第6章|奇才の人『ケン・ウィルバー』の再来

 

 一群の「ニュー・サイエンス」、「ニュー・エイジ運動」、「トランスパーソナル」など、時代において呼び名を変転しながら、表層のパラダイム・シフトは、深層の『メタ・パラダイムの転換』を基底として展開されてきた。

 ニュー・サイエンスの教祖的存在であった「フリッチョフ・カプラ」の著書『タオ自然学』が、その認識を科学の世界から一般社会の広範囲の読者にまで関心を高めた頃、その当時、若干23歳の一人の若者が、生化学の大学院をドロップアウトした直後、三か月で書き上げたとされる『意識のスペクトル(原書:1972年/公刊:1977年/翻訳:1985年)春秋社』が威光を放ちながら出版された。

 その彼はほとんど一夜にして、当時もっとも幅広い「哲学的思想家」、「ニュー・エイジの旗手」、あるいは「トランスパーソナルの代表的理論家」と世に言わしめ、『私たちの時代の独自な存在』として出現したのである。その人物こそ、現代の覚者と言える『ケン・ウィルバー』、その奇才の人であった。

 その影響力は、当時のニュー・サイエンスの教祖「F・カプラ」でさえ、ウィルバーの批判を受けて変貌するなど、F・カプラの二冊目の著書『ターニングポイント』にはその反映が伺えるほどである。

 ウィルバーの処女作「意識のスペクトル」では、人間の発達が、「西洋心理学」で一般に認められるものを超える「独特の段階」を経て展開していくことを論証する。それは、各発達段階を成功裏に経過することによってのみ、まず「健全な自己意識」を発達させることができ、最終的に『個的自己を超越』し、そして包み込み、より広い『アイデンティティーを体験』することができる・・・とウィルバーは論じている。

 つまりウィルバーは、それまでは一見相容れない相違のために分離していた、『フロイトと仏陀を結合』したのである。しかもそれは、彼の多くの独創的とも言える業績の先駆けにすぎなかった。特記すべきは、人間心理学を含んで超える学として登場した「トランスパーソナル心理学」が、ウィルバーらの活躍によって、『心理学の最新の潮流』を形成していったことであろう。

 しかし、「トランスパーソナル心理学」自体が、その根底に当初から豊かな主流社会への密かな依存があったことは否めず、それが1990年代には表面化し、運動の意義とスタンスが問われ、沈滞期を迎えて行くこととなる。その様相の中、1996年においては「日本トランスパーソナル学会」が結成されるが、本場米国では既に運動は沈滞しつつあったのである。

 ウィルバー自身においても、その後のニュー・エイジ思想等に代表される「内面主義」、「退行的発想」に対する批判を強め、自身のホームページにおいて『トランスパーソナルとの決別』を表明している。

 「意識のスペクトル」の出版以後、ウィルバーは個人的な事情(奥さんのガン)もあり、ほぼ10年の間は本格的な著書と言う意味では休筆状態であったことも重なり、やや忘れられつつあった・・・

 しかし、『進化の構造(原書:1995年/翻訳:1998年)』とその要約版『万物の歴史(原書・翻訳とも:1996年)』を著して現代思想の舞台に再登場してきた時、ケン・ウィルバーはもはや先の表現では表しきれないほど、『極めてスケールの大きな思想家・哲学者』に変貌を遂げていた・・・

 つまり、ウィルバーはもはや、「ニュー・エイジの旗手」、や「トランスパーソナルの代表的理論家」と言ったレベルを遥かに超え、アカデミズムの内部にも絶大なる支持を得て、大きな影響を与えつつある『本格的(オーセンティック)な哲学者・思想家』に成長・変貌を遂げていたのである。(ウィルバー:46歳/筆者:28歳の頃)

 近年のケン・ウィルバーは勿論のこと、沈黙に至るまでの彼の貢献には、「未だ比類のない巨大な物」があった。また、彼の心や意識に対する探究が、一貫して瞑想に基づく『至高体験がもたらす深淵なるリアリティの知覚』を基盤としている。その伝達が言葉を絶し、言語がその習性として語られうるもののみを伝えるしかないそのジレンマは、恐らく彼の沈黙に観ることができるであろう。しかし、当時も現在においても、彼の意念が、現実的な『統合的ポスト形而上学』の樹立であること、「心理学の根と枝を少しも傷つけることのなく、形而上学の豊かな土壌に根付かせる」ことを目指し、そうすることで過渡期の混乱から、「西洋心理学と精神医学」、そして「東洋の諸宗教と神秘主義」の双方をも救いだして、『より豊かな統合』をもたらそうとする意図に対し、私は心より敬意と賛辞を表する・・・

 威光を放つ、ウィルバーのデビュー作「意識のスペクトル」では、私たちの視覚が可視光線だけを拾い上げ、その他の帯域を知覚できないように、意識にも私たちが普段「接続(プラグイン)」していない様々な帯域、あるいは振動レベルがあることを示唆する。そして、人間の精神ないし意識に関する異なった観察やアプローチ(その対立の典型として「西洋的」なものと「東洋的」なものがある)は、それぞれスペクトルの異なった帯域に「接続」しているために対立しているように見えるだけで、実際には相補的に統合されうると彼は主張する。このように意識を「階層」、ないし「階梯」として捉え、それぞれの階層・階梯を詳細に検討し、しかもでき得る限り様々な探求を、それぞれの階層・階梯に位置付けていったものが、『意識のスペクトル論』の基本的な構図である。

 それらに対する全くの異論が私にあるとは言わないが、しかし、意識を「スペクトル」になぞらえることは、微妙な危険がつきまとっている。ウィルバー自身がその後、意識の領域に「物質科学のアナロジー」を持ち込むこと自体に再検討を加え、それが『空像としての世界(1992年)』における「ポップ神秘主義」への批判や物理学と意識の問題を中心に据えた執筆につながっている。この点、「量子力学的認識」と「神秘主義的文献」に観られる符号を手放しで歓迎しているあたりは、ケン・ウィルバーの若書きのナイーブさが見えなくもない。

 ただし、その読解力は相当なもので、ウィルバーは「意識のスペクトル論」をまとめる上で、その下地に「フロイト派精神分析」、「瑜伽行派仏教」、「ユング派精神分析」、「ヴェーダンタ学派」、「ゲシュタルト心理学」、「金剛乗仏教」、「統合心理学(サイコシンセシス)」などの理論ソースを縦横に駆使し、それから抽出された三つの主要な意識の帯域と四つのマイナーな帯域からなる「意識のスペクトル論」を見事に展開している。

 そして大まかに言って、西洋のアプローチが『個人の自我を補修』することを主眼に置いているのに対し、東洋のアプローチは『個我と呼ばれる自己を超える』ことを目指しており、「知の様式」には西洋科学が代表する「象徴的」、「推論的」な『二元論的第一様式』と、東洋神秘主義に説かれるような「直接的」、「無媒介的」な『非二元論的第二様式』があることを指摘する。

 こうして『知の二つの様式』を述べた後、ウィルバーは「知の様式が意識のレベルに対応し、リアリティが特定の知の様式であるならば、リアリティとは一つの意識レベルである・・・。」と言う、『驚くべき結論』を述べる・・・

 

『 つまり、一方に「知の対象としてのリアリティ」があって、もう一方に「リアリティの知識」があるのではなく、「非二元的知と言うものがリアリティそのもの」であり、また「非二元的知が一つの意識のレベル」に対応するものであるならば、『絶対的実在』とは、「それを知覚するレベル」に他ならない・・・ 』

 

 これは恐らく、言語の達せられるギリギリのところであろう・・・。

 

 ケン・ウィルバーは言うまでもなく当時から、深層の『メタ・パラダイム』によって『自己の基底』を力強く支えられ、その働きによって可能な限りの『自己の超越』が開花(表現)されていたであろう。

 そして、「意識のスペクトル」以後に出版された、『進化の構造』、『万物の歴史』へと帰結する・・・

 そこでは、現代の物理学、生物学、エコロジー、システム科学、複雑性の科学、構造主義、ポスト構造主義の哲学、人類学、現代社会学、様々な派の心理学、東西の神秘思想及び伝統的宗教など、おおよそ何でも知っているのではないかと思うほどの「膨大な知識量」を、見事な思想体系にまとめ上げられた、『全ての本である、一冊の本』とも呼べるものであり、私たちの生きている宇宙がどのような構造で進化してきたか、進化し続けているか、『壮大な見取り図(ビック・ピクチャー)』を提示したのである。

 しかもそれは、物理学などが描いてきたような、「単なるモノとしての宇宙(小文字の「cosmos」)」の平板な見取り図ではなく、物質と生命と心と魂と霊を含む『真の全体としての宇宙(大文字の「Kosmos」)』の、ダイナミックで立体的な構造図であり、もちろん進化の歴史の中の『人類の歴史の流れ』も的確に捉えられている。

 「進化の構造」とその要約版「万物の歴史」に対しては、ウィルバー自身が『コスモス3部作(Kosmos Trilogy)』と呼ぶところの「第一部として構想」され、妻トレヤの死後、数年の喪に服した後、3年もの歳月をかけて著した大部の著作である。その思想的営為は狭い意味での心理学を抜き越して、文明論的視野を持った思想家として世界的に認知され、それまでの「個人の領域の成長」、あるいは「集団の領域の成長」を単独で取り上げていたのに対し、これ以降は『人類と世界の統合的な探求(インテグラル・ヴィジョン)』へと開かれていった。その後、21世紀を向えるまでには、『インテグラル理論』として具体的に説き明かされ、今世紀のおよそ10年間で『ひとつの探究領域』として急激な成長を遂げ、今日では、世界中でこのエキサイティングな領域に関する学術会議が開催されるまでに至っている。

 さてここまでに、『インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』(Integral Transformative Practice, ITPと略記)と呼ばれる、現代の「統合的で変容的な実践」の諸提案をいくつか簡潔に見て行く準備として、現在までの半世紀の間、僅かながらの人々を突き動かしながら、それでもなおも置き去りにされつつある『ガイスト・サイエンス(霊的瞑想科学)』の背景と足取りを、幾分簡略すぎることは承知の上で科学の視点から遡り観て頂いた。

 前述したように、この半世紀での出来事は、「私の人生」にとってだけでなく、「時代を共有する人々」にとって、非常に重要な『歴史的変革期(ターニングポイント)』とも言える、いくつかの概念、理論、哲学、思想が世に誕生した。

 現在では、その出自がどの分野から発生し、どのような意図を含む定義と概念かに関わらず、私たちの日常に溶け込み、それらはコミュニケーションの中で一般的な共通言語として使用されているものも少なくない。

 特に現在は国を上げて、「科学的リテラシー」の一般国民への普及が盛んに叫ばれると同時に、「科学倫理」が世界的に問われるようになったその背景には、「グローバル社会における共通の問題」に対する意識向上と問題解決が、今や世界の国民一人ひとりに委ねられている時代における、共通の「環境倫理」、「生命倫理」などが、広く一般的に必要不可欠であると言った「認識の重要性」を物語っている。

 歴史上に観る、これら現代の意識の高まりには、現代文明における「目に見える表層の危機的事象」への反応は勿論のこと、「高度な情報化による共通認識」がもたらした結果であることは間違いない。

但し、現在に至るまでにおいて既に、「現代の危機的状況」や、その問題を生じさせる原因に言及した情報は、少なくとも過去50年、いや何世紀もの前から、特定のある限られた人々によって叫ばれ、議論され、そしてその解決方法までが提案されていたことを見逃すわけにはいかない・・・

 

『 私が言わんとする『失敗の歴史(成功の歴史でなく)』と呼ぶもの・・・それは、貪欲すぎる個人、集団、組織、国家が観ようとせず、ついやり過ごしてしまう、物事全てが内包する『価値と限界』、『真実と盲点』の「適切な追求と徹底」、そして「転換すべき行為の欠落」・・・それらに果敢に挑んだ著名な専門家であれ、卓越した一般個人であれ、その理に叶った諸提案への「全体的な容認と実施の痕跡」には、『人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語』が過去と現在に渡って存在し続けている・・・これまでに多くの叡智が、影を潜めることなく在り続けているにも関わらず、その存在の認識だけが情報として出回るだけ出回り、『本質的な行為としての人間的知覚』を通り越す形で世に広まってきた・・・

 

 つまり私たちは既に、「有意義な認識の存在」、その「認識の重要性」、それら「認識を伝える情報網」は整備され、いつでも『獲得可能な状態』にある。しかし、その「有意義な実践の存在」、その「実践の追求性」、それら「実践を現実化する徹底度」は無視され、いつでも『危機崩壊の状態』を招きかねない。

 そして、いつの時代も「認識と存在」、「無知と無義」、「対象と主体」の分離と分断が『失敗の歴史』を繰り返し再現するのである。

 たとえ優れた「知識」や「技術」や「方法」を豊富に所有していても、『高度な認識力』が欠如していれば、 結局のところ、その可能性を十全に引き出すことはできないであろう。しかし、その認識に至り、実践力を発揮するのは『自己の存在と力動』に他ならない。

 現在は『表層のパラダイム』を得ることは、従来のように「単体の知識を得る」ことさえ難しい時代とは比べ物にならないほど容易となっている。何よりそこで必要とされるのは、「自己の存在と力動」であり、『深層のメタ・パラダイム・ダイナミクス』の「創造性と潜在的可能性(生得の力)」に根付かせた、『統合的共創造による成長(発達/進化)』である。
 


 
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