文明の発展が急速に進むにつれ、私たちの社会生活は物質的には確かに豊かになり、先進国をはじめとする世界の人々は、過去のように飢えに苦しむことはなくなった。ただし、いまだ貧困状態にある地域が存在する問題は、いぜんとして残されてはいる。また、先進国が豊かな状態にあるといえども、経済的格差は日々悪化しており、社会福祉的国家の継続に対しては、どの先進国の内情を観ても「高齢化と貧困層の増加」に伴う財政難は顕著になりつつあり、国民全体に充分な手当を支給することは、今後ますます困難を来すと予想される。
『革新的なテクノロジーの発展』は、経済活動の合理化を推し進め、人間の手による労働までもが合理化により縮小傾向にある。表層的には、景気低迷による雇用の減少が取り上げられてはいるが、雇用における本質的な問題は、やはりテクノロジーの発展とそのイノベーションが引き起こす「合理的増産システムの発展」によるところが大きい。
経済活動の目的と使命としては、本来的には既に果たされている。一部の地域を除いては、いわゆる人間の生命活動を維持するための「物質的生産と供給」の面における「量・質・物流」は、とっくにその必要な数値を満たすところまでに達している。
経済に関する詳細な議論はこの場では踏み込まないが、「雇用の問題」は本質的なギャップと社会構造、福祉社会と国家体制、文化と政治など、ある種の共通する問題を解消する「新たな社会システムへの移行」に着手しない限り、「格差社会と労働・雇用の減少」は益々悪化の一途を辿ることとなるだろう。
つまるところ、本質的な問題は「収入の問題」であって、経済活動の使命が「雇用することの使命」を負っているのではない。また、「収入は労働によって得る」と言う慣習に囚われていては、社会・経済・文化の「進歩的な人類世界」の構築は、果てしなくほど遠いものとなるしかない。ここについては、別の機会にて考察・示唆したいと考える・・・。
『先進的な医療とその技術』も目覚ましく発展し、生物学と医学の向上は「病気治療と創薬(製薬技術)」に大きく貢献し、人間の命に長寿をもたらしている。しかし一方では、寿命年齢とは逆に「健康年齢」は著しく悪化しており、半病人状態の人々で病院は溢れ、身体的な病状とともに「精神的病状」を抱える人が近年急増している。
厚生労働省は、2006年の医療法改正で地域医療の基本方針に死亡原因の大半を占めるガン、脳卒中、心疾患、及び糖尿病を四大疾患として指定していたが、2011年8月には患者数が急増する「精神疾患」を追加して、「五大疾患」として基本方針において重点的に対策を講じることとなった。
厚労省によれば、うつ病、及び不安障害を中心として、精神疾患患者数は2008年当時で既に323万人に昇り、ガン(152万人)や糖尿病(237万人)を上回っている。特にうつ病、及び不安障害の患者が増加していて、ほぼ「3万人の自殺者」の大半がこれら精神疾患を抱えていると推定している。
先天的な病状よりは、後天的な「生活習慣病」による疾病が増大するにつれ、ヘルス・サイエンスやヘルスケアの概念自身も大きく変化し、全人的(包括的)な治療から臓器別治療へと細分化されている。
医療従事者はいたって個別化・専門化されると同時に、検査技術の発展により、その専門技師も含めると、人ひとりに対する医療従事者の分野別人数とそのコストは限度を超えているであろう。事実、診療科目は、産婦人科や小児科を除いて脳外科、脳神経、胃腸科など、臓器別に40科目程度に細分化されており、診療機器の分野における電子化など進歩が認められるが、治療は依然として投薬、放射線照射、及び手術が主体であって、特に生活習慣病の治療は専ら投薬に依存している。
つまり、医療薬や健康維持・改善に費やすセルフケアに関わる「ヒト、モノ、コスト、そして情報管理など」を合わせると、長寿と健康を管理するためのエネルギーは、もはやとてつもない数値が想像されるだろう。
国家予算に占める国民医療費38兆円と介護費用8兆円の合計46兆円の費消、このほか診療費としては交通事故および自由診療があり、ほぼ10兆円程度と見積もられている。よって、日本における総医療費は55兆円、ないし60兆円程度に達していると想定される。
この点で、医療産業は自動車産業を超えて国内最大の産業となっているものの、現行医療が本質的に対症療法であって、健康体の回復や社会復帰を実現・促進して、究極的に国力増強に資するところが少ないと考えられる・・・。
『情報化の発展した社会』では、個々の人間はもはや情報の対象に過ぎず、コミュニケーションの主体の存在ではなくなりつつある。それは、経済活動の対象、消費の対象、管理の対象、コントロールの対象、そして全てに「金銭の対象」であり、「情報量=情報料」=「情報料=報酬量」と言う公式を基に、『量(料)の増大』を誇張しだしている。
そこでは、いかに「リンク」を増やし、「ランク」を競い、「情報をマネーに換えるかがゲームのルール」であり、まさに目に見えない『錬金術の場』と化している・・・。
これらに共通する「重大なキーワード」を一言で表現するならば、それは『過度』、つまり、行き過ぎた『ハイパー世界の物語』である。過度(ハイパー)な世界は、「ハイパーエイジェンシー(過度な自律性)」、もしくは「ハイパーコミュニオン(過度な関係性)」を強調し、「ハイパーアセンディング(過度な上昇志向)」、もしくは「ハイパーディセンディング(過度な下降志向)」のいずれかの断片的世界を軸に、『極端な対立と分離』、そして『極度な存在と認識の乖離』と言うものを縦横に生じさせる。
次第にそれらは、「自己の心身の健全性」や「文化における善性(倫理・道徳)」、「社会と自然に対する真実性や信頼性」をもろくも崩壊の一途へと近づけて行く。
この、全体性とバランスの欠いた「自己、文化、社会、そして自然」は、世界空間に存在する『美・善・真』を、平坦で断片的で疎外化された『モノクロームな世界』の領域に過度に還元(極度に引き込む)する。そして、在りのままの全てが『豊かさの中で餓死する』といった最悪を招く。つまりこれこそが、現代に特有の『病理と闇の正体』であり、『表層の浅薄な力』の実態なのである。
過去から現代において、繰り返されてきた「自己崩壊」、「機能不全」、「制御不能」、そして最悪の『文明の滅亡』という史実などへの対処(治癒方法)が不在であったわけではないであろう。
ただし、その存在は過去も現代においても非常に少なく、「対症療法的アプローチ」は無数に存在するものの、『ホリスティック(全体的)でラディカル(根本的)』なアプローチは稀である。
特に情報が瞬時に伝わらない過去の時代において、『統合的アプローチ』を探り当て、適切に実行することは不可能に近いことであったと考えられる。
もしくは、現代においても存在するであろう『拍手なき勝利』のように、史実にも、話題にも上らない時の内に、完ぺきに近い形で問題を処理した場合には、それは人々の目にも記憶にも残らず、密かなる時空に微かな音も立たぬ間の出来事(実行)とも言うべき、『未存在(確認不能)の存在』であったかもしれない。それは、問題が芽生える前の『兆しでもって処置する』とも言うべき、語りえない『見事な叡智(智慧)』、神話や伝説にも伝わることのない、一片のカケラも見当たらない『秘儀の存在』を連想するのは私だけの妄想であろうか?
上記に掲げる、ほんの一部に過ぎない現状、その僅かながらに垣間見る『価値と限界』、『真実と盲点』だとして、今ここで私たちが認識すべき課題とは何か・・・。
決して時代を逆行することなく、積極的に外の世界にのみ囚われて自己をすっかり明け渡すこともなく、表層的な知識を単に寄せ集めるのではなく、実体のない精神世界のままに漂いながら探し続けることなく、果敢にその「課題・問題・病理・闇・浅薄さ」と向き合い、現実に分け入り、それを乗り越えていくためには何をなすべきか・・・。
今や「心理的な脅威(恐怖)」から、『有機的な脅威(恐怖)』としてすっかり固着してしまっている、『病理と闇の正体』であり、『表層の浅薄な力』によるところの「ドグマ」、あるいは、『カルマからの解脱』を如何にして成し遂げるのか・・・。
それにはまず、自己に元々備わる『生得の力』を取り戻すことから始めなければならない。今や「生得の力」とは、進化の歴史の中で私たちが見失ってしまった、言わば『失われた環(ミッシング・リンク)』そのものである。
進化論を覆す、馬鹿げた仮説としての「ミッシング・リンク」ではなく、原初的・内在的に自己に備わる、肉体と精神を貫く『生命力』、あるいは『創造的潜在力』と言う『生命の樹(幹/軸/柱/道/中空)』に他ならない。
そして、「生得の力」を取り戻した上で、「自己、文化、社会、そして自然」を同時に解放しなければ、「カルマからの解脱」は愚か、本当の『自由と充足』、『治癒と成長』を手にすることは困難であろう。
私たち自身が、自らの人生を面倒見ること、自らの運命を切り開いて『自由と充足』、『治癒と成長』を果たすには、自らが自分自身の『マスター』となり、『ヒーラー』となることが秘訣である。そのためには、『自己の生命力(生得の力)をもコントロールする術(プラクティス)』を学び、それに目覚め、そして取り戻すことが必須である。
比喩的に表現するならば、『 生得の力(輪環)を乗りこなすには、まず鍵(術)を差し込み、そのエンジン(力動)を回転させ、始動させるバッテリー(失われた環)の充電(充満)によって点火(スパーク=学びと目覚め)がうまく行かなければ、その車体(身体)はいつまでたっても発信することはない。当然、その運転者(自己・意識・魂)は立ち往生したまま、目的地(自由と充足/治癒と成長)に行き着くことはできない・・・ 』
その「生得の力」を取り戻す行為(実践)は、『自己の存在と認識』を再発見することである。
『 私たち人間が宇宙(コスモス)の進化の一部であり、その宇宙全体の物質から生命、そして心の全てを含んでいること・・・。コスモスの進化そのものが、私たち人間の内に存在することを認識する、その知覚を霊性と呼び、コスモス全体の慈悲と叡智との絶えることのない交感(エクスタシー)によって霊性は存在していること・・・。私たち自身が、そのコスモスと霊性の進化の先端であること・・・ 』
それらの認識に始まり、全心身で獲得することであると同時に、コスモス全体にわたる『進化の開花』に自覚的・能動的に参加し、共創造する権利とその責任を得て、自己と世界の価値と意味を見出す『最善(至高の悦)に至る道』である。
これは単なる「哲学」や「宗教」などではない。まして昨今の「マインド強化」を重視する自己啓発などの類ともまったく根本的に異なる。ご本尊に手を合わせることも、グルを崇めることも、雄弁に語る講師に媚びる必要も一切ない。
時代性やトレンドと言った、変化に振り回されることのない『不変(普遍)の原理原則』を受動(パッシブ)し、変化の先頭(進化の先端)なる、まったき人間である自身に拠って立つ『大いなる自己』へ、能動的(アクティブ)に『変容(創造的進化)を遂げる道(自己超越による自己実現)』である。
本格的にこの道(「生得の力」を取り戻す実践)の実修方法や、そこから得られるエネルギーには、いくぶん圧倒されてしまうこともあるかもしれない。人によっては時として、人生観を変えてしまうような大きなきっかけと成り得るだろう。ただし、自己を見失うことは決してない。如何に自らの「生命力」と再会し戯れるか、全ての「生得の力」を統合し、成長を促す軸が、元々自身の内に存在していたことに『大いに気づく』だけのことである。
より高度な練功段階に達する人は、それまでとは全く正反対の認識に至るであろう。つまり、真の「自由と充足」、「治癒と成長」とは、外部の何者かによって与えられ、望みを叶えてくれるのではないこと、自身が自由になるための『自由に降り立ち』、統合的な変容の基礎が自らの身体に根付いており、一時も離れることなく、厳然(現前)と内在されていたことを悟るのである。そして、これまでの実修・実践の諸テクニックは、実は単なる道具(手段)にすぎず、もはやそれを必要としなくなる時がくれば、容易に捨て去ってしまえるものであると言うことも悟るのである。
そこには、「抽象」や「具象」の概念世界はもはや存在しない。もう一つの世界(第三の道/文化)、それは、『捨象の世界』の存在と認識に至るのである。「カタチを捨てる」こと、すなわちカタチを捨てれば何が残るか・・・。『本質が残る』のみである。
「生得の力」は、現代のサイコ・スピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)の専門家や教師たちの間においても、大きな存在と認識である。人間の『統合的な成長(変容)』が重要であると言う共通認識が芽生え、自己の心身(肉体と意識)両面の統合にしっかりと根ざした実践の提案が示されている。それらは、『ITP/インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』と言う統合的で変容的な実践によって、人間の潜在的可能性を再度、統合的に繋ぎ合わそうとする試みである。
この考え方そのものは、なんら「驚くほど新しい」ものではない。世界の伝統的な教えや宗教に観る文献、古代の哲学や思想、神話や伝説の物語の中にも存在する。それらは時に、特定の覚者や聖者、そして賢者、神秘主義に傾倒する呪術者や錬金術師、特殊な思想家や芸術家、はたまた秘密結社等の間で『秘儀・秘伝』として、謎めいた迷信や暗号という形で現代にまで伝え及んでいるものもある。
ここではそれらに踏み込むことを避けたいと考えるが、にもかかわらず、それらを一笑に付すような未発達で馬鹿げた、取るに足らない非現実(非科学)的なものとしてお考えならば「一事が万事」、これから叙述する内容は、読者にとって全く意味も価値もなさない、戯言となる可能性も無きにしもあらず、読み進めることをここで中止頂いても一向に構わない。ただ、歴史上のこれらの複雑な問いを探究する者、新たな資質や創造的活力、または感覚を、その個人の生活や仕事、コミュニティーの中で、自己の最も独自の資質を発現させたいと望む方であれば、この先の叙述を難無く自然な態度で消化しながら読み進めることができると信じている。
これまで何度も述べたように、まず何よりも、太古の時代から現代に至る人類が生み出してきた、『叡智と進化(変容へのアプローチ)』の物語すべてが内包する、それぞれの「価値と限界」、「真実と盲点」を尊重しつつ、健全なる態度によって吟味することは少なくとも無意味なことではない。盲目的に自己の趣向で唯一と思えるものに囚われるよりも有意義である。物事を鋭い輪郭でとらえることよりも、一旦自分の観念や先入観を無にすることは実に難しい行為であり、時に新しいことを受け入れることよりも、古いものを忘れることは、なお難しいことでもある。
再度読者の方に願うことは、「信念(ある時は「ドグマやカルマ」)」や「精神(メンタル)」、「思考(マインド)」と言った、『ハートのチャクラの上』のみで物事を考察し、困難を乗り越えようとせず、その「マインドからプライド」を、「ハートから争い」を無くし、『無為自然の本性(身体・本能・性・感情)』より立ち昇ってくる『生得の力』の存在と認識に信頼を置き、世界をその曇りなき眼で「抱擁する」こと、「受動する」こと、「偶然を悦ぶ」ことができた時の『その並外れた感動とエクスタシー』を感得して頂きたい。
そのためにも、何らの努力なしにその日を待ち続けることなく、『人間としての生』と言う悦びを確信させるもの、あなた自身にとって『ベスト・プラクティス(最適で理想の実践)』な統合的変容の物語を、その『内側から導き築き上げる力動(生得の力)』に是非とも手を届かせて頂きたい。
現代にマッチした『自身のためのITP』とは、全ての次元の自律的成熟を促進するだけでなく、自身の全てのレベルにおける、新しい潜在力と質と能力、そして行動力(原動力)を「産み出し」、「引き出す」ものである・・・。
まずは、『インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』(Integral Transformative Practice,ITPと略記)の現代の諸提案をいくつか簡潔に見て行く準備として、現在までの半世紀の間、僅かながらの人々を突き動かしながら、それでもなおも置き去りにされつつある『ガイスト・サイエンス(霊的瞑想科学)』の背景と足取りを、科学の視点から遡り観て頂きたい。
ちょうど私が誕生したころ(1967年)から現在(2014年)までの科学世界には、今こうして叙述するに至る、自身の運命をも大きく突き動かす文脈と背景が整然と歩調を合わせるがごとく存在し、時に対立しながらも、私の傍らで常に躍動し続けている。
この半世紀での出来事は、私の人生にとってだけでなく、時代を共有する人々にとっても非常に重要と言える『歴史的変革期(ターニングポイント)』であることは間違いないであろう。
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