学などは、すべてこの偉大な連鎖に基礎をおいていることを論証している。それは「存在と認識」の様々な階層(レベル)を伴った、『意識の全体的なスペクトル』である

 すでに述べたように、「永遠の哲学」の中心的な主張は、人間は「物質―身体(生命)―心(ハート、マインド)―魂―霊(スピリット、精神)」の各段階(階層)を登って発達・成長し、あるいは進化しながら、存在と認識はその完全性への到達を目指して行く。この永遠の哲学の核心である「存在の偉大な連鎖」ないし「意識のスペクトル」の一方の端には、物質と呼ぶ、感覚のない(少ない)、意識のない(少ない)ものがあり、一方の端には「霊(スピリット、精神)」「至高神」「超意識」(それはまた、スペクトルすべての基底となる)がある。

その間に並ぶのは、プラトン(実在)、アリストテレス(現実性)、ヘーゲル(包括性)、ライプニッツ(明晰性)、オーロビンド(意識)、プロティノス(抱擁)、ガラップ・ドルジェ(知性)など、呼び方の異なる「リアリティの次元」である。それはステップを踏んで「段階的」「階層的」「多次元的」(言葉はどうあれ)に顕現する。

叡智の伝統であるヴェーダンタでは、それは「鞘(コーシャ)」と言い、ブラフマンを覆う被層であり、仏教では、それは「八識」と言い、八つのレベルの識(アウェアネス)であり、ユダヤ教カバラでは、それは「知恵の木(セフィロト)」である。

 しかし、そこに行く前に、まず注目せざるを得ないのは、偉大な連鎖は確かに「階層性(ヒエラルキー)」を示していること、そして階層性という言葉は、しばし邪悪な意味を持たされたことである。

現代の文化的エリート及びポストモダンの批判家の中には、偉大な連鎖は階層的であるがゆえに抑圧的であり、それは慈悲深い結び付きではなく、不愉快な「順位付け」であると主張する人もいる。しかし、これはかなり粗っぽい批判である。まず、こうした反階層主義的な批判家は、彼ら自身が階層的な判断に囚われている。つまり自分たちの批判の方が他のものよりも良いという批判であって、彼ら自身、隠された、そして「明確でない(完全に自己矛盾的)順序付けのシステム」を持っている。

偉大な連鎖とは、単に階層主義などと言ったものではなく、実際にはアーサー・ケストラーの言う『ホロン階層』であり、包括性を増大させていく順位付けであり、高位に行けば行くほど、世界とその住人を包括していく。つまり、意識のスペクトルの上位、ないしスピリットの領域は、完全に世界を包括し、かつ抱擁する「ラディカルな普遍的多元主義」へと人々を導く

たしかに、如何なる階層も、ひどい悪用が可能であり、ある価値を抑圧したり、周辺化することができる。しかし、「現実的な階層」と「支配的な階層」には大きな違いがあり、偉大な連鎖は、はじめから『深い自己実現的な全体論的階層(ホラーキー)』であって、その悪用がしばしば指摘されるものとはかけ離れたものなのである。

 永遠の哲学における階層性という言葉の意味は、今では現代心理学、進化理論、システム理論にも使われるように、「単にその全体論的な能力(キャパシティ)に基づいて順序付けられた事象」に他ならない。どんな発達論的なプロセスでも、ある段階で全体であったものは、次の段階ではより大きな全体の部分になる。文字は単語の、単語は文の部分であり、文は文節の部分である。

アーサー・ケストラーは「ホロン」という言葉を、「ある文脈において全体であり、それよりさらに大きな文脈において部分である」という意味で用いた。つまり、全体と言うのは、部分の単なる寄せ集めではなく、全体が多くの場合、部分の機能に影響を与えたり、あるいはそれを決定したりするのである

階層(ヒエラルキー)とは、したがって、「より増大するホロンの順序(ホロン階層、ホラーキー)」であり、全体性と統合性の力の増大を示している。つまり、階層性という概念は、現代におけるシステム理論、全体性理論(ホーリズム)の中核をなすもので、永遠の哲学において常にすでに、決定的に重要な中心概念をなしてきたのである。

存在の偉大な連鎖を構成するそれぞれの階層の輪は、より増大し、拡大する『自己同一性(アイデンティティ)』を示しており、それは、身体という孤立したアイデンティティから始まって、社会・共同体的(文化的)な心のアイデンティティ、さらに大いなるスピリットとの至高のアイデンティティへと、文字通りすべての顕現とのアイデンティティへと進むことを示唆している。

 (人間の)意識の進化、ないし展開の本質への理解がないままで、発達・成長・変容、あるいは発展のプロセスを理解しようという試みは、ほとんどと言って成功の見込みはない。また、真に統合的な発展を実現するモデルとは、発達の一つの段階(レベル)や次元を取り上げて、全ての人に強制しようとはしない。その代わりに「発達のラセン(これは全象限・全レベル・全ラインなどを言い、詳細については別の叙述で説明したい)すべての健全さに取り組むという最重要の指令に従う。

そのアプローチは、個々人と諸文化が、それ自身の速度、それ自身のやり方で発達できるような必要条件(内面的なものと外面的なもの両方)を促進させるための、最善の思いやり、関心、そして共感に満たされていることが必要である。それは、自分の信念構造を他者に押し付けることなく、個々すべての人を自身の潜在力によって開発させ、そのことを通じて永遠に光り輝き、暗闇に光を放ち、あらゆる時に幸福である自分自身の深いスピリットを発見できること・・・、今この時にも輝いている自身の本来の顔(面目)・・・、聖なる魂とスピリットの、この単純で驚くべき発見へと招くものである・・・。にもかかわらず、このことが「永遠の哲学」の悪名高い逆説に私たちを導く・・・。

世界の知恵の伝統は、「リアリティは多次元的、多段階的に顕現する」という観念を採用していることを見てきた。高次の次元は、次々に先行する次元を包括し、絶対の総体性である至高神、ないし大文字のスピリットに「より近くなる」。この意味でスピリットは存在の頂点であり、進化の梯子(はしご)の最終の段である。しかし同時にスピリットは、梯子と梯子段すべてを作り出す材木であるというのも真実であり、スピリットは「真如」「存在そのもの」「存在するすべての本質」である。

最初の「梯子の最終段」という側面は、スピリットの超越の側面であり、それはいかなる有限のもの、此岸性(この世のもの)、被創造性(作られたもの)を帯びたものを超えている。全世界、全宇宙が破壊されてもスピリットは残る。二番目の材木という側面では、スピリットは同じように、事物、事象、自然、文化、天、大地に、いかなる差別もなく顕現している。この角度から見ると、いかなる現象もスピリットに「より近い」のではなく、同じようにそれから「作られている」。

したがって、スピリットはすべての発達と進化の最終的な「到達点(ゴール、オメガポイント)」であると同時に、そのすべての「基盤(グラウンド、アルファポイント)」でもある。スピリットは、始まり(アルファ)において完全に顕現していると同時に、終り(オメガ)においても完全に顕現しているのだ。つまり、スピリットは、この世界に先立ってあるものであり、この世界に対して常にすでに他者ではないのである

 スピリットの持つ、この逆説的(パラドキシカル)な側面を二つ共に取り入れず、どちらか一方しか取り入れなかったため、スピリットに関して偏った見方(政治的に非常に危険な考え方)が生み出されてきた。

伝統的に「父権的な宗教」は、スピリットの超越的側面を強調するがゆえに、大地、自然、身体、女性を劣ったものと見なす。父権的宗教に先立つ「母権的な宗教」は、スピリットの内在的側面を強調するがゆえに、有限で創造された大地を、無限で創造されたものでないスピリットそれ自体と見なす汎神論的な世界観をとる傾向がある。よって、限定された大地に同一化するのは自由であるが、大地それ自体は、無限でも無限定なものでもない。

いずれにせよ、母権的宗教も父権的宗教も、スピリットに対する偏った見方は、それは恐ろしい人間の犠牲を招いた。その恐ろしい歴史的な結末は、豊饒を祈るために大地母神に捧げる大規模で残酷な生贄から、父なる神のための全体戦争に至ったのである。

 こうした外面的な歪曲の中で、「永遠の哲学(智慧の伝統の秘教的な核心)」は、常に二元性(例えば天か大地か、男性性か女性性か、永遠か有限か、苦行の道か儀式の道かなど)を回避し、かわりに、それらの全体性の統合、ないし合一を中心に据え、『非 ― 二元的(ノン ― デュアル)』な視点に重心を置いた。

天と地、男と女、有限と無限、上昇(エロス)と下降(アガペー)、智慧と慈悲の合一は、様々な智慧の伝統における『秘密(タントラ)』の教えであった。それは西洋における新プラトン主義から、東洋における秘密金剛乗に至る世界の智慧の伝統は、この「非 ― 二元的」な核心こそ、永遠の哲学と呼ぶに最もふさわしいものなのである。

スピリットを心的・合理的な言葉で考えようとすれば、それは必ず困難を伴うが、私たちはこの「超越と内在の逆説(パラドックス)」に気が付いていなければならないのがポイントであり、厳密には、スピリットそれ自体は逆説的でも何でもなく、いかなる属性も付与することは不可能である。

 現在、永遠の哲学は「進化的なホロン階層の理論(場の中に場があり、それが無限に続く発達と自己組織化の全体論的な研究)」として再び多くの科学、行動理論の主要なテーマとなった。さらに偉大な連鎖の現代版(進化論的ホロン階層)とその自己組織化の原則は、新しい洞察を付け加えながら、偉大な連鎖の進化的な展開に進んでいる。

この偉大なホロン階層を一瞥するたびに、そこには必ず適切な洞察が生まれ、それぞれの洞察はさらなる一瞥によって更に適切なものとなる。いみじくも、19世紀に様々な唯物論的な還元主義(それは科学的な唯物論から行動主義、実証主義に至っていた)によって一時的に脱線させられた「存在の偉大な連鎖(存在の偉大なホロン階層)」は、20世紀において驚くべき復帰を遂げた。

ルパート・シェルドレイクの「形態生成場の階層」からカール・ポパーの「創発する特性の階層」、バーチとコッブの「階層的な価値」を基礎にした「リアリティの生態学的モデル」、フランシスコ・ヴァレラの画期的な業績「自己生成システム(オートポイエティック)」、ロジャー・スペリー、エックルス、ペンフィールドによる「非還元的な創発因子の段階」などの脳の研究、ユルゲン・ハーバーマスの「社会批判理論(コミュニケーション能力の階層性)」に至るまでのほんの一例を挙げても、偉大な連鎖が復帰したことが伺える。

このことに誰も気が付いていないように見えるのは、それが様々に異なった名前で呼ばれているからであるが、しかし、いずれにしても、気が付いていようといまいと、それは進行している。

 そして21世紀の今、永遠の哲学の復帰には、たった一つ、なすべきことが残されている。物理学から心理学、そして社会学に至る現代思想において重要なたった一つの「統合的なパラダイム」とは、『進化的なホロン階層』である。しかし、こうした正統的な学派は、「物質」「身体」「心」の存在しか認めていない。つまり、偉大な連鎖の内、「魂」や「スピリット(霊性、精神)」などの高次の次元は、同じ地位を与えられてはいない。それは、存在の偉大なホロン階層の五分の三しか認めていないと言えるのである。

したがって、なすべきことはこのホロン階層に残りの二つを導入することであり、偉大な連鎖のすべてのレベル、すべての次元を認め、かつ敬意を払うこと。つまり、「物質と感覚の世界を開示する肉体の眼、言語と象徴の世界を開示する心の眼、さらに魂とスピリットの世界を開示する観想の眼のすべてに対応する知のモードを同時に認めること」である。よって、最後になすべきことは、『観想の眼を導入すること』なのである。

 私たちは今こそ、「観想の眼」が、科学的で反復的な方法論によって、魂とスピリットを開示するのを認める時を向えた。このドラマティックで前例を見ない「統合的(インテグラル)な未来展望(ヴィジョン)」は、人間の意識と行動の包括的な探究における「多次元的(統合的)なアプローチの重要性」を強調することになる。

その「統合的なアプローチ」とは、古代の叡智と現代の知識を結び付けること、先駆的で本質的な洞察に敬意を払い、包含するとともに、かつて無かった新しい方法論と技術論を付け加えようとするものである。これこそが、様々な文化的な相違を尊重しつつ、普遍的な文脈に置き直すという意味で、最良の、そして真の意味での「多元文化主義」である。

「インテグラル・ヴィジョン」と呼ばれる『統合的な展望』は、「インテグラル・パラダイム(メタ・パラダイム)」となる『統合的な指示』に基づき、「インテグラル・アプローチ」、つまり『統合的な実践』を要求する。それは循環的に理解され完結するものになるだろう。あえて言えば、最終的な帰郷、すなわち現代人の魂とスピリットを本来の人間性の魂とスピリットに再び織り込むことであり、これが『多元文化主義(マルチ・カルチュラリズム)』の本当の意味でもある。

 この精緻で例えようもなくスケールの大きな「統合的なヴィジョン」は、現代における最も包括的な哲学思想家『ケン・ウィルバー』によって、今から遡ること20年前に提示されるまで、誰も完全には把握していなかったものである。

彼のずば抜けたヴィジョンが持つ、包括的で統合的な理論を理解する鍵となる著書『進化の構造(1996年)』
についてマイケル・マーフィーは、この本は、シュリ・オーロビンドの『聖なる生命』、ハイデッガーの『存在と時間』、ホワイトヘッドの『過程と実在』と並んで、20世紀の四つの最も偉大な著作であると主張している。ラリー・ドッシー博士は、「過去、出版された本の中で最も重要な本」と呼び、ロジャー・ウォルシュは、その大きさをヘーゲルやオーロビンドにたとえている。もっとはっきりした言い方では、アラスデア・マッキンタイヤの有名な「ニーチェか、アリストテレスか」という選択を引き合いに出し、「いや、現代世界は、実際には三つの選択肢を持っている、アリストテレスか、ニーチェか、あるいはウィルバーか」と言うのである。

ウィルバーが展開している「統合的理論」は、知的な思想レベルで言えば、私たちに希望を与える唯一の『世界哲学』である。簡単に言えば、哲学は合理性の範囲内では、やるべきことをすべてやり尽してしまったのである。知的言語、あるいは論理ないし知的レベルで考えている限り、あなたはけっして自我と合理性の外に出ることはできない。(相対的の二元性の世界、「肉体の眼」及び「心の眼」の世界の外)

そこでウィルバーは、現在、力強い蘇りを見せている「非 ― 二元性(ノン ― デュアル)」を、ある種、スートラの形で説いている。「非 ― 二元」とは、世界の叡智の伝統である「永遠の哲学」の核心にある教えであり、「秘教(タントラ)」であることは既に述べたように、それがどんなものであるかを言葉で言うとパラドックスをきたすため、ウィルバーのようにある種、「指示」の形で示さざるを得ない。

この伝統は20世紀において、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジ、鈴木大拙、エックハルト・トーレによって力強く蘇った。上記の四名について、ウィルバーも高く評価しており、ウィルバーの名も勿論、ここに加えられるだろう。

その世界観、存在と認識、至高のアイデンティティ、観想の眼(スピリットの眼)によって開示される知のモードに至る(悟る)には、それ相応の努力と時間を要するであろうが、この方法は恐ろしくシンプルであって、言うなれば「今(即今目前)」を十分に注意すること、そこで起こっていることを十分に意識することに尽きる。

 私たちは、普通、常に何らかの思考なり感情なりに巻き込まれている。いわば夢の中で生きているようなものであって、「今、ここ」に完全にいることはめったにない。ところが、すぐにわかるように、私たちがいることができる場所なり時間は「今」しかなく、実は、私たちは今に十分いるということがめったにないのである。

常にすでに、「今」、ここで起こっていることは、例えば思考なり感情なりも、音や光も、空を行く白い雲や、ふいに窓を横切る鳥もそうであるように、こうして起こっていることすべてを、いわば無差別にゆったりと目撃する位置に留まり、思考や感情も、鳥や雲と同じように見つめていると、次第にそれらもまた、風や光や雲のように自然に起こっているものという風に観ぜられてくる。こうして自分と周りの対象世界との関係は変化してくる。自分と言う強固なものがここにあって、それに対して様々な対象があるという見方が変化してくるのである。

このことをウィルバーは、「自己収縮が緩む」と表現している。すべては、広大なアウェアネス(意識、気づき)の海の中で起こっている波であると。それは、浮かんでは消えていく現象であり、どの現象も平等に起きてくる。鳥も雲も思考も感情も、それを平等に目撃していく・・・。

こうした見方が身についてくると、自己というものを中心において、それとの関係によって対象を見るという意識が変化してくる。また、今を意識することによって、過去や未来への自己投影(不安や後悔)という病も停止する。不安や後悔が起きないというのではなく、それらの感情との関係が変化してくる。不安や後悔は、今、あなたの窓を横切っていく小鳥と同じく、現象であり、ほっておけば消えていく・・・。

このようにして、私たちは、おそらくは長い間かかって作られた外界の現象に対する、ほとんどプログラム化されたような自動的な反応を緩めていくことができる。

 このような「瞑想的・観想的」な態度をとる人は世界中で増えている。これはある意味では、世界史的に見ればルネッサンスに匹敵するような大きな出来事である。

『ラディカルで革命的スピリットの創発』・・・、ウィルバーはその先駆者であり、しかもそれを「大きな哲学の中(世界哲学)」に組み込んだのである。そのヴィジョンは、古代の智慧の最良の部分と現代の知識の最良の部分とを結び付けるのである。

 また、彼のずば抜けた仕事を簡単に言えば、「様々な知の領域の真理性の主張(それぞれの知の領域で何が真理とされているのか、ということ)、言い換えれば、それぞれの知の領域において人間のために提供されたすべての真理を統合し、一貫性のあるヴィジョンに織り上げた」のだが、その領域は一例を挙げても、おおよそ一人の人間としての知的作業・能力の幅をはるかに超える領域を網羅(カバー)している。

そこには、物理学から生物学、環境科学、カオス理論とシステム科学、医学、神経生理学、生化学、アート、詩、美学一般、フロイトからユング、ピアジェに至る発達心理学と心理療法のスペクトル、西洋のプラトン、プロティノスから東洋のシャンカラとナーガールジュナに至る「存在の偉大な連鎖」の思想家、デカルトからロック、カントに至る近代哲学者、シェリングからヘーゲルに至る観念論者、フーコーとデリダから、チャールズ・テイラー、ハーバーマスに至るポストモダニスト、ディルタイからハイデッガー、ガダマーに至る主要な解釈学派、コント、マルクスからパーソンズ、ルーマンに至る社会システム理論家、世界宗教の東西にわたる偉大な瞑想的伝統の中に至る神秘・観想学派など、途方もない領域なのである。

 どのような領域を探究するに当たっても、ウィルバーはある一定の抽象レベルからその領域を見る・・・。そのレベルに達すれば、様々に対立するアプローチが実際は合意していることが見て取れるのである。

彼の主張は明快である。「どんな人間の考えも100パーセント、間違っているとは考えられない・・・。どの方法が正しく、どれが間違っているとするよりも、どれもが正しいが部分的なのだと仮定する。そして、このような部分的な真実のどれか一つを取り上げて、他を捨て去るのではなく、どのようにそれを組み合わせることができるのか、どのように統合できるのかを考える・・・」。

同時に彼は付け加える。「あまり大げさにとる必要はない・・・。これは単に志向的な一般化にすぎない。細かい点はすべて読者が埋めるのに残されている・・・」。簡単に言えば、ウィルバーは概念的な拘束衣を提供しているのではない。まったく逆なのである。「私は、コスモスにはあなたが考えるよりずっと広く自由な場所があることを示したい・・・」と。

そして彼は美しい一編の詩を紡ぐ。『スピリットの眼において、私たちは出会う・・・。私はあなたを見つける。そして、あなたは私を・・・。奇跡とは、私たちがお互いを見つけ出したことである。この真実こそ、疑いもなく、まさにスピリットが絶えざる存在であることの最も単純な証拠なのである・・・』

 スピリットはたった今、この文を読んでいる、まさにあなた自身なのである。
 


 
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