私たちは日常的な生活を送る中で、知らずうちに「束縛」と「呪縛」の両方に陥っている。そこには現代に観る「3つの落とし穴」、「心理的自我に留まらせるブロック」、「弱者と強者の病理」、「乖離した知」など、昨今の『差し迫った危機』を生み出す元凶が横たわっている。
かなりネガティブな話題と言えるが、冒頭にも述べたように・・・「本当の問題」から目を背けることなく、その現実に分け入る勇気があるならば、『闇と深淵の中』にこそ、『常に私たちを癒す真実』が潜んでいる・・・と私は観ている。是非読者の方も、目を背けることなく、しっかりと認識して頂きたい。
まずひとつは、社会生活の上での取り決めや文化様式が、一定の範囲内で有効であるにもかかわらず、「人間の価値観や行動」に強い影響を及ぼし、それが『唯一の現実と混同』する傾向がある。
一見健全に社会や文化と対応して生きているように見えても、多くの現代人は「仮面的な自己」を保つことに窮々としており、様々な精神的危機の多くが、おおよそこのレベルで発生する。そして、影にして疎外していた『自我との分裂』を引き起こす。
一般に、自我の確立よりも「集団的調和」を美徳とする日本人は、社会・文化的帯域の無意識に取り込まれてしまっている傾向が強い。また、今日のように競争が基本的な文化の行動規範である社会では、人々が互いに愛し合うことを学ぶのは大変困難に近く、ここに「神経症」や「精神病」を生み出しうる『二重の拘束』が組み込まれている。
二つ目は、知識偏重の現代社会に生きている私たちは、「思考(マインド)」や「心(ハート)」に偏りがちで、すっかり『身体(ボディー)』を忘れがちである。
目を閉じて「身体の感覚」、「衝動」、「エネルギー」、「筋肉の働き」、「呼吸」を探求してみれば、思いがけない事実に直面するであろう。
自我としての私は、身体を所有していると思っているが、自分の身体の多くの部位にほとんど感覚がないという事実を発見する。現代人で「心を手放す人」はほとんどいないが、多くの人は既に身体を失っている。
三つ目に、少なくとも個人、家族、宗教、企業、国家に至るまで、『自らのアイデンティティーが持てる範囲の保全』に躍起となっており、自我を中心とした狭い範囲で人生を眺めると言う、基本的な意識の在り方と姿勢から様々な問題が浮上してきている。
社会的に一定の目標が共有されている時代であれば、このような姿勢も社会の活力とともに修正されていくのだが、価値観が相対化し、地球規模での「エコロジカルな危機」が露呈することにより、成長の限界も見え、経済的な停滞状況(格差社会を含む)が世界的に広がる中で、未来に対する「安易な目標設定」ができないと言う『閉塞した時代』に私たちは置かれている。
この様な状況下では、「自我の無限拡大」を目指す衝動は押さえられ、強いては『非常に深い空虚感』や『ニヒリズムが横行』することとなる。中には我を忘れて『狂気に陥る者』や、今日の『倫理的な退廃』の基本的な構図がここに観られる。
これらの心理状態を癒し、意識の成長・進化を促す「精神伝統の指導者」として歴史的人物を挙げるならば、「仏陀」や「老子」、「イエス・キリスト」をはじめとする覚醒者が挙げられる。
今日の時代で言えば、彼らは当時の「ヒーラー」であり、「サイコセラピスト」を代表する人物であり、およそ2500年前には、既に私たちの「平均的意識」である『心理的自我段階』を抜き超え、時代をリードする役割を果たしてきた。
その間に、彼らのような突出した意識を獲得した人物は、「神」や「仏」として、人間以上の「超越的な存在」として聖化し、神格化、神話化され、「尊敬と畏怖」が同時に、平均的な心理的自我段階に人々を留めることの、それはまたアリバイにもなっている。
つまり、『仏陀や老子、キリストのような人物は、神のごとき卓越した人々であるから、あのような悟りも犠牲もできたのであって、自分たちには決してできない』と言う、心理的自我に留まることを良としてしまった。
2500年間の心理的自我は、今や有機的なものとして心身に染みつき、『人間の潜在力をブロック』してしまったのである・・・。
また現代は、物質的に豊富となり、その様相は「パラダイス」と言ってよいだろう。先進国に住む私たち日本人の生活は、基本的な衣食住を十分に確保でき、飢えに苦しむような「生存レベル」においての危機は、今のところ回避されている。
また、ある一定の自由と喜び、自己実現への活動機会とその権利は保障されている。しかし、内情は経済格差がもたらす「心理的外傷」が日常的に襲っても来る。そのような状況に曝されている人々の多くが、恐怖心を基本的衝動として外界を見ることにより、『自己保全や安心感の獲得』を最大の課題にしてしまう。
そのため、常に疑いと不信感に付きまとわれ、現在の状況を心行くまで体験できず、恐怖がもたらす現状から抜け出そうとあがき苦しむように、常に現在から逃避しては、何らかの「未来の目標」を達成しようとする。
こうして、『ゴールをがむしゃらに追及する衝動』が生まれ、目標に執着したあげく、追い求めることに疲れた時には、「自己のアイデンティティー」はすっかり「無意識の影」となり、自己イメージが保てなくなると「社会的対応」が思うようにできなくなってしまう。
それは単に満たされないばかりか、長い目で見ると、『自他に対しても破壊的な人生』を送ることに繋がるのである。(弱者の病理)
また、この「無意識の領域の魔力」の下で生きる人間は、自分自身、自分の家族、宗教、国と言った狭い視点から人生を眺め、他の人々、集団、国家は競争者として、あるいは最悪にも世界は潜在的な脅威として、自然をはじめ外界は「征服支配すべきもの」と感じられる。
こういった「心の枠組み」が、集合的な地球的規模で「力や競争」、「自己主張を強調」することをよしとし、線型的な進歩や限りなき成長を賛美する人生哲学を生み出す。
この姿勢は、現代のグローバル経済と情報社会を巧みに利用するものにとっては、そのシステムの基盤を最大限に活用し、物質的な利益と国民総生産の増大を幸福の第一基準に仕立て、生活水準の尺度と見なして世界的に拡大を図る。
こういったイデオロギーとそれに由来する戦略は、人間を生物学的システムとしての自らの性質を、『深刻な対立関係』に陥らせ、基本的な『宇宙的法則との不調和』を招く。(強者の病理)
現代の『病理の両輪』は、様々な社会問題が解決不能とさえ思える状況に立ち入らせ、前述の「心理的自我への執着」が密接な関係として長期に結び付き、現代の『差し迫った危機』をもたらす元凶になっている。
人類は歴史上、かつてないほどの複雑で大掛かりな危機に直面しており、実際に社会的、政治的、経済的、生態的、倫理的危機の直中に立たされている。その深刻さの度合いは、ここ30年間において急激に増しており、その細部には踏み込まないが、21世紀の現在が人類史上、これほどあらゆる面において一時に差し迫った危機に曝されたことは無かったと言えるほどである・・・。
『 この危機は、現代人が首まで浸かっている「理性(合理性)」や「知識偏重」の社会的文化的方向性に横たわる「二元論的な思考と行動様式」が、未だその根にあることは間違いないとは言え、本質的には私たち自身が陥ってしまった「乖離した知」の産物によるものである・・・ 』
確かに、「人間の生」に限らず、宇宙全体の事象は『対立(二元性)』に基づいて、「相互に作用する対立」があることによって存在している。左右・上下・前後・大小など、あらゆるものすべてに相互作用する対立が観られる。
しかし、それらに対する私たちの「知覚や認識」と言う現象、あるいは共有している「意味や価値」の源泉はどこに在るかと言えば、人間が中心にあるわけでも、世界が中心にあるわけでもなく、この「二つの間」、即ち、『人間と世界の中間』にその源泉が存在している。
科学であれ、哲学であれ、宗教であれ、また自己や文化や社会、あるいは政治、経済、生活、そして自然と言った、いくつかの「参照先と言ったものの意味や価値」は、ただ一方に存在するわけではなく、人間と世界の中間に存在している。
つまりそれらは、外世界にも内世界にも、どちらかに『絶対的中心』が存在するのではなく、全てが生き生きとした活動を可能とする有機体全体の『絶えざる変化の流れ』の中で、私たちと世界を結び、今ここにおいて「相互出現」、「相互のプロセス」の内に結実される、『現前たる瞬間の現実』と観なくてはならないであろう。
科学、哲学、宗教のいずれもが、人間の『存在と認識の基準点』を求め、それぞれが世界には意味があると考え、その世界の意味を求め、そこに人間の認識の基準点を置こうと探求を続けている。
しかしその意味は、私たちが歩んできた歴史の中で作られ、それを解明していく手立てを固定的で断片的な見方だけに力を注ぐだけでは、『肝心なもの』は観えてはこない。それは私たち「人間の生」にとって、「必要な条件」であっても、「十分な条件」とはならない。
全宇宙、全生命が存在するための『絶対条件』を考えることなく、私たち人間の生や世界の意味や価値は語れない。それは『創造性と言う進化の物語』である・・・。
物質から生命、そして心へと、「創造的進化の物語」は前もってプログラムされたシステムなどでは語りえない。創造性を獲得するには、『世界を生み出す能力』がなければならず、それこそが創造性に他ならない。
『 創造性とは、基準点を放棄し、参照すべき意味の根拠の探究をあきらめ、内にも外にも規範を求めず、そのことを恐れないで生きるところから生まれる・・・ 』
現実の「境地」に分け入り、「悠々自適の道」に至るには、その当然の条件として『研ぎ澄まされた感覚』を必要とする。一つの中(一を極める)から無限の情報を読み取る(全体性を得る)には、閉ざされた超感覚を開き、体ごとそれを受け止める『実感力』を必要とする。
そうして発達する『共感性(統合的包含性)』こそ、新たな世界の基底として、すべての人類に必要とされる能力であり、『身体』は本来、そのためにこそ重要な『高性度のアンテナ』なのである。
多くの人々は「肉体が外側」にあり、「内なるものは心」だと思っている。生命は神経系の発展から結果的に脳を生み出し、私たちが心として捉える「思考の力」は、生命進化の最後に生じたものである。生命の基礎はむしろ「身体」にあり、その奥にこそ『宇宙と言う実在と創造性に繋がる扉』がある・・・。
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