第9章|『スピリチュアル』への認識と弊害、そして混乱

 

 現代の「スピリチュアルの信奉者」の中には、その点について大きな誤りを犯しているものが多い。特に西洋型の「サイコスピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)」を試みる人々が『真に統合的・変容的な成長(インテグラル・トランスフォーマティブ)』が開花していく例は稀であるように見える。

 しかし、東洋型においても、インド思想が後の時代に変容させたその概念にも、肉体の存在を「カルマ解消」のための足枷であるかのように捉える傾向が伺える。

 西洋の大半は依然としてルネッサンス以来、確立に執心してきた「個」にしがみつき、個を越えようとする努力などは逆に退行か逃避としか見ない一方、過剰な「上昇志向」とも言える、「意識のみの偏った超越」や「アルカイック(古層・古代)的な終末論や時間波ゼロ」など、ハイパー・アセンディングと退行的なレトロ・ロマンやポップ・オカルトも横行している。その傾向は日本においても同様であり、「スピリチュアルな混乱」は今日において一層高まりつつある。

 現代において、「スピリチュアル」と言う言語そのものに対する、ある種の抵抗感や違和感、あるいは非科学的で退行的な迷信のように捉えている人々も当然少なくはない。中には宗教や信仰そのものに抵抗を示す「無神論者」から、霊能力や超越的世界への不信感と胡散臭さを抱くのも、今日の文明社会では仕方のないことであろう。返ってそのような話題を真剣に議論することさえ、バカバカしいと考えるのも止むを得ないほど、論理的な理性重視の時代を私たちは生きている。

 但し、古来より「命(いのち)」のことを、『スピリット(霊)』と呼ぶことがある・・・。

 特に日本で「霊(たま)」と言うとき、そこには『「」「」「が宿る』ことを現し、自然の樹木から岩、石ころまで、はたまた言葉(言霊)、数字(数霊)など、人を含む森羅万象に霊が宿り、「八百万の神」として数多くの神社にて祀られている。

 そして、その場を中心に人が集い、文化が形成され、一年間に催される「祭り」は、世界に類を見ないほど数々の種類が存在している。人々のコミュニケーションと喜び、時空を超えたいにしえの伝統と精神を繋げて行く神聖なる場として、今なお人々に慕われ、崇められている。ちなみに「祭り」は、「交わり(まじわり)」を意味する。そこには、『全て(人を含む森羅万象)との交わり』が意図されている・・・。

 

 それに従うならば、一人ひとりの人体に宿った命を『ソウル(SOUL)/ 魂』、共通の命が『スピリット(SPIRIT)/ 』と呼ぶことができる。

 ソウルであれスピリットであれ、いのちとは、『ある空間の持つポテンシャル(エネルギーの総和)』と言ってよいであろう。

 私という人体は、地球上である一定の空間を占有しており、その空間は当然「ある量のエネルギー」を保有している。このエネルギーの総和であるポテンシャルが、「私の霊性」であり、「ソウル」であり、「いのち」である。

 空間が、ある物理量を持つとき、これを「場」と呼ぶことから、『場のポテンシャル』と言ってもよい。全てが外界と繋がっており、周囲の人々の場と繋がり、コミュニティーを形成し、自然環境の場と繋がりながら「地球の場」を形成し、さらに「宇宙全体」から「虚空(こくう)」へと果てしなく広がって行く。この広がる「場のポテンシャル」をも、『スピリット』と呼び、『共通のいのち』と言える・・・。

 

『 スピリットの問題とは、その問題の見方が問題なのである・・・。それは、人類と世界全体の「共通のいのち」の問題でもある・・・。そして、地球全体を含む、宇宙全体の創造と進化に関わる(交わる)「命題」である・・・ 』

 

 実のところ此処に、人を含む森羅万象の命に宿る『創造性と言う進化の物語』の終わりの始まりがある。それは、この著書で言わんとする、『大いなる自己(完全なる人間)』を完成させる『大道へのゼロポイント』がこの地点と言える。

 つまり、『終局点(オメガポイント)』と『開始点(アルファポイント)』が交わる『ユニバーサル・セックス(大いなる宇宙の聖性)』によって、全ての「スピリット(共通のいのち)」が究極のエクスタシーに繋がることを知っている、全身体の『実感力(生得の力)』を取り戻すきっかけとなる・・・。

 今は只々、動揺せず。なお静観せず。頭の先からつま先に至る『全身の脈動と呼吸に注意(思考によってのみ集中するのでなく)を注ぎながら』読み進めて頂きたい・・・。

 はっきりと言えることは、そもそも「命(いのち)=スピリット(霊)」を頭の先の「思考(マインド)」や「メンタル」によってのみ理解しようとすること、その行為そのもの自体に問題が生じる。

 常識とはいったい何をもって、その基準を決め、定め、誰が取り仕切っているのであろうか・・・

 

『 いわゆる「価値観」や「考え方」などと言った、知的な作業とその思考様式ほど当てにならないものはない。』

 

 世界には様々な習慣や作法、伝統的儀礼や生活様式など、長い時間をかけて築いてきた「文化の違い」があり、それぞれ「価値の物差しの違い」が存在する。私たち同じ日本人ですら、風土や環境によっては価値観や常識が異なることは多々あることであり、「一体」となるには、それなりの努力を必要とする。

 しかし、こと『(いのち)=スピリット(霊)』に関しては、「教育の程度の差」や「人種・言語の違い」、「努力の差」などによって理解が食い違うような、『やわでもろい知識』などではない。それらの尊さや大切さに至るのは、人間であれ、動物であれ、その本能や性の発露により、『』に一体として備わる、『共通の命(いのち)=スピリット(霊)』が明かす働きそのものである。

 

『 それらに優劣などなければ、まして価値観や一体感など、「観」や「感」と言った、スピリットの働きをまとった「認識」などでは断じてない! 』

 

 しかし、『スピリット(霊)』ではなく、『スピリチュアル(霊的/霊性)』と言う場合において、人為的な概念・定義・解釈、そして誤解が生じてくる。つまり、私たちの知覚・意識・精神をスピリチュアルな意味として理解するために、「①精神的な態度や姿勢」、「②いくつかある成長と発達の中での最高の段階」、「③独立して私たちの中にある、スピリチュアルな成長と発達の道筋」、「④至高体験や意識の変容状態」など、いくらかの定義可能な概念を組み立てる知的な作業がついて回る。

 上記①~④は、別章でも紹介した「ケン・ウィルバー」が考える、『スピリチュアルの4つの意味』であるが、「スピリチュアルな混乱」はある意味、こうして言語知的に解釈されればされるほど、『近くて遠い問題』として、いよいよ問題の見方の問題を膨らませていく。

 実はここに、西洋と東洋ならぬ『コンテクストリテラシー』の差異、特に西洋的なものとしての東洋の哲学・思想の解釈に、誤解・誤読と思い込みが多く観られる。また、せっかく『多様性の中の統一性の実現化』と言う実りある対話と相互作用、その『本格的な統合』に向かう過程における『本質的な分化』を前にして、その実現は遂に果たされぬまま、『永遠の哲学』として歴史の中に返されてしまいかねない『落とし穴ならぬ盲点』が見え隠れする。

 今日の『乖離した知』が、統合的・変容的な成長を促すはずの「スピリット」「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」の中にまで浸透し、それらは国境を越えて進行しながら、『人間の生』にまで同時多発的な混乱を招いているのである・・・。

 

『 人間のあらゆる次元に宿る「創造性」・・・心身の統合にしっかりと根差した「スピリチュアルな生」と言われるものは、もっとも生命的な潜在力に根ざすとともに、人間の全ての次元によって共創造される。そして、「創造性を宿した生」は、身体の中に存在し、それは身体知と呼ばれる知性をもった「生命のダイナミズム」である。それは、我々が完全な人間になる過程に潜み、その内部から出現し、全体を調和的にとりまとめる・・・ 』

 

 今日の複雑で多様的・重層的な世界に生きる私たち個人が、その文化、社会、エコロジーの領域において統合的・変容的な成長を遂げ、日常生活と世界が『多様性の中の統一性』を実現するための、『ラディカルで革新的な発達・成長へのアプローチ』を思索・提案する。

 また、現在までに『統合的な成長・発達(integral growth)』として探究・提案され、その実践である『統合的・変容的な実践(integral transformative practice/ITP)』、『統合的な生活の実践(integral life practice/ILP)』を展開する人たちを悩ませている「諸問題(乖離した知)」や「欠陥(偏った発達による弊害)」の実態とその解決案にも言及する。

 そこでは、今日の避けがたい極端で排他的な教育とも言える「認知中心主義」による成長モデル、その機能的発達に焦点を合わせた、外部の方向づけによる合理的な「マインド強化」「メンタル強化」など、マインド中心の教育や生活が何世代にも渡り続いたために、「抑圧」され「歪んで」しまった、『人間の生得の力』を取り戻し、目覚めさせることを意図している・・・。

 

 数千年に及ぶ様々な伝統に属す霊的人物や神秘家の生き方をざっと見ただけでも、『人類の霊性史(スピリチュアリティ)』は部分的に、「人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語」として読むことができる。

 それは現代においても有機的に、「表層意識」や「潜在意識」、それに「集合的無意識」に深く浸透し、人間と世界のあらゆる次元が著しく分断の様相を顕在化させている原因でもある。

 過去から現在において、スピリチュアリティを特徴づけている『決定的な欠陥要因(乖離)』、あるいは、『霊的ヴィジョンの断片化(偏り)』とは・・・、意識的精神の解放を求める過剰(ハイパー)なまでの衝動によって、自己感覚を超越的意識にのみ同一化させることを主眼としてきたところにある。

 それはしばしば、『人間の基礎的諸次元』である「身体的」、「本能的」、「性的」、そして「ある種の感情的」な次元を、再三にわたって抑制することとなったのである。

 つまり、スピリチュアリティの主要な諸潮流、及び宗教的実践の歴史上において、身体やその『生命的・内在的・潜在的・原初的エネルギーの次元は、それ自体で霊的洞察をもたらす正統で信頼のおける源泉とは見なされてこなかったのである。

 言い換えれば、身体、本能、性(セクシュアリティ)、そして感情の一部は、心(ハート)や思考・精神(マインド・メンタル)、意識(各階層的意識)と同等のものとして、それらと協同して霊的(スピリチュアル)な悟りや解放を達成できるとは、一般に認められてはこなかった。さらに言えば、多くの伝統宗教や宗派、神秘思想では、『身体と原初的世界』が実際、霊的成長の妨げになると信じられてきたのである・・・。

 

『 人間の基本的諸次元は抑圧され、統制され、変容され、「意識を霊化する」と言うより高次な目標にのみを主眼としたために、脱身体化されたスピリチュアリティは「ハートのチャクラの上」の霊的生にのみ凝縮されてしまった・・・そして、身体から切り離されたスピリットは遂に、我々の「生得の力」であり「創造性の源泉」であるにも関わらず、自己と共同体と世界からも切り離され、常軌を逸するほどの圧倒的な科学技術とそれに基づく経済、産業、情報社会が、ほぼ完全に「スピリット(気)を抜き取り」、排気ガスが立ちこもる「モノクロームな世界」を形成している・・・ 』
 


 
【 ユニバーサル・セックス / 大 い な る 宇 宙 の 聖 性 『大 道』:全編 】


 

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