第1章|メタ・パラダイム・ダイナミクス

 

 もとより「パラダイム」とは、単なるモノの見方や考え方、あるいは、限られた世界空間(知の領域)における価値観、思考様式、行動規範を意味するものではない。確かに、パラダイムの概念が「トーマス・クーン」によって科学哲学の枠組み(フレーム)として示され、その後は広義に共通の概念として、社会全般(政治・経済・文化・地域・組織など)において、ある世界観を形成する枠組みとして解釈されるようになった。

 今日でもよく耳にする、「パラダイム転換」や「ニュー・パラダイム」などの例えとして、コペルニクスの天動説から地動説への史実を取り上げ説明される。それは、的を得た言語の意味としては正解かもしれない。しかし、いまやその軽やかさ(事実はそんなに軽さはないが)は、理論やイデオロギーの転換として、また日々新たに生み出されるノウハウ(方法論)の変換にまで用いられる始末である。

 『パラダイム転換』とは、実証主義や経験主義に見出される「在るもの」の外面的な理論やイデオロギーやノウハウの転換・変換、あるいは、「在るべきもの」という心的哲学や思想を新たに得ることとは、全く「似て非なるもの」の象徴といってよい。つまり、「認識(思考)を変える」という、合理主義になぞられた排他的で、それでもなお生やさしい「マインド改善」などではなく、『存在と認識の変容(進化)』をともなう、「ラディカル(根本的)で革新的(新たな質と可能性の出現)」な『創造性(慈悲と叡智)のダイナミクス(原動力)』によって、「先行する全ての存在価値を包含」しながら、『自己超越(変容)による自己実現(進化)をもたらす実践(プラクティス)』そのものを意味している。

 そこには、『明確なヴィジョン』とともに、『ビック・ブルーム(全面的な開花)』の種子が存在する。現実の世界(リアリティ)の全方位(ホリスティック)に視点(パースペクティブ)が注がれた、如何なる領域や世界空間によっても「支配・疎外・還元」されることのない『進路指示』を新たに開示するものが存在する。それらは、一体としての『真実性(トゥルースフルネス)』、『充満性(フルネス)』、そして『原動力(ダイナミクス)』を与え、『パラダイム転換の基底』を成すものである。

 つまり、『パラダイム転換』をもたらし、「変容/進化/超越」の種子となる、『メタ・パラダイム』が存在するのである。・・・

 私たち現代人は日頃、物事を考察する際は常に「定義可能な概念を組み立てる」という習慣性に囚われている。前述のパラダイムについての叙述に対しては、『抽象的な概念』として受け止める人々が多いのではないだろうか。

 確かに「抽象的だ」とは、いい意味では使われない。しかし、具象が「カタチ(象)を具える」ことに対して、抽象は「カタチを描き出す」というエッセンスを描き出すのであって全く悪い意味ではない。パラダイムはそうした捉え方で言えば、『一を知って十を知る』ことでもあり、それは「理論的展開力」にも「創造力」にも発展していく。東洋的なセンスでいうところの、「南方熊楠の曼荼羅論」でいう『ホリスティック・アプローチ』であり、曼荼羅(マンダ・ラ)という抽象的絵図のマンダは「本質」とラの「所有するもの」のエッセンス(カタチ)を描き出した、『本質(一なるもの)であり全体(多様なるもの)』を意味している。それは全く『この世(現実の世界)』をそのコードとして具象したものであり、言語知を超えて、この世界のリアリティのすべてを写している。まずはそれをどのように『読み解き、解釈する』かが問題となる。つまり、表層のパラダイム(具象)に対して、その深層(あるいは真相)を読み解き、解釈するためのOS(オペレーション・システム)が、『メタ・パラダイム』である。

 パラダイムが「ソフトウェア」とするならば、私たちの身体とその行動は「ハードウェア」に値すると言える。『メタ・パラダイム』はそれらを結び合わせ、起動させる「OS(オペレーション・システム)」に相応するが、単なる機械的なモノでは毛頭ない。それは、パラダイムも身体・行動も同様に、いたって『温もりのある、統合的(一体的)生命体の働き』そのものである・・・

 

言い換えるならば、「言語知身体知(非言語知)」意識(光/微細/顕現)のエネルギー生命(闇/内在・原初的/未顕現)のエネルギー上昇(エロス/アセンディング)」下降(アガペー/ディセンディング)」エイジェンシー(自律性)」コミュニオン(関係性)」マクロコスモスミクロコスモスブラフマンアートマン一者多者人間形而上形而下源泉絶頂(乾)」(坤)」(男性)」(女性)」人為無為慈悲叡智時間空間覚醒眠り輪廻涅槃」など。

 

 メタ・パラダイムは、『対立分離の)』を取り持つ、『()=(の働き』であり、それらは、古代より伝統的に『(スピリット)』、『(ソウル)』、『(プラーナ)』、『』、『』と呼ばれてきたものと、ほぼ同義語であると私は考えている。「縦横無尽」、「変幻自在」、「悠悠自適」な働きが存在してこそ、人はあらゆる狭間の中で『人間としての自由な感性と創造性』を生かすべく、人生を豊かなものへと導くことを可能とする。

 また、洋の東西における、世界の見方、考え方、表現の仕方には、その前提としてそれぞれの基本的な歴史や文化の違いによる「発達と成長の相違」、すなわち、『メタ・パラダイムの形成』において、文化的・社会的な『コンテクストとリテラシー』の違いによるところが大きく関わっていると観ている。

 『コンテクスト』とは、文脈や背景、前後関係のことを指す。『リテラシー』とは、そもそも読み書きができる識語と言う意味であるが、そこから知識を持ち合わせていること、様々な分野に関して長けていると言う様に使われるようになった。

 あうんの呼吸が通用する文化を『ハイ・コンテクスト』と呼び、対照的にいちいち全ての背景から説明しないと気が済まない文化を『ロー・コンテクスト』と言う。

 「ハイ・コンテクスト」の社会では、仲間内などの人脈が極めて重視され、会社とプライベートの区別が弱く、あまり野暮なことを聞くと嫌われてしまい、根回し力、雰囲気を察する能力、空気を読む能力が求められる。(日本、中国、中東、フランス、イタリア、スペインなど)

 「ロー・コンテクスト」の社会では、言葉できちんと説明しないと気が済まず、会社とプライベートは明確に区別する。(北米、イギリス、スイス、ドイツ、北欧など)

 また、日本はハイ・コンテクストな文化だが、一方でマニュアル好きで、規則・許認可でがんじがらめの一面を持ち、みんなできちんと規則を定めないと気持ちが落ち着かない。中国も日本と同様にハイ・コンテクストな文化だが、マニュアルは嫌いで、政府やお役人を信じない、徹底的な個人主義を貫くことから、日本とは対照的である。

 この「コンテクスト」による文化や社会の相違から世界を観てみると、単に西洋と東洋とに世界を二分する考察に対して、多少修正を加えることになる。そして世界には、一見無関係に見えるものが裏では繋がっていることがあり、裏側・背後・根底も視野に入れて考察しなければ状況や関係は掴めない。そして、そこにも浅い深いがあり、浅いものは「対症療法」と呼ばれる西洋医学の対応に近い表現が当てはまる。深いものは東洋医学のように「ホリスティック」に対象をとらえる。

 裏(背後・根底)にあって表層に影響を与えている深く本質的な仕組み、私たちを活かしている世界の表層世界の背後にある「マクロな世界」から「ミクロな世界」へ至る、連続性や関連性、それらを貫通する働き、そして、日常の表層意識にひそかに影響を与え続ける「浅い意識」や、さらにもっと「深い意識」の存在など、日常の私たちの存在と認識の「土台になっている仕組み(ひな型)」を私は『コンテクスト』と呼んでいる。

 そして、浅いものから深いものまでの様々な「意識と世界」、「存在と認識」が、諸段階的(階層的)にその仕組み(ひな型)に気づき、読み解き、表現(成長・発達への実践)する能力を『コンテクスト・リテラシー』と呼んでいる。

 つまり、個人的・集合的な「コンテクスト」が『パラダイム』に相応し、「コンテクスト・リテラシー」は『メタ・パラダイム』に相応する。それらは『階層的な構造と機能』の関係である。

 そこには、人間として入手可能となる様々な『存在と認識のレベル』、つまり、『自己(主体)のレベル』と『対象(世界観・リアリティ)のレベル』が並立している。いわゆる、人間の世界観が生じてきたレベルと、その世界観が向けられているレベル、あるいは、主体が持っている意識(存在)のレベルと、その主体が信じている対象となるリアリティ(認識)のレベルの区別である。

 ここで注意すべきは、人々の「タイプ(水平的成長・発達)」を示す『パーソナリティー』を論じているのではなく、あくまでも「レベル(垂直的成長・発達)」を示す『アイデンティティー』に焦点を合わせているということである。簡単に言えば、タイプはその「人間の能力の幅(広い・狭い)」を表し、レベルは『人間の精神的発達の深さ(浅い・高い・低い)』を表している。

 通常はそのレベル(段階)に応じ、人が「存在」のいずれかの段階に中心化している時、その段階に特有の「認識」がある。感情、動機づけ、倫理と価値、生化学、神経系の活性度レベル、学習システム、信念システム、精神的な健康の概念(心身の病と、その対処への考え方)、生活スタイル、教育、経営など、『政治・経済・文化の理論や実践に関する概念や好み』はすべて、その段階に適合している。

 しかし、もはやある段階を超えて、成長・発達が高次な段階に移行する際、「存在」と「認識」には、それ相応の『乖離・対立・分離といった矛盾(パラドックス)』が生じることとなる。いわゆる『自己超越に伴う自己崩壊』の兆候が現われる。

 それは、単なる「機能的適応能力(パーソナリティー)」が引き起こす弊害とは違い、『自己の存在価値と意味(アイデンティティー)』に関わる「重大な障害(疎外感・孤独感・自己喪失感)」として、『知覚される脅威(恐怖)』となる。

 同じく、『自己退行に伴う自己崩壊』は、完全に外部に依存する「気(スピリット)の抜けた、放心状態」として、『知覚のない渇望』が繰り返される。

 いずれの状態も、ただちに通り過ぎなくてはならず、尚且つ、両者の状態そのものの「判断と対処法」を見誤った場合には、「継続的な病理」に悩まされることとなる。

 そこへのアプローチ、あるいはセラピーは外部に求めるものではない。あくまでも自分自身のマスターは、その本人であり、人間にとっての学びと呼ばれる『治癒(癒し)と成長(超越)』とは、常々、『正しい洞察』もしくは、『思わぬ破局』によって得られるものである。

 その時、もっとも明瞭で、信頼性があり、自身の本性を貫く源泉ともエネルギーの軸(幹)とも言えるものが『メタ・パラダイム』である。

 その力動とは、『大いなる自己』を達成に導き、『偉大なるコスモスとの交感(ユニバーサル・セックス)』をも可能とするもの、そして、『自由と充足』、『治癒と成長』を、その「内なるコスモスの聖性」によってもたらす働きを『メタ・パラダイム・ダイナミクス』と呼ぶ。
 


 
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