第4章|歴史的変革期『ターニングポイント』

 

 前述にも説明した「パラダイム」とは、トーマス・クーンが科学思想における概念の枠組みとして提示したものが、今では教育学、政治学、ヘルスケア、そして世界観一般と言う、様々な分野・領域に適応されるようになった。またこの原理は、私たちがリアリティを認識し、意味づける方法にまで用いられ、その言語は日々の会話の中で広義に使用されている。

 「ピーター・ラッセル」の著書、『グローバル・ブレイン(1985年)』の中で、我々の思考、知覚、経験の基礎となっているものは、世界の在り方に関する暗黙の仮定である・・・と説明し、さらに外の世界の知覚が意味をもった経験となるには、一つの世界のモデルが必要であり、もしもこのような知覚の枠組みがなければ、生のデーターはそのままでは意味をもたない・・・と指摘している。そして今日では、パラダイムは科学の領域を超えて、広く一般的な私たちの「概念と知覚を構成するモデル」、「リアリティを決定する基本的な枠組み」にまで適用されるようになったのである。

 つまり、私たちが知覚を構成するときに「世界を構成するモデル」、すなわち「パラダイム」をもっており、それは通常、意識するしないにかかわらず、私たちの物の見方・考え方を大きく左右するということである。心理学ではこの知覚を構成するモデルのことを『セット』と呼び、この存在は非常に大きいもので、知覚したデーターを解釈し、どの体験を「現実として受け入れ」、どれを「錯覚として拒否」するかを決定するものと定義している。

 このように、世界を考察するうえでの概念としての「パラダイム」や、私たちが体験をどう構成するかの基本となる「セット」の存在に、私たちは強く支配されているのである。ここで再び、「ピーター・ラッセル」に耳を傾けてみたい。

 

『 例えば、物理学者が自分の意識と物質的世界が完全に分離した存在だという体験をした場合と、その二つがより大きな全体の一部だという体験をした場合では、そうとう異なるパラダイムを発達させるだろう。その意味で我々の「自己意識」は、パラダイムやセットを越えたものである・・・

 

 ラッセルのこの説明には、私たちのあらゆるパラダイムやセットと言われる「表層の意識」と、それを超えたところの「自己意識(深層の意識)」に存在する『メタ・パラダイム』、『メタ・セット』と呼べるものの存在を示唆している。『メタ』とは、ギリシャ語の『越える』を意味している。

 つまり、私たち人類がこれまでに体験してきた、『パラダイム・シフト(転換)』と言うものが発現する場合、それらの現象を突き詰めていくと、おのずと『人間の意識の根源』にまで迫っていくことになるのである。パラダイム・シフトと言うと、如何にも『表層の観念的な概念操作』によって行われるという印象をもってしまう。が、この背後・根底には『メタ・パラダイムの転換』が存在し、知的な作業に加えて「意識の変容的な体験」、日常生活の在り方を含む、全体的な世界観の「何らかの体験(神秘体験など)」が問われることが、科学の世界においても認識されるようになったのである。(今から30年程前のことである)

 80年代の科学の世界におけるこの様な認識には、20世紀初頭の物理学、特に「量子力学」の発展に始まる。「アインシュタイン」の『相対性理論』にはじまり、1920年代後半に確立された現代物理学で起こった「パラダイム・シフトの波」が、科学全体に広がって行ったところにその原点を観ることができる。

 特に注目すべき科学者であろう人物の一人としては、アインシュタインの無理解にもめげず、「波動力学」の創始者「シュレーディンガー」との論争にもひるまず、量子力学の創始者で、それに重要な側面を与えることとなった『不確定性理論』の提唱者である「ハイゼンベルク」と言えよう。当時、彼と共に「近代量子理論」の基礎となる『相補性原理』の提唱者「ボーア」らによる『コペンハーゲン解釈』は、今日も続いている「近代合理科学のパラダイム」を大きく揺るがせることになった。

 この現代物理学、つまり科学の世界で起こった『パラダイム・シフトの動向と変化』とは、日常の表層的な考察から覗うならば、知的な作業への努力と研究への情熱による偉業として、彼らの特殊な能力や才能を評価・称賛するのみに多くの視線が向かうだろう。確かに、卓越した理論の形成、世紀の発見と言える『結果に対する驚き』に、多くの学者や大衆の目が奪われる出来事である。事実、上記の三名は「ノーベル賞学者」であり、今なお、科学界をはじめ、政治・経済・社会の領域に対し、その恩恵と希望を与え続けている。

 結果と実績が際立って大きい状況だけに、彼らの『内面領域に対する個的な心情』については、あまり注目されてこなかった。ちなみに科学者以外にも、20世紀前後の時代には「偉業」と呼ばれる発見・発明を果たした人物として「トーマス・エジソン」などが挙げられる。この時代には、「物理的・物質的側面」の開花時期であるだけに、外面的なモノに興味と視点が注がれていた傾向が強いこともあった。事実、学術界と産業界は、物理学がその中心的な役割と牽引を担っており、絶対的科学神話が確固たる地位を得て、世界の中心的思考は「客観的合理性と機械論」を強調し、社会の真実性は科学的論理性に基づいていった。

 

ではいったい、彼らは如何にして、その「能力と才能」、「着眼と発想」、そして「発達と開花」を成し遂げ果たすことができたのであろうか・・・。皆同じ限られた時間と空間の中で、「驚くほど新しい」知覚・思考を喚起・展開・転換するに至ったのであろうか・・・。あるいは、限られた時間と空間の中で、他の人々よりも並外れた「集中力などの力動」を持ち合わせていたのだろうか・・・

 

 興味深い話として、科学界と実業界の傑出した発明家であり天才と言われる「アインシュタイン」と「エジソン」の両名の幼少期には、共通する秘話が実は存在する。彼らは共に、現代で言うところの多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害、つまり、「注意欠陥・多動性障害(英: Attention Deficit Hyperactivity Disorder ; ADHD)」であったことが判明している。ADHDの症状は、注意力を維持しにくい、時間感覚がずれている、様々な情報をまとめることが苦手などの特徴がある。日常生活に大きな支障をもたらすが適切な治療と環境を整えることによって症状を緩和することも可能であるが、脳障害の側面が強いとされ、しつけや本人の努力だけで症状などに対処するのは困難であることが多いとされる。また両名は幼少期において学校の教育に馴染めず、非常に特殊な性格を持ち合わせていた。しかし、アインシュタインは伯父に、エジソンは母親によって、ある種の才能・奇才を見出されて独自性を育成するオリジナルな教育環境を与えられている。その後は共に学業的な有能性よりは、興味のあることはとことん突き詰め、ユニークで豊かな発想力と行動力によって、「自身のあるがまま」の本性に従うごとく、それぞれの分野で功績を発揮するに至っている。現在において、両名を圧倒するほどの歴史的に偉大な人物はその分野に存在しないであろう。

 特に注目すべき記録の中で、「アインシュタイン」をはじめとする、当時の先進的な科学者であった「ハイゼンベルク」など『ニュー・サイエンティスト達』の手記には、ある種の神秘体験に基づく『高次のリアリティ認識』を積極的に語っている事実が残されていることである。そして彼らは、従来の合理的科学手法に加え、「神秘的な体験」を通して得られる(あるいは得られた)『直観的認識』を、自然に対する洞察の道具として使用した結果が、『パラダイム・シフト(転換)』を創発し、現前のリアリティに真実性と価値と意味を見出させたのである。また、その結実させた世界の存在を、彼らが表現する場とする科学の領域に反映させたと言えるだろう。

 実際の問題としては、このことを「科学者の個人的な特殊な問題」として片づけてしまうか、あるいは「より意識的にこの問題を考察するか」で、その後の『伝統的科学と新しい科学の分岐点』が見えてくるのである。そして、これよりも遥か以前の時代においても、新しい発見や理論が誕生する際、ある種の神秘体験や直観的洞察をうかがわせる記述の存在が確認できる。ただし従来、こうした誕生秘話は、あくまでも秘話として「科学の問題」としては捉えられず、科学者個人の特殊な問題とされてきたのである。あるいは、そのテーマ自身が近代において科学的ではない、「形而上学」もしくは「神秘主義の系統」として避けてこられた帰来があり、特に西洋科学の発展の過程においては、それらは神学及び宗教的領域が扱うものとして、対極(対立)の側の幻想的世界として目を背けられてきた。そこには、中世キリスト教によるドグマに対する、過去のトラウマが大きく科学者達には存在しており、今や自由な学問的追求と論理的・合理的科学手法を手にした研究者にとっては、客観的に目に見えるもの以外を取り扱うことを良としなくなっていたのである。

 この傾向は現代の世界にも引き継がれている。客観的及び論理的、科学的という言葉はいかにも信憑性があり、理性による真実性を強調する唯一の手法として誰も疑うことはないであろう。しかし、その客観性を決定しているのは、いたって個人である主体側(観察者)である。その事実に遭遇したのが「量子力学」であり、「波動力学」という『物理学の世界に起こったリアリティ(粒子は「物質」であり「波」である、観察者の意識によって同時に観ることがない)』であった。その内容は多くの専門文献等にて詳細に紹介されているので、そちらに譲りたいと考える。

 

『 ここでの「視点(議論、思索、考察)」・・・それは、科学世界における歴史的な動向や状況に対する批判をすることではない。科学者の表層的なパラダイム分析や現代の科学倫理を非難することでもない。まして、散々知識を引け散らかした末に、野暮で下世話な「とんでも話(オカルト本)」を展開するつもりなど毛頭ない。つまり、自然に対する「洞察の道具」として使用する、「精密な機器(顕微鏡や望遠鏡など)」と「表層的パラダイム」以外に、その主体となる身体(自己)に備わる『精妙な器(生得の力)』と、その感度と精度を最高に引き上げる、深層的な『メタ・パラダイム・ダイナミクス(パラダイムを超えた存在の原動力)』の存在と認識、そして行為(修行・実践)について視点を注いでいる・・・

 

 80年代に大きく注目されることとなる『メタ・パラダイムへの認識』は、20世紀初頭の物理学の世界を先駆けに、その後『ニュー・サイエンス』と呼ばれる潮流の中に継承されていく。それらは、「アインシュタイン」や「ハイゼンベルグ」、「ボーア」たちの流れに繋がっている。そして、現代物理学者のある者たちは、「観察者の意識」と言う重要性の問題を抱えて、「科学哲学」や「認識論」の方向に進んでいった。

 当初、ニュー・サイエンスなる言葉自体は日本で生み出されたもので、この言葉に象徴される明確な傾向が世界的に存在している。日本で「ニュー・サイエンス」、または『ニュー・エイジ』が話題になり始めたのは、「フリッチョプ・カプラ」の『タオ自然学(原書:1975年/翻訳:1979年)』が発表された時期に一致する。私自身にとって、このF・カプラの著書とは、その後の人生に大きく影響を与えた一冊であることは間違いない。その後、F・カプラの二冊目となる著書『ターニングポイント(原書:1982年/翻訳:1984年)』は、より一層、私の「メタ・パラダイム創発」を激しくスパークさせた「壮大なる著書」である。

 「ターニングポイント」では、物理学のパラダイム・シフトに端を発した、ニュー・サイエンス、及びその根底で進行している人類史的な『大きな変革の潮流』を概観している。その上で、今日の社会全体における「危機のゆゆしさと地球的広がり」への警鐘とその対応について示唆するものであった。その認識は30年後の現在においても十分通用する、的確な指示というものが明記されている。

 当時の私(18歳)には、F・カプラがこの洞察に至った経緯と、その背後に存在する「知的活動(表層的知覚)」以外の「深層的な知覚」をもつ契機に、『ドラッグによる覚醒』が関わっていたことを後になって知ることとなる。ただし、そのことを境に『意識の覚醒と可能性の存在』に対する純粋な関心が芽生えたことと、自分自身のそれまでの「不可思議な体験(神秘体験)」に対する検証とより深い洞察へのヒントを得ることができた。まさに私にとっての『ターニングポイント』であった・・・

 

 F・カプラの「ターニングポイント」の序文は以下である。

 

『 1970年代に物理学者として私が抱いた大きな関心は、今世紀(20世紀)のはじめの30年間に物理学で起きた。そして今なお、物質理論の中で色々手が加えられつつある概念の発想の劇的な変化であった。その物理学の新しい概念は、われわれ物理学者の世界観に、デカルトやニュートンの機械論的概念から、ホリスティック(全包括的)でエコロジカル(生態学的)な視点へと大きな変化をもたらしてきた・・・。それは、東洋思想や神秘主義の視点ときわめて似通った視点である・・・

 

 こうして、物理学にはじまった「パラダイム・シフト」、そして「ニュー・サイエンス」の波は、「生物学」さらには「心理学」へと波及していくこととなる。
 


 
【 ユニバーサル・セックス / 大 い な る 宇 宙 の 聖 性 『大 道』:全編 】


 

URL :
TRACKBACK URL :

LEAVE A REPLY