最 も 高 度 な 人 類 文 化
1;『国民経済』の現状と免れない先行き !!
現在、多くの方々が膨大な情報社会の海に溺れながらも、本質的には『真の情報』に飢えている。
歴史的な見解において、産業革命以後のここ30年間に起こった重要な事実とは、第三革命、つまり情報革命による社会基盤の変更が『富の再分配』を人間全体にはもたらされていないことが第一に挙げられる。
第二に、財やサービスは過剰ともいえるほどに需要を上回っており、従来のテクノロジー&情報革命によるハイテクノロジーの融合と発展は、合理化と効率化の世界をとうに到達・超越したがゆえに、この先、政治家主導による「雇用創出」、あるいは「職場創出」という『完全雇用政策』はとっくに破綻しており、幻想のなにものでもないことが挙げられる。
第三に、先進諸国が掲げる『福祉的国家』の確立はすでにどの国も同程度に破綻しており、今後ますます格差社会と貧富の差は決定的に加速することとなる中、十分で過剰な財やサービスを尻目に「私たちは、豊かさの中で餓死する」といった場面に遭遇する日が目の前に及んでいる。
上記の重要な三つの事実(全社会的実相)は、『人間全体の尊厳』を著しく後退させる大きな要因となるであろう !!
2;私たちは、『経験の牢獄』に囚われている !!
数千年にわたって、人間の大小の共同体の基本的な生活の糧は、『奴隷の労働』によって賄われ、その後徐々に奴隷ではない自由人への労働委託に対し、対価が支払われるようになっていった。その結果、人々は労働対価によって自身と家族を多少なりとも養えるようになった。そして、組織的な分業と生産の産業化にともなって、生産性は予想しえないほどに上昇した。
人間の手による労働は、その後も創意に富む人々によってますます大規模に節約されつつあり、もはや以前のように人間によって処理されねばならない仕事は多くはない。以前より、経済学者や社会学者の中でも先見の明のある人たちは、就労希望者全員に稼得労働を提供するという意味での『完全雇用』はもはや保証しえないことに注目している。
しかしこの事実は、少なくとも公的(政治・官僚)には認知されておらず、またこの事実が社会生活の形成にいかなる結果をもたらすかについての認識も欠けている。
私たち国民についても、労働能力を有する者すべてが完全に雇用されるということがいかに「近代工業国家における過去の現象」であるかという認識に立って、経験の牢獄に囚われることなく、今こそ『労働と所得』の関係がいかに新たに秩序づけられうるかを考慮しなければならない。
また、ここ数世紀以来、今日の私たちの世代ほど良い生活を送った世代はない。今日「過剰社会」という言葉が用いられるほど多くの財とサービスがもたらされたことはかつてなかった。
もう一つの問題は、私たちがこのことをどう考え、それに対してどう対処するかということである。最近の数十年間に欲望の肥大化が進展した。それゆえ、各個人にとっては次のことが問題になる。
すなわち、「収入と生活水準とをどのように調整すればよいのか?」ということである!
現在、悲観的な気分が生じているのは、まだまだ個人的レベルにおいてであるが、これは今後、もっと広範な社会的な風潮として現れるであろう !!
3;いまや私たちは、こう問わなければならない !!
しかしながら、表面的なことに関しては私はなんら心配していない。職場が失われるというのは、今日私たちが高い生産性を有していることの証明だからである。生産量が減少するのではなく、甚大な生産性向上があるからだ。
今や私たちは、こう問わなければならない!「いったい人間は何によっていきるのか?」「仕事によって生きるのか、それとも財貨によっていきるのか?」と!
人間としての生活の可能性を問題にするのであれば、私たちの生活は「過剰状態」にある。唯一の問題は、『人間が収入を得るにはどうしたらよいか』なのだ!
人々が自分の職場を失うことを嘆くとき、それはなによりも、「収入の道」が途絶えることを意味している。これは、『経済の第二の課題』である。
第一の課題は「人々に財とサービスを提供すること」であり、第二の課題が「人々の所得を確保すること」なのである。
つまり私たちは、「合理的世界観」を超越し、新たなパラダイムによる『超合理的世界観(もしくは、統合的世界観)』時代へシフトすることによって、私たちは仕事の中に別の目標を探す必要がある !!
「何の仕事をするのか、自分の能力をどこで発揮するのか」という問いは、「どれだけの収入が得られるのか」という事実と区別されねばならない。
労働と収入を関連付けることにこそ問題がある!私たちはこれをまだ政治的課題として克服できていないだけなのである !!
労働と収入を関連付けることをやめることは、政治と社会科学にとっては大きなチャレンジであろう !!
4;『超合理的(統合的)世界観』へのパラダイム転換 !!
~ 揺りかご から 墓場まで 「市民全員 への 所得保証(ベーシックインカム)構想 の 実現化」~
現在ますます多くの国民が貧困ゆえに社会生活から締め出されているとすれば、それはもはや「社会の些細な欠陥」などと呼べるものではない。それは欠陥なのではなく、まさにスキャンダルであり、とっくに耐用年限を過ぎた社会システムの『原罪』と言うべきものである。
今日の『全面的な他給自足社会』において、社会に全く関与せずに単独で自立した生活(自給自足)を送る可能性はいささかもない。
このような社会にあっては、個人の尊厳を守るだけではまったく不十分である!
国内の平和を維持することだけを考えてみても、私たちはさらに一歩進めて、社会に関与する可能性を各人の権利として憲法の中に本来は定めなければならない事項なのである。
そして、社会に関与する尊厳をもっともよく保証しえるのは、『無条件のベイシックインカム(所得保証)』であろう !!
人類はかつて「アダムとイブの原罪」によって労働へと運命づけられたとされている。産業化の過程を経て、いまやついに楽園(パラダイス)の裏口に続く帰路を発見したというのに、私たちは相変わらず額に汗して日々のパンを稼がねばならないと思い込んでいる。
すべての人々は皆、こう考えているといえるだろうか?
「人は働くことによってのみ、また何かの価値を生み出すことによってのみ、社会の中でなにがしかの価値があると認められ、それはまた自己価値をもうみだすのだ」と・・・。
私たちは、「主に収入を得るために働く」と考えている。たとえその仕事を好まざるとも。
しかし、まさにそれこそが問題なのである!すなわち、原罪が後世に及ぼした最後の余波は、『収入は稼得労働によってのみ得られる』という誤った考え、つまり『働かざる者、食うべからず』という原罪である。
現実をよく直視して頂きたい。今や私たちの経済は、労働と所得の分離を可能にする発展段階に達したという認識に立ってこそ、未来の展望が開かれると考えるべきなのである。
私たちはもうそろそろ、この状況を把握しなければならない。私たちは「パラダイス的な状態」にある。問題は、「社会が産出したものへのアクセスをすべての人々に可能にするにはどうしたらよいのか?」ということである!
私たちは過去五千年にわたって欠乏に悩ませれてきたが、この欠乏が遺伝子的に私たちに伝えられているかのようにみえる。私たちは人類の歴史上初めて過剰の中に生きているにもかかわらず、多くの人々はこの新たな現実を正しく理解できずにいる。
人間はいわば「経験の牢獄に囚われている」のである !!
現在の経済システムでは、所得と労働が強固に結び付けられているが、これはもはや時代に合わない。私たちは「労働に対する権利」を必要としない。
私たちは『所得に対する権利』を必要としている。つまり、『無条件のベーシックインカムに対する権利』が必要なのだ。お役所的な面倒は一切なしに、無条件で、申請手続きもなく・・・『揺りかごから墓場まで』・・・人々の手に現金が支給されねばならない !!
そのために私たちは、ラディカルに、革命的に考えることを学ぶ必要があるだろう !!
5;『もう一つの世界』と『人生の自由な設計者』
~ オルタナティブ・ワールド & フリー・ランサー ~
「社会的とは仕事を作り出すこと」・・・と、政治家たちはこのお題目のもとに相も変わらず、ともかく「大枠条件」さえ整えば、「不足している職場」もまた、魔法を使って呼び戻せるのだと私たちに信じ込ませようとしている。事実25年来、常に同じ一連の施策がなされ、賃金抑制、社会保険料分担金の引き下げ、減税、革新(イノベーション)と投資の促進、民営化と市場開放、貿易障壁の撤廃、資本取引の自由化などである。
それと並行して、儲けにならない事業や部門は、「職場を維持」するために、多額の助成金によって人為的に扶養されている。
つまり、このいわゆる『労働権のみの擁護』は、ひかえめに言っても、時代にそぐわない !!
社会福祉的、経済的、社会的、文化的(心的)な観点から見ておかしくなっている状況をふたたび安定させるためには、私たちはまったく別の権利が必要なのである。すなわち、私たちは「所得に対する権利」を必要としてしている。
正確に言えば、『無条件のベーシックインカム』が必要なのである !!
ベーシックインカムは「合理化」によって職場を失った労働者を扶助する単なる一手段ではない。それをはるかに凌駕するものでありうるし、そうでなければならない。
無条件のベーシックインカムの理念の背後にあるのは、社会的かつ社会福祉的な、わけても文化的な『パラダイム転換』そのものである !!
単に調節ねじを回して、その場を切り抜けるような小手先の手段ではもはやまったく追いつかない。私たちのシステムがその根本のところで、もはやうまくいっていないことをそのような操作によって隠すことはできない。事実、何か根本的なところを変える必要があることを誰もが承知している。
しかもそれは、私たちの社会を実際に束ねている『私たちの文化にもとづいた変革』がもとめられている !!
今日の「分業社会」にあっては、世界規模で、長期にわたって誰もが他者に依存している。それゆえ、私たちの文化には「共同連帯性があること、そしてこの共同連帯性の永続性に信頼を寄せること」、この二つが未来を保証しかつ形成するために決定的に重要なのである。私たちは皆これを文字どおり当てにしている。この考え方、この感覚が私たちを欺くことはない。
ところが、私たちはそこから誤った結論をいつも引き出してしまう!
ここでもう一度、まさに物質の供給という生存にかかわる問題に関して、私たちの生活が今日いかなる状況にあるかをちょっと思い浮かべてみれば、否応なく新しい考え方をしなければならないことが一目瞭然になる。
私たちの生活は百パーセント「他給自足」なのである!
つまり、私たちはみな自力で生き延びることを保障してくれるものを自分自身だけでは、もはや何一つ生産していない。「他給自足経済」では、わが身を養い、社会に関与し貢献しえるためには、実りをもたらす庭の代わりに収入が必要なのだ。
「他給自足社会」にあっては、この収入はどんなことがあっても保障されねばならない!現在の社会形態がそもそも機能し得るためには、国民にはもはや他の選択肢はない !!
社会参加をまず可能にするこの収入は、国民1人一人の「基本権」でなければならず、それゆえ、この収入は絶対に無条件で保障されねばならない。私たちは共同体として、すなわち国家の主権者として、私たちの庇護下に置こうとするすべての人間に無条件でこの収入が得られる権利を認めなければならない。
そうした『もう一つの世界』、ベーシックインカム社会の実現はいわば私たちの社会生活におけるのベースキャンプ(拠り所)となるであろう。
国民はそこから出発して、彼ら自身の意志と責任で活動を開始することができる。こうして基本的に国民は生存権が保障されるのであれば、場合によってはしばらくの間このベースキャンプに戻ってくることもできるわけである。
これだけでも、多くの人々の気持ちに、また旅立つ際の心的状況に大きな「安心感と希望」をもたらすはずである。
さらに重大なのは、国家が日常生活から手を引くことによって、もはや些事に干渉することはなく、国民の要求が本当に正当化されうるものかどうか詮索されることもなく、無数のお役人を抱えた国家のイメージは国民生活から消えてゆくことになるであろう。
そうなれば、国民は彼ら自身の能力と志向にしたがって『人生の自由な設計者(フリー・ランサー)』としての人生を自分自身の手に取り戻すことができる !!
また原則的にみて、ベーシックインカムを手にする国民は自分自身のテーマを追求する「企業家(起業家)」になるのだと言えるかもしれない !!
国民は歴史的に見てもまったく新しい『もう一つの世界(オルタナティブワールド)』の誕生により、自己発展のための『自由裁量余地(フリーランス)』を手にするであろう !!
6;統合的地球社会(インテグラル・グローバルソサエティー)のグランドデザイン
私たちの社会は、これからはもう従来と同じように進むことはできないのだということを是非理解して頂きたい。私たちは現在、人類進化の歴史上において大変重要な分岐点(ターニングポイント)にさしかかっている。
すなわち、私たちは古典的な労働が消滅しつつある社会に向かおうとしている !!
ノーベル賞経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンは、数年のうちに技術上の進歩によって労働は20パーセントしか残らないと考えてる。社会学者のベックは、依然として人間は「余計」になるばかりだと語ってもいる。
しかし、余計な人間など誰一人としていない!誰もが重要で、価値がある !!
問題はなんといっても、人間が古典的な労働から抜け落ちたときどうするのかということである。これは、現代の私たちに向けられた「文化的問題」なのだ。
私たちは全ての人々に、信念、愛、希望を与えなければならず、もしそれができなければ、それは人間が無気力な存在に転落し、単なる二本足の動物になってしまう !!
私たちは事実上、とっくにそこで生活している「パラダイス」のような状況を現実のものとして受け入れて、これを利用することに対して抱く恐れがあるならば、それはおそらく生まれつきのものか、受け継いだものの考え方にある。
すべての財とサービスが常に供給可能状態であること、全員に行き渡る十分な物資が存在すること、すなわち、食べるものはもちろん、衣服、自動車、テレビ、コンピューターなどが十分にあること、わけても十分な貨幣があることを私たちはまだ把握できないか、あるいは理解しようとしないだけである。つまり、進歩と合理化は私たちにかつてない規模の過剰をもたらした。
しかし現実には、これらの財を全員に行き渡らせる代わりに、「財へのアクセス」には隘路(物事を進める上で妨げとなるものや条件、支障、難点)が組み込まれている !!
ベーシックインカムは、国民全員を億万長者にすることはないが、人間にふさわしい生活と社会参加を可能にするであろう。もちろん、ベーシックインカムによって各人が金銭的に大飛躍を遂げることはないし、まして贅沢な生活を送るなどと言うことはまだまだ論外である。
しかしそれでも、ワインボトルのように狭い隘路は、ベーシックインカムという余地が与えられることによって、なによりも気持ちの面で非常に広げられるであろう。所得が保証されることは、国民をのっぴきならなぬ生存不安から解放するはずである。
それによって、国民はまず彼らのために何か意義深いことを、そして社会にとって何か有用なことを行うのに必要な自由裁量の余地を手に入れることとなる !!
ふつう被雇用者は誰でも自分の給与や賃金を不当だと感じるものである。なぜなら、自分の所得を上司の所得と比較したり、それどころかトップマネージャーの所得と比較するからだ。あるいは、単に勤務先の同僚と比較するだけかもしれない。
しかし、ベーシックインカムが導入されれば、この悩みは薄れるか、あるいは全く消える。各人が個人的な職業上の目標にどれだけ近づけるかは、自己責任の問題になる。
ベーシックインカムのない労働者はつねに何かと引き換えに報酬を得るが、その際つねに不公平の感情が残る。なぜならば、彼らは他の者が自分以上の報酬を得ているのではないかという猜疑心に駆られるからである。
更にこれに加え、普通の賃金はつねに過去の清算の結果であること、これに対してベーシックインカムは未来志向のモデルである。所得は未来に対する委託であるべきであって、過ぎ去ったことの清算であってはならない。
ベーシックインカムは、私たちに未来について考えることを可能にし、実際の未来を可能にし、創造性を発揮させるための余地を開くものである !!
また、ベーシックインカムによって、実に意義深い可能性が生まれる。つまり、人間は、「働かねばならないから働く」のではもはやなく、『働きたいから働く』ようになる。
これは、社会における「労働・福祉環境」をラディカルに一新することとなり得る !!
このように、現在までの「進歩と合理的世界観」から、人類全体のラディカルで革命的な『進化と統合的世界観』への移行という、創造的で全体を包括する企ては、本質的には小規模に先取りして実施することはできないであろう。実際的に、全体が問題なのだから、私たちは小規模に行動する必要はないのである。
第一に大切なことは、社会全体の思考遮断を克服しなければならない !!
私たちにとっての共通で窮極の目標は明白である!それは、不安のない社会であり、それこそが私たちの『進路を示す北極星』なのである !!
7;トランスフォーマティブ・プラクティス〔垂直的成長の実践〕
~ Transformation Practice /『進化(変容)=自己超越による自己実現』への 衝動 ~
私たち人間の「失望」「不満」、そして「失敗」・・・
その大半は、複雑な問題や状況に対して、単純で唯一の解決方法を見つけようとする馬鹿げた目標設定に端を発している。あるいは、しっかりとしたベースができていないのに、いきなりテクニックで事を成し遂げようとする安易な発想には必ず無理・難題が生じる。
しかしその中には時として、それ相応かそれ以上の『成長機会(利益)の種子』が含まれている・・・
つまり、人間はいつでも二つの理由から学ぶ・・・『洞察によって、あるいは破局(カタストロフ)によって 』である。
私たちは常に変化する不確実で無常とも思える事象の中に、永遠で不変の原理・原則を見出そうと試みたものの、今や知の領域(真・善・美/自然・文化・自己/科学・倫理・芸術)は多岐に渡り細分化(還元主義)したがゆえに、かえって本質から遠ざかり複雑さが増すばかりである。
そこでは常に量の問題が横たわっている。尚且つ、特定の分野から見出された真理や理論を他の分野(知の領域)に無理やり当てはめようとする行為によってカテゴリーエラーを招き、かえって混乱と衝突を引き起こす原因を招いているのである。
現代社会、とりわけ経済活動においては、ひとつの成功事例をもってその理論、ノウハウがあたかも唯一の方法(成功手段)であると誇張する風潮が蔓延化し、その情報は演出とマーケティングの巧みな技術によって、本来の価値(適応範囲と限界)を超え市場に陳列(供給)されている。
これらは即席で手っ取り早く、安価で取っ付きやすい、まるで『情報のファーストフード現象』と言える !!
ここでの私たちの『社会生活に対する重要なテーマ』とは、絵空言のユートピア的ビジョンを提出するのではなく、もっぱら現実の問題を解決するための原則とその手段と目的(展望)を統合的に示唆し、なおかつ『統合的な生活実践(インテグラル・ライフ・プラクティス)』を可能にすることにあるだろう !!
また、私たちの『文化的生活の向上』においては、社会の構成員である国民一人ひとりの「足元(今ここ)・目先(明日後日)・その先(未来)」の経済活動と人生活動を一体的に豊かにするための物事を未来志向(常に未来に向けて)で考えなければならない。
未来を先取りし、またオープンな諸問題に対する回答を今日のうちに見出さねばならない。そして、その時期が到来すれば、考え抜かれた構想を直ちに実施に移すことが最重要となる !!
今、私たちに求められている能力とは、「情報・知識・技術の積み上げと処理能力」では決してない。それらはこれからも必要な要素であり、手段を講じるためのパーツ(道具)には間違いない。ただし、それら膨大な物事の詳細は、いまや誰もが一瞬にグローバルに獲得が可能なものなのである。
つまり、インターネット技術によるデジタルハイウェイはすでに構築済みであり、世界の情報・知識・技術はオープンソースとして誰もが利用可能な状態なのである !!
これらの『水平的成長(トランスレーション)/知識の量的増大に伴う成長』は今後も引き続き進行するであろう。特に現在、このステージ・レベル・段階に囚われ、埋没しながらあらゆる活動を展開している人たちが80~90パーセントを占めている。
この事象の領域、あるいは象限(クワドラント)においては、「野心と欲望」「価値とレバレッジ」等の価値観と『エージェンシー(独立性)とコミュニオン(関係性)の力学』が先行している。
「金銭という客観的な基準」に基づいてすべてが考慮・決定される『フラットランド(平板な世界)』である。
そこでは、『英雄的自己肥大化』が他の領域、特に主観・間主観的領域である「美(自己・芸術)」と「善(倫理・道徳・文化)」を支配した結果として生み出されている『紛れもない病理』なのである。本質的には、それは「質」が駆逐され、「量」が席巻する状態と言える !!
そこでは、「見かけ上、絶大に個人を称え、自由を賛美し、富を歓迎」する。そこでは、「堂々と売名行為による個人価値の増大化」を促し、「成功体験者の声のみが真実である」と大衆に訴える。
そこでは、「個人の独自性や多様性の解放」を標榜しながら、窮極的には「一者による多者の支配と全体主義」を目論む。もし、ナチスが今の情報技術を手にしていたならば、泣いて喜んだことであろう !!
人間とは、良きにつけ悪しきにつけ、誰によってインスピレーションが吹き込まれ、誰がモチベーションを高めたのか、思考を精緻化し、考えを批判してくれたかさえ自覚がないことがある !!
今日、私たちに求められている能力とは、「インフォメーション(情報の発信と獲得・処理能力)」と「トランスレーション(水平的成長/知識の量的増大に伴う成長)」を統合的に活用し、「インスピレーション(直観能力や洞察)」と「イマジネーション(創造力や感性)」を働かせ、『トランスフォーメーション(垂直の成長 / 知恵の質的上昇と深化に伴う成長)』に至る能力にあると断言できる !!
この事実についての認識は潜在的な段階であり、今まだ世界人口の約1%にも満たない人々の深層的意識から芽生えたばかりのレベルでもある !!
彼らは『Transformation Practice』、つまり、進化(変容)=自己超越による自己実現への衝動を全身で受け止め、革新的にそして着実に、『統合的地球社会(インテグラル・グローバルソサエティー)』を到来させるための実践に着手している !!
8;今日、生まれようとしている『最も高度な自由と充足(フルネス)』
私たちにとっての「自由」とは一体どのようなものだろうか?
それは物質的、あるいは時間的、金銭的な自由だろうか?
それとも精神的なものを含むすべてを手にすることだろうか?
また、それらを手にすることは現在、困難なことだろうか?
現実的にその手段や方法を得ることや学ぶ機会は、今や無数に存在している。ただし、全ての人々が同程度に達成できるかどうかは疑う余地はある。しかし、ある一定の自由は既に存在し、その機会に対する自由と平等は随分と保障されているのが現状である。
今日、表面的な自由の獲得はあまり心配ないと言える。しかしながら、「本質的な自由」についてはあまり議論がなされていない。本質的な自由を手にすることは「本質的な富」を得るに等しい。もちろん、富にも表面的な富と「本質的な富」がある。
好き勝手にできる自由と富というものには、必ず限りが付きまとう。つまり、個的で私的で幅の狭い「表面的で有限的な利己的自由と富」である。
一方、『本質的な自由と富』とは、自分の意志にもとづいて「ノー」といえる『自由』があり、多く広やかに慈しみを与えられる「徳」の高い豊かな『富』のことである。
それらは、自分の成すべきことが遂行できる『自由』であり、たとえ今ここで金品をすべて失ったとしても、その後も直ちに再現・再生されるものが『富』なのである !!
私たちにとって、そのような「自由と富」は永遠の幻であるとするならば、現在の世界はいずれにせよ表面的で断片化された、低い文化性を証明することとなる。私たちは「現実(リアリティ)」というと、たった一つしかないように考えている。
しかし実際は、「現実(リアリティ)」というのは、私たちの外側に「客観的」に転がっているものではなく、私たちの意識と環境との『共同創造』によってなるものなのである !!
それでは、私たちの「究極の関心」「究極の実在(リアリティ)」「究極の基底(グラウンド)」とはどのようなものなのかを示そう。
表面的世界(これを第一層と呼ぶ)においては、自分(たち)の価値観だけが正しく、ほかの価値観は間違っていると考える。本質的世界(これを第二層と呼ぶ)においては、多くの他の価値観を認め、それを統合できるようになる。そして、第二層においては、疎外(切り離し)から全体的で統合的な意味と価値観への跳躍が起こるのである。
現在の個人の世界観は、「第一層」を通過し、断片化、疎外、意味や価値の喪失という『負の側面』を克服して、「第二層」、つまり『統合(インテグラル)』に向かうことが可能な状態なのである !!
今日、文化の様々な側面でこうした方向が見え始めており、断片化と疎外と冷笑に満ちた表面的世界はその力を失い始めている !!
最後に、「身近なもの(ごく最近の時間・空間的な事象)を鋭い輪郭でとらえるよりも、広範なものを把握することによって、変動するもの(動いているもの=進化)を把握できる」ことを是非とも認識して頂きたい。そして、私たちに共通の『最も高度な自由と充足(フルネス)』なる世界は、いかにして創造されるべきかを全心身で確認して頂きたい。
第一に、偉大なる『進化の連鎖』のうち、低次のレベルから物質、感覚、知覚、衝動、感情、表象(シンボル)、概念などが、およそ14億年近くの年月をかけて進化してきたものなのである。
物質はビックバーンから、知覚は最初の生物から、衝動は最初の爬虫類から、感情は最初の哺乳類から、表象(シンボル)は最初の霊長類から、そして概念は最初の人類から発生した。
意識レベル(存在と認識のレベル)から言えば、人間は、始原・古代(アルカイック)の類人猿から進化して、呪術的文化、権力・部族時代を経て、神話的・メンバーシップ社会へと移行し、合理性(近代)、多元性(現代)に至り、統合性、超統合性と、進化の段階は過去・現在・未来へと今も連続的に進行しているのである !!
ここでの認識は、「解釈的知識」は「経験的知識」とまったく同様に重要であること、現在が、自己、自民族・集団、世界、そしてコスモスへとアイデンティティを拡大していく段階であること、それは、死から不死、拘束から解放へ、苦悩から充足へ、幻想から覚醒へ、罪から救済へ、無知から知へ、すべては、私たちの現前する意識の中で何の努力も無しに起こっていると思われる事象(スピリット)に対し、十全に、そして統合的に『アクセス』することである !!
第二に、先進諸国における現代社会の経済上の物質と生活レベル、つまり「財とサービス」の段階(レベル)は、居住環境・空間的移動・コミュニケーション手段・娯楽・日常必需品・衣服・さらに枚挙にいとまがないほどの便利な道具類、これらのすべてが示すように、二千年を超える人類の歴史的経験である「欠乏」と「厳しい生活」は、ほんの一世代から二世代を経る間に、たいていは過去25年から30年の間にほとんど完全に姿を消した。
私たちが実際に、何の欠乏も知らないということは、もちろんあらゆる欲求がすでに満たされていることを意味するわけではない。私たちの欲求の大部分を占めるのは、さいわいなことに、そもそも物質的なものではない。つまり、財を消費することによって満たしえるようなものでは全くないのである。
私たちの理念的な、美的な、芸術的な、精神的な、知的な、あるいは霊的(スピリチュアル)な欲求の多くは、商業主義に基づく商品やサービスによって完全に置き換えられるものではないからである !!
私の予測する今後の経済・市場の動向、つまり一般的表現による「次の大ブーム」は新しいテクノロジーでもなければ、新しい発明でもなく、そもそももはやモノではなく、まず間違いなく『人間そのもの』であり、健康、息災、食品、知識、教養、文化、広い意味での精神性・・・これらの全分野に共通する認識は『人間の、人間に対する配慮』である !!
第三に、最大に重要な創造(大仕事)は、「文化的な衝撃(インパクト)による第三文化創造」、つまり『ベーシックインカム構想』である。
現段階において、私はこのような大きな企てに対する、政治家の力に多くを期待していない。彼らは基本的に風見鶏であって、独創的な考えをもっているわけではないからである。
しかし、ベーシックインカム実現のためには、多くの運動を通じて(選挙もその一環)政治家を突き動かして行くしかないことも事実である!
ベーシックインカム構想を特定のイデオロギーに基づいて肯定あるいは否定することに意味はない。ベーシックインカム構想は一見社会主義的のように思われるが、むしろ自由主義的な発想に基づいている。
その意味で、ベーシックインカムが導入された後には、国民各自がどのような人生を選択するかはすべて個人的な自己責任の問題になるであろう!
ベーシックインカムはむろん万能薬ではない。政治的問題は依然として政治問題として残される。しかし、現時点における財政政策(主に社会福祉政策)としてのベーシックインカムには限りない利点がもたらされる。
第一に、「貧困対策(餓死者のいない社会)」として、また一度限りの「定額給付金」や期間限定の公共事業とは異なる永続的な「景気対策」としても有効に働く。
さらに大きな問題である「年金問題」の解決策として、そして「過疎化対策」や「少子化対策」にも大いに期待できる。
さらに視点を変えれば、ベーシックインカムは貧困と飢餓について新たな問題を提起した、経済学者アマルティア・センの唱導する「潜在能力」や「人間的発展」に通じるところがうかがえる!
ベーシックインカムが導入されれば、単に所得を得るための職場ではなく、やりがいのある仕事を見つけることが可能となり、ある者は「フリーランサー」としての道(起業や自営)の機会が容易になるであろう。
その逆に企業経営者としての立場から、雇用者側の利点を指摘するならば、ベーシックインカムは資本主義が健全に生き延びる唯一の方策を与えるかもしれない。
そして何よりも、「文化的労働」である高齢化社会における「介護福祉労働」や「家庭内労働」、「養育と育成」あるいは「社会貢献活動」や「ボランティア活動」など、低賃金や無給労働などの分野への正当な賃金の支払いが可能となり、重労働や雇用確保の難しい産業分野における適切な賃金設定により、不当な雇用や現在の社会問題となっている「ブラック企業」などの是正などにも機能しうることが予想できる !!
最後に、ベーシックインカムそのものが最終的な到達目標ではけしてない。読者の皆様には、常識的な発想、当たり前と思われていること(働いて所得を得て、その所得で生活を維持すること)をひとまずリセットして、ベーシックインカム構想が意味すること、現実にしようとしていることを自由な精神で受け止めて頂き、これを基盤とした新たな人間社会・文化の変容が、これまでの人類の歴史と進化を超越し、『最も高度な自由と充足(フルネス)』が希求されることを願う限りである !!