ス ピ リ チ ュ ア ル な 混 乱
1;スピリチュアルへの認識と弊害
現在、多くの宗教的伝統にかかわるスピリチュアル・リーダーやサイコスピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)の研究者や専門家、及び探究者(教師・指導者・実践者)たちの間では、人間は「統合的な成長(integral growth)」が重要だという共通の認識が芽生えている。
統合的な成長とは、人間のすべての次元(身体・本能・性・ハート・マインド・意識)を統合し、完全に身体化されたスピリチュアルな生へと発達してゆくプロセスを意味する。
こうした共通認識が生まれる背景には、偏った発達が多くの弊害を生み出すという自覚があるからだ。
そして、この分野を探究し育んでいくための重要な研究者たちが指摘するには、どんな伝統のスピリチュアルな指導者や教師でさえ、偏った発達を示している。
たとえば、認識とスピリチュアルな機能の面では大変すぐれていても、倫理的な面では因習的であったり、対人関係や感情面や性的行動の面では機能不全だったりすることがある。
発達がバランスを欠いていると、真剣に取り組んでいるスピリチュアルな努力の多くが、身体や性や感情のレベルで生じる葛藤や傷によって損なわれてしまう。
スピリチュアルな探求者はあまりにもしばし、自分の抱くスピリチュアルな理想と自分のなかの本能的、性的、感情的な欲求との間の緊張に悩まされる。そして、誠実な意識的な意図をもっていたとしても、無意識の衝動パターンや習癖に繰り返し陥ってしまうのである。
さらには、サイコスピリチュアルな発達が偏っている場合には、人間の開花だけでなく、スピリチュアルな認識力にもマイナスの影響を及ぼしかねないのである。
2;スピリチュアルな混乱への処方箋「ITPプログラム」の欠陥
スピリチュアルな混乱に対して、サイコスピリチュアルな修練だけでなく、身体的な実践を含む「インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス(統合的で変容的な実践/Integral Transformative Practice)以下ITPと略」の方法を提示するうえで、マイケル・マーフィーとケン・ウィルバーはすぐれた貢献をなしてきた。
しかし、彼らの示した処方箋でさえ、現代の特徴である「マインド中心の成長モデル」を脱してはいない。
手短に言えば、ITPプログラムは、人間のすべての次元の内の「精神的(メンタル)」な面が考案した統合訓練になってしまうのである。
つまり、実践者のマインドが、自分の身体、本能、性(セクシュアリティ)、感性(ハート)、そして意識を発達させるのに一番つごうのよいと思えるプラクティスや技法を一方的に決定してしまうのである。
結局のところ、現代の教育・文化が、ほとんど排他的とまで言えるほどに「合理的なマインド」と、その「認識機能の発達」にのみ焦点を合わせており、人間のその他の次元の成熟にはほとんど注意が向けられていない。
もっとはっきり言えば、人間の身体や本能、性、感情の原初的な世界の成熟を軽んじている。
その結果、私たちの文化における大部分の人たちが、大人になるころには、かなり成熟した精神的機能をもっているものの、それらの原初的世界はほとんど発達しないままになっているのである。
現代の極端な「認知中心主義(マインド中心の成長モデル)」では、身体、本能、性、ハートが自律的に成熟するための空間が作り出されていない状態に加え、これらの世界が健全に進化するためには、精神(メンタル)によって制御される必要があるとの深い思い込みをかえって永続させることが問題なのである。
そして、いちばん悲劇的なことに、身体や本能、性、感情の永続的なコントロールや抑制が、これらの「非言語的な世界」の単なる未発達というだけでなく、しばし傷つき歪んだものとなり、退行的傾向が最初に出くわすのが、葛藤や恐れや混乱の層である。
それが悪循環に陥ると、人間のこれらの次元の自律的な成熟がより困難となり、より精神や外部からの方向づけを求める気持ちが永続的に正当化されることとなり、好ましくない症状もさまざまに生じるのである。
そこには、「ハートのチャクラから上」だけをスピリチュアリティとみなす傾向があり、その背後には非常に多くの歴史的、文脈的要因がある。
3;スピリチュアルの再構築と「落とし穴(盲点)」
スピリチュアルな混乱に陥っている今、ここで必要とされている「統合的な成長」とは・・・もっとも生命的な潜在力(身体的、性的、生命的、感情的、美的、想像的、ビジョン的、直観的、観想的な知)に根ざすとともに、人間のすべての次元によって『共創造(co-create)』されるものであろう。
おそらくその可能性は、多くの宗教的伝統に対して今進められている見直しの作業、たとえば、「キリスト教にとってのクリエーション・スピリチュアル(マシュー・フォックス)」、「ユダヤ教の再生と解放のスピリチュアル(マイケル・ラーナー)」、「社会にかかわる仏教(ドナルド・ロスバーグ)」などともつながっている。
そして、それらの統合的なスピリチュアルは、偏った発達のもたらす緊張や矛盾から解放されるだけでなく、人間のすべての属性の成熟と統合に基礎を置こうとする「スピリチュアルの再構築」とも捉えられる。
しかしながら、それら伝統的宗教の見直しと現代のITPに代表されるマイケル・マーフィーやケン・ウィルバーらの諸提案には、潜在的に含まれた「落とし穴(盲点)」が影を落としている。
最近では、ケン・ウィルバーらの長年の研究と考察による「インテグラル・ライフ・プラクティス」の提案によって、いくらかの実践における改良等が見受けられるが、広く一般的に理解され、実践され、そして現実的な私たちの世界(個人の生活、社会、政治、経済、文化、自然)に対する『ラディカル(根本的)で革命的な文化的衝撃(全人的・地球規模的変革)』には至っていない(まだまだ時間がかかる様相)。
逆説的に、ウィルバーが強調するポストモダンにおける『フラットランド(平板な世界)化』は、ここに来て急激に進行している。
それどころか、人々の意識的な成長の中に顕在化する、アルテカ的(古代的)スピリチュアリティー現象、単極の中の単極であるアセッション(「上昇」の道)への過度な傾倒等、それらは真のスピリチュアルと人類進化(成長と変容)から急激に遠のき、もう一方の単極の中の単極であるディセッション(「下降」の道)の世界の中で、自己肥大的ナルシズムへと変貌を遂げている。
そして、ここ数十年の間に起こった「情報革命(デジタル化)」によって、全人類の繋がりと膨大な知識の共有化が巨大になればなるほどに、あらゆる事象(情報、人、モノ、こと、金銭、そしてスピリチュアル様な物事)は、絶対的市場主義のなかでバラバラに陳列され、売買の対象となり、いまや大量生産される単なる商品および生産物として、加工・流通・消費されたあげく、余剰で期限切れの商品は無駄がすぎる棚卸手法によって廃棄処分される。
いまやスピリチュアルも、「一時的な栄養ドリンク」か「24時間のコンビニの陳列商品」もしくは「ファーストフード」のごとく、安くて気楽で手っ取り早くレジで精算でき、売れ行きが悪ければいつの間にか姿がなくなる商品群の一部として、マーケティング手法により、次々に陳列棚に並べられては損益計算書の中で減価償却され最後は処分されている。
4;個人の健康から社会に至る「現代に見られる病理」
過去と現在の多くのスピリチュアルなヴィジョンでは、ある程度「乖離した知の産物」を抜け出していない。
たとえば、身体もこの世界も究極的には幻想(低次元で、不純で、スピリチュアルな解放にとって障害)であるといった、ゆがんだスピリチュアル・ヴィジョンは主として、微細な超越的意識に未成熟な感情や精神的優越観というかたちで、そのエネルギーに触れることから生じる。
それゆえ、身体的で生命的に内在する「スピリチュアルな生と源」には根ざさないまま漂うこととなり、自己感覚は身体も世界も究極的には幻想で欠陥のあるものだという、「心身の乖離した心理」に陥ってしまうのである。
まさしくこれが、「現代に見られる病理」であり、それは個人の健康から社会に至るまでのほぼ全体に対して、重大な問題を引き起こしている元凶となっている。
残念ながら、心身の統合にしっかり根ざした、統合されたスピリチュアルな生という考え方や、人間の生(精、性、聖)のなかでこの潜在的可能性を実現させるための効果的な実践を探究し、発達させようという試みは、現代の文化において多くは存在していない。
もっとはっきりと言えば、身体や本能、性、感情の原初的世界の成熟については、さしたる関心が真剣に向けられてはいない。
決定的にその道に繋がる「真理(スピリチュアル・バリュー)」から、「真実性と具象」へ至る不変的(普遍的)プロセスが、未だ「抽象の域」でジレンマを踏んでいる。
つまり、スピリチュアルな道の実践者のあいだで、真に統合的な成長が開花していくことは希であり、仮にあったとしても一瞬の出来事に終わる。
前章で指摘したように、「ハートのチャクラの上」だけをスピリチュアルとみなす傾向(全体性は語るものの)の背後には、非常に根深い多くの歴史的、文脈的な要因がある。
これらには、研究者や専門家のあいだにおいて、かなりの注意が払われていることは確認でき、実際、考慮されてはいる。
しかしながら、宗教的な伝統の文脈では、人間のある種の性質が、スピリチュアルな意味が他の性質よりも正しく健全であるとして、「平静さは激情にまさり」、「超越は感覚的な身体経験にまさり」、「貞操は性的放縦にまさる」といったことが広く自我に浸透している。
文化面での文脈のなかでは、人間の意識のさまざまな価値を出現させ、成熟させていくためには、人間の原初的な次元(身体、本能、性及び感情のいくつかの面)を抑制することが、ある時点では必要なことであった。なぜなら、まだ発生したばかりで比較的脆弱であった自己意識とその諸価値が、かつての本能的な衝動エネルギーが有している強力な存在の中に、ふたたび吸収されてしまうのを阻止する必要があると考えるようになってしまった。
そして何より、私たちは「性(セクシュアリティ)」がコントロールし難い本能と思っている。
そんな動物的本能をあからさまに語ることは、はしたないことだと過去も現在も抑制し、抑圧して避けてきた。
特に性欲は抑え難い欲求なのだから表に出さないよう抑え込んでおかなければならないと、性を得体のしれない怪物のように恐れてきた。
しかし、人間がそう思うのは、私たちの性がそうした性であり、現代の文明社会の中で、実は天使である性を悪魔に変化させてしまう社会的あるいは文化的、国家的(このなかには歴史的宗教による支配も含む)支配の背景が何千年と続いてきた中での、「原罪」「カルマ」「因習」として扱われてきたからである。
実は、そこにこそ、私たちの「原初的生命の世界(生命エネルギーの次元)」から「超越的な意識世界(意識エネルギーの次元)」までを全包括し、統合し、創発(創造的進化)を生み育てる、非二元的世界(禅の究極的な悟りから現代のITPが提言する世界観)をも抜き超えた「至高の悦=究極のエクスタシー(源なるエネルギーの次元)」が実在(リアリティ)している。
そして現在、その「源(一なるもの)」を故意的に葬り去ろうとする何千年もの苦悩が厳然と横たわり、いつしか宇宙や自然、そして生命や進化の神秘から果てしなく遠ざかる「流浪の生の旅」へと投げ出されてしまった。
5;一なる世界
今日まで、抑制され、抑圧され、禁じられてさえきた「人間の諸次元(身体、本能、性、ハート)」の中には、疎外されていた『TOU(徳)・・・この意味については今後述べる』に位置する、「女性と女性的価値と役割」、「官能的な欲求」、「親密な関係」、「性の多様性」などの次元を、真に統合的なスピリチュアルな生への中心的な性質として復帰させる必要がある。
そこでは、これらの世界が健全な働きを回復できるよう、男性的原理に位置する「精神(メンタル)」のみによって制御されるべきといった思い込みや、「マインド」重視の発達の原理や力動に従うことを一旦は手放し、人間の原初的次元がそれら自身の発達の原則や力動に基づいて癒され、成熟することができるような空間を作り出すことから始まる。
私たちの身体、本能、性、ハート(感情)が自律的に成熟することを許したとき、それらははじめてマインドと同じテーブルにつき、真に統合的な発達とスピリチュアルな生を共創造(co-create)へと向かわせる。
そして、身体的世界や生命世界が、スピリチュアルな生に招き入れられ、私たちのアイデンティティが「超越的意識」だけでなく、「内在的なスピリチュアル・エネルギー(性なる精)」にまで広がったとき、全き人間とこの世界は「ヒエロファニー(聖なるものの現われ=聖なる精)」となり、人間と宇宙のスピリチュアルな変容と進化が起きる最先端の時間と場所が、ほかならぬこの具体的な物理的現実(今、ここ)にあることに気づく(帰結する)のである。
スピリチュアル・ヴィジョンは、地球は人類の姿をその内なる光により「身体化された天国(一なる世界)」へと進化・変容(共創造)し、そこは宇宙の中にあって、身体化された愛をあらゆる具象(真なる信)で満たされた、独特の時空と化すだろう・・・。
その理想郷(一なる世界)へのプロセスは、ほかならぬ「老子書:TAO(タオの秘伝)」、及びいくつかの革新的なプラクティス(修行・実践)とルネサンス(文化的革命)をとおして、「原初的で内在的な生命エネルギー」の創造的な力(ダイナミクス)にふれ、徐々にそれを「超越的意識エネルギー」と結び合わせるための『ラディカル・プラクティス(本質的で根本的な実践)』によって懐胎する。
こうした両者の結びつきは、その個人の中で「エネルギーの軸」を生み出し、それは外部からの方向づけといった受動的な導きではなく、内部から方向づける能動的な「生命のダイナミズム」によって、ホリスティックに調和的にとりまとめるものである。
そして、個人の統合的な健康と身体を取り戻し、日常生活から社会活動の場において、独自の可能性と創造性をあますことなく表現しながら、万物との一体化のなかで変容と進化をうながすものである。