ユ ニ バ ー サ ル・セ ッ ク ス

は じ め に

 現代の情報社会、あるいは目覚ましいグローバリゼーションが進展する今日、もはや私たちは世界中の知識や技術をいとも簡単に見渡すことが可能となった。そして、それらは全世界とのコミュニケーションをも可能にし、多様性に触れる機会を発展させるに至っている。つまり、『知識の獲得そのものがグローバル』なのである。

果たして、広大で膨大な情報化は私たちに幸福をもたらし、世界を一つに結び付けることを可能とするだろうか? 世界的に平和と正義に基づく秩序ある地球村を建設することに貢献するであろうか? 私たちの足元、目先、その先の未来に対し、「自由と充足」、「治癒と成長」を約束できるだろうか? 天と地とあらゆる生命を穢すことなく、「創造的進化の源泉」となりうるだろうか? そして何より「完全に一体化されたスピリットの出現」、「非二元的(ノンデュアル)な宇宙的存在」としてこのガイア(地球生命体)を真の楽園と位置付ける星に変容させる鍵となりうるだろうか?』

 過去の歴史を振り返るとき、如何なる科学・テクノロジーであれ、思想・哲学であれ、宗教・信仰であれ、その信条と真理に基づくうえで招いた『決定的な失敗』を見逃すわけにはいかない。つまり、『文明の滅亡という史実』である。

 当時において一部の地域、国家、文明社会が衰退・滅亡した範囲を考えたならば、それはいたって限定的で特定の地理的規模での出来事であった。しかし、今世紀の『グローバル世界における失敗』は、間違いなくこれまでの歴史上、かつて類を見ないほどの『大規模な惨事』となることが予想できよう。

 今日ほど、複雑で多様・重層的とも言える世界を経験した人類は存在しない。そして今まさに、かつてない『時のスピード』にて、私たちは未知なる領域に突き進んでいる。その岐路の上を無意識で歩んでいては、非常に危険な状態を招く恐れがあることを『知覚する時期』にきている。

 人々の中には、現在の世界に『真っ暗な予感』を抱く声も多く、その原因が政治的・経済的支配者層における「闇の勢力」の存在をほのめかし、それらが世界をコントロールしているといった情報をまことしやかに流布する者さえいる。

 しかし、実際には、そのような『情報の氾濫』に潜む危険や病理、いたるところで真実と善と美を脅かしているのは闇の勢力ではなく、『表層の浅薄な力』である。

 今日、そのような表層の浅薄な力は皮肉にも、自らを深遠なものであると宣言している。いたるところにある勝ち誇った恐れを知らない浅薄さが、現代の危機であり脅威なのだが、にもかかわらず、いたるところでそれらは、「私たちを救うものだ」と宣言している。

 情報とは、常にその個人(主体)の対象となる客体として、「発見するもの」でも、「発明するもの」でなく、『発現』するものである。それらは、その個人の『情に報いる世界観価値観の実態』を写し出す鏡であり、現前に存在する自分そのものの『精神の発現』である。そして、「表層の浅薄な力」とは、外部が与える問題ではなく、まさにその逆であり、『本当の問題』が私たち個人(主体)側の意識や認識にある。

 「本当の問題」から目を背けることなく、その現実に分け入る勇気があるならば、『闇と深淵の中』にこそ、『常に私たちを癒す真実』が潜んでいる。

 その視線の先に存在する、あらゆる『流動的事象絶えざる変化の流れ)』を固定的に観察して理論を形成すると如何に聡明な人々でも完全に失敗する。もっともそこでは、まったく異なったカタチで静止したものを観察しており、いたって部分的な把握に留まってしまう。「変動するもの」を直接考察して把握しようとするのは「正しい方法」ではなく、身近なものを鋭い輪郭でとらえるよりも、広範なものを把握することによって変動するものを把握することが必要となる。有意義な方法は、「変動するもの」をその『根底に存在するもの』との関連において考察することである。

 そう言った考察において、現代の情報社会とグローバリゼーションが人類に果たすべき役割は重大ではあるが、当の人類自身はいまだ「未熟な地点」にあり、『真なる世界の入口』に立ったばかりである。つまり、人類の現状は、ことごとく渾沌(混沌)とした状態に置かれており、自らが生み出し、コントロールするはずの科学・技術とそのシステムは、間違いなく人間の生理的なものと十全に知覚を得た意識自体を追い越すかたちで進展している。

 これまでの『失敗の歴史(成功の歴史でなく)』に学ぶならば、革新的な発明やテクノロジー開発への動機がたとえ善意から創発されたものであっても、「平和的利用(道具・手段)」のみに結実するとは限られていない。そして、その創発(発想)を可能とする発明者らの意識レベルと利用者とのそれらの間隙(ギャップ)は、時として『重大な惨劇』を招いてきたことも歴史上の事実である。要するに、情報と知識の獲得が自由に拡大することは、それを手にする人間の『意識と発達のレベル』、あるいは『倫理と人格の成熟度』に関係なく世界に提供(供給)されるとともに、その利用者の意図(善悪)に関わらず、いとも簡単に入手・活用されうるということである。その開けて自由な機会の増大化は、そこに想定を上回る『危機的な機会』も同時に増大させるという、『重要な盲点』をも生み出すのである。

 戦後から70年、東西冷戦の終結から四半世紀を向かえる今日、国家レベルの武力による大きな対立と緊張を避けつつも、新たな問題として「未解決の民族紛争」「独裁体制国家」「台頭する途上国」「テロリスト集団」など、多様な危機的状況は世界的に増えつつある。その傾向は、国内外の社会情勢から各個人の生活環境、自己の心身的状態までに及び、『対立と分離状態』が顕著な様相として全体と部分の双方に観られる。その源泉とは、人間の心理に潜む『深層的な脅威恐怖)』に他ならない。

 そして、現実の世界における『表層的な脅威恐怖)』は、未成熟な集団や個人に至る者までが、世界の知識と技術を見渡せ、そして手にすることを、近年の高度に発展した「グローバルな情報化」は可能としてしまったことであろう。そしてここには、決して見逃してはならない歴史的な「真実」、あるいは「盲点」が、その根底と背後に存在する。つまり、目に見えるカタチでの対立(戦争)は、目に見えない対立と緊張関係といった「情報戦」と言う名のカタチに姿を変え、国家間での対立とその監視の目は、為政者のみに向けられるどころか、世界の一般国民にまで及んでいる。

 もともとインターネット(情報技術)の開発そのものが軍事的利用を目的に発展し、「戦争の道具」ないし「秘密主義的」に情報収集と管理・コントロールに力点が置かれたテクノロジーである。そもそもの目的を遂行するために開発を進められた手段(道具)が、その矛先を変えて世界を巻き込む形でオープンに市場に開放され、一般に利用を許されたその背景と意図を疑われても仕方ないことであろう。

 ただし、秘密がかかわる以上、その情報の内容いかんによっては強力な武器ともなり、戦争の引き金にも成りかねない。あらゆる極秘情報はコンピューターシステムによりデジタルに保存・管理され、グローバルに張り巡らされた情報ハイウェイのどこかに存在する。その在りかを特定することはいまや容易ではなかろうか。後は情報に係わる『人間自体の倫理』に委ねられているとも言えるであろう。

 皮肉なことに、科学・技術の発展と戦争との関係は決して驚くべきことではない。過去何千年もの間、科学・技術や文明の発展は戦争と共に歩んできたのも事実である。多額の投資がその科学・技術と開発者に注がれ、現在の社会・経済、そして学術の高度な文化・文明を人類は築いてきたのである。

 いつの時代においても、あらゆる事象に対して、『価値と限界』、『真実と盲点』を見極めることが賢明であり、望まれる行為であるように、現在は特に重要な命題であることに疑いはない。

 また、『目的戦略と手段戦術)』を取り違えた際の『盲目的な行為過信)』ほど、浅薄さを露呈するものはない。それらの具体的な事例を挙げれば限がないほど、過去から今現在に至る人類の歴史上には、数多く存在している。

 如何なる成功であれ失敗であれ、それらは結果としての産物である。そして、大半の者がその結果にのみ支配される。が、失敗の場合に観られる修正行為には、その結果を変えることに集中するあまり、原因を変えることを怠ってしまう。とは言え、『因果律原因と結果)』が全てではなく、たとえ結果の失敗が、その「当初の構想」までを否定する証明にはなりえないのも事実である。

 いずれにせよ、そこに必ず「価値と限界」、「真実と盲点」という『事象の背後に死角』が潜んでいる。しかし、そこにはそれ相応の『創造性を宿した未顕現の秩序と可能性』が潜んでいる。

 今日における私たちの課題は、歴史や文化の背後に目を向けつつ、『根底に存在するもの』との関連において物事を考察し、表層的な目に映る事象(浅薄な力)にばかり集中力を働かせるのではなく、深層的・根本的な事象に注意力を働かせることが何より求められている。言い換えれば、グローバルな世界の表層(文化・知識・技術・情勢など)を見渡すことは誰もが可能となった今日、それは特別な人間の能力に値するものではなくなった。その代わりに深層的な事象(根底を流れる文脈・意識のレベル・道徳的成熟度など)を見通す(見極める)能力が必須となろう。

 それらは、個人や集団の「パーソナリティー」と「アイデンティティー」の両面を見据えた能力、つまり、『水平的な成長・発達の幅トランスレーション)』と『垂直的な成長・発達の深さトランスフォーメーション)』の相補的な能力を備え、その視線により世界を観察し、そして多様な世界に反応するといった、『包括的な理解解釈)』と『統合的な実践』の相互的な展開を継続する能力と呼ぶべきものである。その「ヴィジョン」は、『多様性の中の統一性の実現化』を示しており、人類進化の歴史上においては『最も高度な心身の変容を世界的共創造によって目指す、大いなる試み』と言えよう。

 今まさに、万物の霊長である人類は、かつてない進化への挑戦、『自己超越による自己実現』を目指すための『新たな未来地図と羅針盤コンパス)』を手にする必要がある。それらは、『ラディカルで革新的なプラクティス』、『包括的ホリスティック/全方位的で統合的な実践インテグラル・アプローチ)』、『全人的なメタ・パラダイムの変容』と呼ばれるものである。

 『共創造的進化の全貌コード・レジーム・カノン・ループ・パターン・サイクル)』を解き明かす本著書を通し、全人類が『統合的な成長ユニバーサル・セックス=大道)』へと開花せんことを心より願っている。

第1章|メタ・パラダイム・ダイナミクス

 もとより「パラダイム」とは、単なるモノの見方や考え方、あるいは、限られた世界空間(知の領域)における価値観、思考様式、行動規範を意味するものではない。確かに、パラダイムの概念が「トーマス・クーン」によって科学哲学の枠組み(フレーム)として示され、その後は広義に共通の概念として、社会全般(政治・経済・文化・地域・組織など)において、ある世界観を形成する枠組みとして解釈されるようになった。

 今日でもよく耳にする、「パラダイム転換」や「ニュー・パラダイム」などの例えとして、コペルニクスの天動説から地動説への史実を取り上げ説明される。それは、的を得た言語の意味としては正解かもしれない。しかし、いまやその軽やかさ(事実はそんなに軽さはないが)は、理論やイデオロギーの転換として、また日々新たに生み出されるノウハウ(方法論)の変換にまで用いられる始末である。

 『パラダイム転換』とは、実証主義や経験主義に見出される「在るもの」の外面的な理論やイデオロギーやノウハウの転換・変換、あるいは、「在るべきもの」という心的哲学や思想を新たに得ることとは、全く「似て非なるもの」の象徴といってよい。つまり、「認識(思考)を変える」という、合理主義になぞられた排他的で、それでもなお生やさしい「マインド改善」などではなく、『存在と認識の変容(進化)』をともなう、「ラディカル(根本的)で革新的(新たな質と可能性の出現)」な『創造性(慈悲と叡智)のダイナミクス(原動力)』によって、「先行する全ての存在価値を包含」しながら、『自己超越(変容)による自己実現(進化)をもたらす実践(プラクティス)』そのものを意味している。

 そこには、『明確なヴィジョン』とともに、『ビック・ブルーム(全面的な開花)』の種子が存在する。現実の世界(リアリティ)の全方位(ホリスティック)に視点(パースペクティブ)が注がれた、如何なる領域や世界空間によっても「支配・疎外・還元」されることのない『進路指示』を新たに開示するものが存在する。それらは、一体としての『真実性(トゥルースフルネス)』、『充満性(フルネス)』、そして『原動力(ダイナミクス)』を与え、『パラダイム転換の基底』を成すものである。

 つまり、『パラダイム転換』をもたらし、「変容/進化/超越」の種子となる、『メタ・パラダイム』が存在するのである。・・・

 私たち現代人は日頃、物事を考察する際は常に「定義可能な概念を組み立てる」という習慣性に囚われている。前述のパラダイムについての叙述に対しては、『抽象的な概念』として受け止める人々が多いのではないだろうか。

 確かに「抽象的だ」とは、いい意味では使われない。しかし、具象が「カタチ(象)を具える」ことに対して、抽象は「カタチを描き出す」というエッセンスを描き出すのであって全く悪い意味ではない。パラダイムはそうした捉え方で言えば、『一を知って十を知る』ことでもあり、それは「理論的展開力」にも「創造力」にも発展していく。東洋的なセンスでいうところの、「南方熊楠の曼荼羅論」でいう『ホリスティック・アプローチ』であり、曼荼羅(マンダ・ラ)という抽象的絵図のマンダは「本質」とラの「所有するもの」のエッセンス(カタチ)を描き出した、『本質(一なるもの)であり全体(多様なるもの)』を意味している。それは全く『この世(現実の世界)』をそのコードとして具象したものであり、言語知を超えて、この世界のリアリティのすべてを写している。まずはそれをどのように『読み解き、解釈する』かが問題となる。つまり、表層のパラダイム(具象)に対して、その深層(あるいは真相)を読み解き、解釈するためのOS(オペレーション・システム)が、『メタ・パラダイム』である。

 パラダイムが「ソフトウェア」とするならば、私たちの身体とその行動は「ハードウェア」に値すると言える。『メタ・パラダイム』はそれらを結び合わせ、起動させる「OS(オペレーション・システム)」に相応するが、単なる機械的なモノでは毛頭ない。それは、パラダイムも身体・行動も同様に、いたって『温もりのある、統合的(一体的)生命体の働き』そのものである・・・

言い換えるならば、「言語知身体知(非言語知)」意識(光/微細/顕現)のエネルギー生命(闇/内在・原初的/未顕現)のエネルギー上昇(エロス/アセンディング)」下降(アガペー/ディセンディング)」エイジェンシー(自律性)」コミュニオン(関係性)」マクロコスモスミクロコスモスブラフマンアートマン一者多者人間形而上形而下源泉絶頂(乾)」(坤)」(男性)」(女性)」人為無為慈悲叡智時間空間覚醒眠り輪廻涅槃」など。

 メタ・パラダイムは、『対立分離の)』を取り持つ、『()=(の働き』であり、それらは、古代より伝統的に『(スピリット)』、『(ソウル)』、『(プラーナ)』、『』、『』と呼ばれてきたものと、ほぼ同義語であると私は考えている。「縦横無尽」、「変幻自在」、「悠悠自適」な働きが存在してこそ、人はあらゆる狭間の中で『人間としての自由な感性と創造性』を生かすべく、人生を豊かなものへと導くことを可能とする。

 また、洋の東西における、世界の見方、考え方、表現の仕方には、その前提としてそれぞれの基本的な歴史や文化の違いによる「発達と成長の相違」、すなわち、『メタ・パラダイムの形成』において、文化的・社会的な『コンテクストとリテラシー』の違いによるところが大きく関わっていると観ている。

 『コンテクスト』とは、文脈や背景、前後関係のことを指す。『リテラシー』とは、そもそも読み書きができる識語と言う意味であるが、そこから知識を持ち合わせていること、様々な分野に関して長けていると言う様に使われるようになった。

 あうんの呼吸が通用する文化を『ハイ・コンテクスト』と呼び、対照的にいちいち全ての背景から説明しないと気が済まない文化を『ロー・コンテクスト』と言う。

 「ハイ・コンテクスト」の社会では、仲間内などの人脈が極めて重視され、会社とプライベートの区別が弱く、あまり野暮なことを聞くと嫌われてしまい、根回し力、雰囲気を察する能力、空気を読む能力が求められる。(日本、中国、中東、フランス、イタリア、スペインなど)

 「ロー・コンテクスト」の社会では、言葉できちんと説明しないと気が済まず、会社とプライベートは明確に区別する。(北米、イギリス、スイス、ドイツ、北欧など)

 また、日本はハイ・コンテクストな文化だが、一方でマニュアル好きで、規則・許認可でがんじがらめの一面を持ち、みんなできちんと規則を定めないと気持ちが落ち着かない。中国も日本と同様にハイ・コンテクストな文化だが、マニュアルは嫌いで、政府やお役人を信じない、徹底的な個人主義を貫くことから、日本とは対照的である。

 この「コンテクスト」による文化や社会の相違から世界を観てみると、単に西洋と東洋とに世界を二分する考察に対して、多少修正を加えることになる。そして世界には、一見無関係に見えるものが裏では繋がっていることがあり、裏側・背後・根底も視野に入れて考察しなければ状況や関係は掴めない。そして、そこにも浅い深いがあり、浅いものは「対症療法」と呼ばれる西洋医学の対応に近い表現が当てはまる。深いものは東洋医学のように「ホリスティック」に対象をとらえる。

 裏(背後・根底)にあって表層に影響を与えている深く本質的な仕組み、私たちを活かしている世界の表層世界の背後にある「マクロな世界」から「ミクロな世界」へ至る、連続性や関連性、それらを貫通する働き、そして、日常の表層意識にひそかに影響を与え続ける「浅い意識」や、さらにもっと「深い意識」の存在など、日常の私たちの存在と認識の「土台になっている仕組み(ひな型)」を私は『コンテクスト』と呼んでいる。

 そして、浅いものから深いものまでの様々な「意識と世界」、「存在と認識」が、諸段階的(階層的)にその仕組み(ひな型)に気づき、読み解き、表現(成長・発達への実践)する能力を『コンテクストリテラシー』と呼んでいる。

 つまり、個人的・集合的な「コンテクスト」が『パラダイム』に相応し、「コンテクストリテラシー」は『メタ・パラダイム』に相応する。それらは『階層的な構造と機能』の関係である。

 そこには、人間として入手可能となる様々な『存在と認識のレベル』、つまり、『自己(主体)のレベル』と『対象(世界観・リアリティ)のレベル』が並立している。いわゆる、人間の世界観が生じてきたレベルと、その世界観が向けられているレベル、あるいは、主体が持っている意識(存在)のレベルと、その主体が信じている対象となるリアリティ(認識)のレベルの区別である。

 ここで注意すべきは、人々の「タイプ(水平的成長・発達)」を示す『パーソナリティー』を論じているのではなく、あくまでも「レベル(垂直的成長・発達)」を示す『アイデンティティー』に焦点を合わせているということである。簡単に言えば、タイプはその「人間の能力の幅(広い・狭い)」を表し、レベルは『人間の精神的発達の深さ(浅い・高い・低い)』を表している。

 通常はそのレベル(段階)に応じ、人が「存在」のいずれかの段階に中心化している時、その段階に特有の「認識」がある。感情、動機づけ、倫理と価値、生化学、神経系の活性度レベル、学習システム、信念システム、精神的な健康の概念(心身の病と、その対処への考え方)、生活スタイル、教育、経営など、『政治・経済・文化の理論や実践に関する概念や好み』はすべて、その段階に適合している。

 しかし、もはやある段階を超えて、成長・発達が高次な段階に移行する際、「存在」と「認識」には、それ相応の『乖離・対立・分離といった矛盾(パラドックス)』が生じることとなる。いわゆる『自己超越に伴う自己崩壊』の兆候が現われる。

 それは、単なる「機能的適応能力(パーソナリティー)」が引き起こす弊害とは違い、『自己の存在価値と意味(アイデンティティー)』に関わる「重大な障害(疎外感・孤独感・自己喪失感)」として、『知覚される脅威(恐怖)』となる。

 同じく、『自己退行に伴う自己崩壊』は、完全に外部に依存する「気(スピリット)の抜けた、放心状態」として、『知覚のない渇望』が繰り返される。

 いずれの状態も、ただちに通り過ぎなくてはならず、尚且つ、両者の状態そのものの「判断と対処法」を見誤った場合には、「継続的な病理」に悩まされることとなる。

 そこへのアプローチ、あるいはセラピーは外部に求めるものではない。あくまでも自分自身のマスターは、その本人であり、人間にとっての学びと呼ばれる『治癒(癒し)と成長(超越)』とは、常々、『正しい洞察』もしくは、『思わぬ破局』によって得られるものである。

 その時、もっとも明瞭で、信頼性があり、自身の本性を貫く源泉ともエネルギーの軸(幹)とも言えるものが『メタ・パラダイム』である。

 その力動とは、『大いなる自己』を達成に導き、『偉大なるコスモスとの交感(ユニバーサル・セックス)』をも可能とするもの、そして、『自由と充足』、『治癒と成長』を、その「内なるコスモスの聖性」によってもたらす働きを『メタ・パラダイム・ダイナミクス』と呼ぶ。

第2章|統合的メタ・パラダイム『インテグラル・ヴィジョン』

 日々膨大な情報に麻痺することなく、高度に複雑化する時代の中で、確かな叡智と洞察に基づいて生きていくための「アイディアの必要性」は、アカデミズムの世界のみならず、ポピュラーな世界の人々(個人・組織・共同体など)の間でも、その要求が日々芽生えつつある。

 私たちは多様化・重層化する社会の中で、ある特定の方法論のみに固執していては、現実の課題や問題が克服できないことをとっくに気づいている。様々な方法論が、ある特定の課題や問題に対しては有効であるものの、「万能ではない」ことを日々繰り返し体験している。にもかかわらず、なおもその情報の海に溺れながらも、飢えるようにさまよい続けている。

 そのような状況に対して、今必要とされる処方箋とは、あらゆる状況に適応できると錯覚させるような、『唯一の方法論(表層の浅薄な力)』を安易に選択することではなく、それぞれの方法論に内包する『価値と限界』を正しく認識し、それらを『統合(インテグラル)/包括』することにある。

そのためには、柔軟な発想に加え、世界に存在する多様な方法論の関連性と相互作用等を、俯瞰的に見通せる『メタ・システム(メタ・フレームワーク)』を構築する必要がある。

 つまり、『統合的地図(インテグラル・マップ/AQAL)』を構築し、現実的に多様な活動の展開を可能とする、『統合的な作動システム(インテグラル・オペレーション・システム/IOS)』として機能させ、『現代の処方箋(現実の課題や問題が克服)』に網羅的に適用することにある。

 現在これらの試みは、様々な領域(多様な活動の場とその利害関係者)において既に注目されている。それらは今日、『インテグラル理論』と呼ばれ、「包括的・統合的なメタ・パラダイム(メタ・システム)」として、高次な世界観を実践する人々の間で認識が高まっている。

 アカデミズムの世界では、学問的な研究の方法論として『IMP/統合的方法論的多元主義(Integral Methodological Pluralism)』の基礎になる。そこでは、政治、法律、経済、環境、医療、教育に関する「社会の集合領域」の研究者をはじめ、心理学や哲学や宗教等の「人間の内面領域」に関する、先端的な研究者や実践者の共同作業が展開されている。

 『インテグラル理論』、すなわち、この「メタ理論」は、『メタ実践』に由来しているのであり、これは、「統合/包括すること」の『実践の結果』であって、「統合/包括の理論」ではない。方法論とは、実践であり、指示(進路指示)であり、例示であり、『メタ・パラダイム』である。それは、「現象・経験・データー」を生み出す。

 しかし、おそらく一番大事なことは、医療、芸術、ビジネス、政治、エコロジー、スピリチュアリティなどの、およそ如何なる分野にも用いることができ、歴史上初めて、これらのすべての分野の間において、広範で、実り多い対話を行うことが可能になることであろう。

 そしてもし、このアプローチが典型的な「ホリスティック」で、「スピリチュアル」で、「ニューエイジ」で、『新しいパラダイム』に毛の生えたものくらいに考えるなら、それは第一に大きな間違いである。

 現在のところ「インテグラル理論(思想・アプローチ・ヴィジョン)」は、私たち人類に入手可能な最高で最先端な「メタ・パラダイム」であることは間違いない。しかし、それは決して、私たちにとっての絶対的な目標となる『終局点(オメガ・ポイント)』と言う意味ではなく、『新たな進化への岐路』を指し示す道標である。すなわち、人間の成長・発達、そして進化の現在地、あるいは、今ここにおいて創発し、跳躍を試み、超越を果たすための『開始点(アルファ・ポイント)』を明確に示してくれる。

 また現代が、理性を強調する「論理的(合理的)実証主義(経験主義)」から、「多元的相対主義」を見出し、今まさに『普遍的統合主義』と言う、真に統合的・変容的な実践段階への移行期であることを認識させてくれる。

 「発達心理学」などの領域から観た場合、この移行段階は「第一層の思考(生存レベル)」から、「第二層の思考(存在レベル)」への移行における、『中間的段階』と見なしている。ちなみに、「トランスパーソナル心理学」では、さらにより高次な『第三層の思考(霊性的レベル)』の意識存在を認めている。

 「東洋(そしてしばしば西洋)の伝統的宗教(及び一般的キリスト教)」においては、進化の段階(階層)として、「物質、身体、心、魂、そして霊性の出現」を説明する、『大いなる連鎖』のリアリティのレベルにおける「統合的段階への中間期」を、『中位の心のレベル(理性と愛のような、より深い感情の始まり)』と説明する。

 インテグラル理論は、『宇宙の進化(大いなる計画)』の流れの中に存在する、個人、文化、社会、自然が、現在どういう進化の段階(位置)にあるのか、「私たちはどこにいるのか」を明らかにし、そのアドレスを起点にさらなる思索を展開しながら、「私たちはどこに向かえばよいのか」、さらに「私たちはどこまで解っているのか」、「何が解らないのか」を鮮明に示してくれる。そして、『本格的(オーセンティック)な統合ヴィジョン(インテグラル・ヴィジョン)』によって、私たちの生活や仕事、人生や運命を、より全体的でより断片的でない、首尾一貫した統合的成長・発達へと向かわせるのである。

 インテグラル・ヴィジョン』を本気で望むなら、私たち自身のものとして使える『心理学的・霊性的なインテグラル・アプローチ(統合的・変容的な実践)』として取り組む土台ともなる。それは、現代の「発達心理学」及び「トランスパーソナル心理学」から、伝統的宗教の世界において伝えられてきた、「第一層」の意識レベルから、「第二層」の高次な意識への移行、さらに「第三層」の超越的霊性の出現という、『悟りのレベル』に達する実践・修行方法に他ならない。

 つまり「インテグラル・ヴィジョン」とは、古くは宇宙の誕生からはじまり、地球の誕生、そして人類誕生に至る、気の遠くなるほどの時空生成と神秘的進化を経て、今日に至る私たちもが『共創造的進化の叡智』に参加・継続・発展させることの権利と責任を与え続けてきたものである。それらは、特定の時代と場所を限定(特別視)しておらず、あるサイクルとパターンによって時代の先端となりえる『』を創発的に生み出している。現代以前においては、紀元前6世紀の『軸の時代』のブッダや老子や孔子にはじまり、つづいてイエス・キリストが誕生し、時代は既に二千年以上の時を経ている。それ以前もその間においても、幾度となく「軸の時代」は存在しており、私が観る限り、20世紀後半から21世紀にかけては、ふたたび『枢軸の時代の覚者』とも言える人物が登場している。

 その一人として、「インテグラル理論」の開発者でもある『ケン・ウィルバー』は次のような言葉を述べている・・・

『 インテグラル・ヴィジョンは、自己、文化、そして自然の中で現われているままの、物質、身体、心、魂、霊性を包括することを試みる。統合的でバランスの取れた包括的なものとする理論である。それ故その理論は、科学、芸術、そして道徳を含むものであり、同じく物理学から霊性までの分野、生物学から美学、社会学、そして瞑想的な祈りまでを包括する。それらは、統合的政治、統合的ビジネス、統合的医学、統合的霊性などにおいて姿を現す・・・今日までたどってきた道、すなわち、断片化と疎外の道について探っていくか、全体論(ホーリズム)と統合的な包括に向かうオルタナティヴ(代替的)な道を探るか、最終的にどちらの道を探るかは、もちろん、あなた次第である・・・

ケン・ウィルバー 『万物の理論』より

第3章|インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス

 文明の発展が急速に進むにつれ、私たちの社会生活は物質的には確かに豊かになり、先進国をはじめとする世界の人々は、過去のように飢えに苦しむことはなくなった。ただし、いまだ貧困状態にある地域が存在する問題は、いぜんとして残されてはいる。また、先進国が豊かな状態にあるといえども、経済的格差は日々悪化しており、社会福祉的国家の継続に対しては、どの先進国の内情を観ても「高齢化と貧困層の増加」に伴う財政難は顕著になりつつあり、国民全体に充分な手当を支給することは、今後ますます困難を来すと予想される。

 『革新的なテクノロジーの発展』は、経済活動の合理化を推し進め、人間の手による労働までもが合理化により縮小傾向にある。表層的には、景気低迷による雇用の減少が取り上げられてはいるが、雇用における本質的な問題は、やはりテクノロジーの発展とそのイノベーションが引き起こす「合理的増産システムの発展」によるところが大きい。

 経済活動の目的と使命としては、本来的には既に果たされている。一部の地域を除いては、いわゆる人間の生命活動を維持するための「物質的生産と供給」の面における「量・質・物流」は、とっくにその必要な数値を満たすところまでに達している。

 経済に関する詳細な議論はこの場では踏み込まないが、「雇用の問題」は本質的なギャップと社会構造、福祉社会と国家体制、文化と政治など、ある種の共通する問題を解消する「新たな社会システムへの移行」に着手しない限り、「格差社会と労働・雇用の減少」は益々悪化の一途を辿ることとなるだろう。

 つまるところ、本質的な問題は「収入の問題」であって、経済活動の使命が「雇用することの使命」を負っているのではない。また、「収入は労働によって得る」と言う慣習に囚われていては、社会・経済・文化の「進歩的な人類世界」の構築は、果てしなくほど遠いものとなるしかない。ここについては、別の機会にて考察・示唆したいと考える・・・

 『先進的な医療とその技術』も目覚ましく発展し、生物学と医学の向上は「病気治療と創薬(製薬技術)」に大きく貢献し、人間の命に長寿をもたらしている。しかし一方では、寿命年齢とは逆に「健康年齢」は著しく悪化しており、半病人状態の人々で病院は溢れ、身体的な病状とともに「精神的病状」を抱える人が近年急増している。

 厚生労働省は、2006年の医療法改正で地域医療の基本方針に死亡原因の大半を占めるガン、脳卒中、心疾患、及び糖尿病を四大疾患として指定していたが、2011年8月には患者数が急増する「精神疾患」を追加して、「五大疾患」として基本方針において重点的に対策を講じることとなった。

 厚労省によれば、うつ病、及び不安障害を中心として、精神疾患患者数は2008年当時で既に323万人に昇り、ガン(152万人)や糖尿病(237万人)を上回っている。特にうつ病、及び不安障害の患者が増加していて、ほぼ「3万人の自殺者」の大半がこれら精神疾患を抱えていると推定している。

 先天的な病状よりは、後天的な「生活習慣病」による疾病が増大するにつれ、ヘルス・サイエンスやヘルスケアの概念自身も大きく変化し、全人的(包括的)な治療から臓器別治療へと細分化されている。

 医療従事者はいたって個別化・専門化されると同時に、検査技術の発展により、その専門技師も含めると、人ひとりに対する医療従事者の分野別人数とそのコストは限度を超えているであろう。事実、診療科目は、産婦人科や小児科を除いて脳外科、脳神経、胃腸科など、臓器別に40科目程度に細分化されており、診療機器の分野における電子化など進歩が認められるが、治療は依然として投薬、放射線照射、及び手術が主体であって、特に生活習慣病の治療は専ら投薬に依存している。

 つまり、医療薬や健康維持・改善に費やすセルフケアに関わる「ヒト、モノ、コスト、そして情報管理など」を合わせると、長寿と健康を管理するためのエネルギーは、もはやとてつもない数値が想像されるだろう。

 国家予算に占める国民医療費38兆円と介護費用8兆円の合計46兆円の費消、このほか診療費としては交通事故および自由診療があり、ほぼ10兆円程度と見積もられている。よって、日本における総医療費は55兆円、ないし60兆円程度に達していると想定される。

 この点で、医療産業は自動車産業を超えて国内最大の産業となっているものの、現行医療が本質的に対症療法であって、健康体の回復や社会復帰を実現・促進して、究極的に国力増強に資するところが少ないと考えられる・・・

 『情報化の発展した社会』では、個々の人間はもはや情報の対象に過ぎず、コミュニケーションの主体の存在ではなくなりつつある。それは、経済活動の対象、消費の対象、管理の対象、コントロールの対象、そして全てに「金銭の対象」であり、「情報量=情報料」=「情報料=報酬量」と言う公式を基に、『量(料)の増大』を誇張しだしている。

 そこでは、いかに「リンク」を増やし、「ランク」を競い、「情報をマネーに換えるかがゲームのルール」であり、まさに目に見えない『錬金術の場』と化している・・・

 これらに共通する「重大なキーワード」を一言で表現するならば、それは『過度』、つまり、行き過ぎた『ハイパー世界の物語』である。過度(ハイパー)な世界は、「ハイパーエイジェンシー(過度な自律性)」、もしくは「ハイパーコミュニオン(過度な関係性)」を強調し、「ハイパーアセンディング(過度な上昇志向)」、もしくは「ハイパーディセンディング(過度な下降志向)」のいずれかの断片的世界を軸に、『極端な対立と分離』、そして『極度な存在と認識の乖離』と言うものを縦横に生じさせる。

 次第にそれらは、「自己の心身の健全性」や「文化における善性(倫理・道徳)」、「社会と自然に対する真実性や信頼性」をもろくも崩壊の一途へと近づけて行く。

 この、全体性とバランスの欠いた「自己、文化、社会、そして自然」は、世界空間に存在する『美・善・真』を、平坦で断片的で疎外化された『モノクロームな世界』の領域に過度に還元(極度に引き込む)する。そして、在りのままの全てが『豊かさの中で餓死する』といった最悪を招く。つまりこれこそが、現代に特有の『病理と闇の正体』であり、『表層の浅薄な力』の実態なのである。

 過去から現代において、繰り返されてきた「自己崩壊」、「機能不全」、「制御不能」、そして最悪の『文明の滅亡』という史実などへの対処(治癒方法)が不在であったわけではないであろう。

 ただし、その存在は過去も現代においても非常に少なく、「対症療法的アプローチ」は無数に存在するものの、『ホリスティック(全体的)でラディカル(根本的)』なアプローチは稀である。

 特に情報が瞬時に伝わらない過去の時代において、『統合的アプローチ』を探り当て、適切に実行することは不可能に近いことであったと考えられる。

 もしくは、現代においても存在するであろう『拍手なき勝利』のように、史実にも、話題にも上らない時の内に、完ぺきに近い形で問題を処理した場合には、それは人々の目にも記憶にも残らず、密かなる時空に微かな音も立たぬ間の出来事(実行)とも言うべき、『未存在(確認不能)の存在』であったかもしれない。それは、問題が芽生える前の『兆しでもって処置する』とも言うべき、語りえない『見事な叡智(智慧)』、神話や伝説にも伝わることのない、一片のカケラも見当たらない『秘儀の存在』を連想するのは私だけの妄想であろうか?

 上記に掲げる、ほんの一部に過ぎない現状、その僅かながらに垣間見る『価値と限界』、『真実と盲点』だとして、今ここで私たちが認識すべき課題とは何か・・・

 決して時代を逆行することなく、積極的に外の世界にのみ囚われて自己をすっかり明け渡すこともなく、表層的な知識を単に寄せ集めるのではなく、実体のない精神世界のままに漂いながら探し続けることなく、果敢にその「課題・問題・病理・闇・浅薄さ」と向き合い、現実に分け入り、それを乗り越えていくためには何をなすべきか・・・

 今や「心理的な脅威(恐怖)」から、『有機的な脅威(恐怖)』としてすっかり固着してしまっている、『病理と闇の正体』であり、『表層の浅薄な力』によるところの「ドグマ」、あるいは、『カルマからの解脱』を如何にして成し遂げるのか・・・

 それにはまず、自己に元々備わる『生得の力』を取り戻すことから始めなければならない。今や「生得の力」とは、進化の歴史の中で私たちが見失ってしまった、言わば『失われた環(ミッシング・リンク)』そのものである。

 進化論を覆す、馬鹿げた仮説としての「ミッシング・リンク」ではなく、原初的・内在的に自己に備わる、肉体と精神を貫く『生命力』、あるいは『創造的潜在力』と言う『生命の樹(幹/軸/柱/道/中空)』に他ならない。

 そして、「生得の力」を取り戻した上で、「自己、文化、社会、そして自然」を同時に解放しなければ、「カルマからの解脱」は愚か、本当の『自由と充足』、『治癒と成長』を手にすることは困難であろう。

 私たち自身が、自らの人生を面倒見ること、自らの運命を切り開いて『自由と充足』、『治癒と成長』を果たすには、自らが自分自身の『マスター』となり、『ヒーラー』となることが秘訣である。そのためには、『自己の生命力(生得の力)をもコントロールする術(プラクティス)』を学び、それに目覚め、そして取り戻すことが必須である。

比喩的に表現するならば、『 生得の力(輪環)を乗りこなすには、まず鍵(術)を差し込み、そのエンジン(力動)を回転させ、始動させるバッテリー(失われた環)の充電(充満)によって点火(スパーク=学びと目覚め)がうまく行かなければ、その車体(身体)はいつまでたっても発信することはない。当然、その運転者(自己・意識・魂)は立ち往生したまま、目的地(自由と充足/治癒と成長)に行き着くことはできない・・・

 その「生得の力」を取り戻す行為(実践)は、『自己の存在と認識』を再発見することである。

『 私たち人間が宇宙(コスモス)の進化の一部であり、その宇宙全体の物質から生命、そして心の全てを含んでいること・・・。コスモスの進化そのものが、私たち人間の内に存在することを認識する、その知覚を霊性と呼び、コスモス全体の慈悲と叡智との絶えることのない交感(エクスタシー)によって霊性は存在していること・・・。私たち自身が、そのコスモスと霊性の進化の先端であること・・・

 それらの認識に始まり、全心身で獲得することであると同時に、コスモス全体にわたる『進化の開花』に自覚的・能動的に参加し、共創造する権利とその責任を得て、自己と世界の価値と意味を見出す『最善(至高の悦)に至る道』である。

 これは単なる「哲学」や「宗教」などではない。まして昨今の「マインド強化」を重視する自己啓発などの類ともまったく根本的に異なる。ご本尊に手を合わせることも、グルを崇めることも、雄弁に語る講師に媚びる必要も一切ない。

 時代性やトレンドと言った、変化に振り回されることのない『不変(普遍)の原理原則』を受動(パッシブ)し、変化の先頭(進化の先端)なる、まったき人間である自身に拠って立つ『大いなる自己』へ、能動的(アクティブ)に『変容(創造的進化)を遂げる道(自己超越による自己実現)』である。

 本格的にこの道(「生得の力」を取り戻す実践)の実修方法や、そこから得られるエネルギーには、いくぶん圧倒されてしまうこともあるかもしれない。人によっては時として、人生観を変えてしまうような大きなきっかけと成り得るだろう。ただし、自己を見失うことは決してない。如何に自らの「生命力」と再会し戯れるか、全ての「生得の力」を統合し、成長を促す軸が、元々自身の内に存在していたことに『大いに気づく』だけのことである。

 より高度な練功段階に達する人は、それまでとは全く正反対の認識に至るであろう。つまり、真の「自由と充足」、「治癒と成長」とは、外部の何者かによって与えられ、望みを叶えてくれるのではないこと、自身が自由になるための『自由に降り立ち』、統合的な変容の基礎が自らの身体に根付いており、一時も離れることなく、厳然(現前)と内在されていたことを悟るのである。そして、これまでの実修・実践の諸テクニックは、実は単なる道具(手段)にすぎず、もはやそれを必要としなくなる時がくれば、容易に捨て去ってしまえるものであると言うことも悟るのである。

 そこには、「抽象」や「具象」の概念世界はもはや存在しない。もう一つの世界(第三の道/文化)、それは、『捨象の世界』の存在と認識に至るのである。「カタチを捨てる」こと、すなわちカタチを捨てれば何が残るか・・・。『本質が残る』のみである。

 「生得の力」は、現代のサイコ・スピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)の専門家や教師たちの間においても、大きな存在と認識である。人間の『統合的な成長(変容)』が重要であると言う共通認識が芽生え、自己の心身(肉体と意識)両面の統合にしっかりと根ざした実践の提案が示されている。それらは、『ITP/インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』と言う統合的で変容的な実践によって、人間の潜在的可能性を再度、統合的に繋ぎ合わそうとする試みである。

 この考え方そのものは、なんら「驚くほど新しい」ものではない。世界の伝統的な教えや宗教に観る文献、古代の哲学や思想、神話や伝説の物語の中にも存在する。それらは時に、特定の覚者や聖者、そして賢者、神秘主義に傾倒する呪術者や錬金術師、特殊な思想家や芸術家、はたまた秘密結社等の間で『秘儀・秘伝』として、謎めいた迷信や暗号という形で現代にまで伝え及んでいるものもある。

 ここではそれらに踏み込むことを避けたいと考えるが、にもかかわらず、それらを一笑に付すような未発達で馬鹿げた、取るに足らない非現実(非科学)的なものとしてお考えならば「一事が万事」、これから叙述する内容は、読者にとって全く意味も価値もなさない、戯言となる可能性も無きにしもあらず、読み進めることをここで中止頂いても一向に構わない。ただ、歴史上のこれらの複雑な問いを探究する者、新たな資質や創造的活力、または感覚を、その個人の生活や仕事、コミュニティーの中で、自己の最も独自の資質を発現させたいと望む方であれば、この先の叙述を難無く自然な態度で消化しながら読み進めることができると信じている。

 これまで何度も述べたように、まず何よりも、太古の時代から現代に至る人類が生み出してきた、『叡智と進化(変容へのアプローチ)』の物語すべてが内包する、それぞれの「価値と限界」、「真実と盲点」を尊重しつつ、健全なる態度によって吟味することは少なくとも無意味なことではない。盲目的に自己の趣向で唯一と思えるものに囚われるよりも有意義である。物事を鋭い輪郭でとらえることよりも、一旦自分の観念や先入観を無にすることは実に難しい行為であり、時に新しいことを受け入れることよりも、古いものを忘れることは、なお難しいことでもある。

 再度読者の方に願うことは、「信念(ある時は「ドグマやカルマ」)」や「精神(メンタル)」、「思考(マインド)」と言った、『ハートのチャクラの上』のみで物事を考察し、困難を乗り越えようとせず、その「マインドからプライド」を、「ハートから争い」を無くし、『無為自然の本性(身体・本能・性・感情)』より立ち昇ってくる『生得の力』の存在と認識に信頼を置き、世界をその曇りなき眼で「抱擁する」こと、「受動する」こと、「偶然を悦ぶ」ことができた時の『その並外れた感動とエクスタシー』を感得して頂きたい。

 そのためにも、何らの努力なしにその日を待ち続けることなく、『人間としての生』と言う悦びを確信させるもの、あなた自身にとって『ベスト・プラクティス(最適で理想の実践)』な統合的変容の物語を、その『内側から導き築き上げる力動(生得の力)』に是非とも手を届かせて頂きたい。

 現代にマッチした『自身のためのITP』とは、全ての次元の自律的成熟を促進するだけでなく、自身の全てのレベルにおける、新しい潜在力と質と能力、そして行動力(原動力)を「産み出し」、「引き出す」ものである・・・

 まずは、『インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』(Integral Transformative Practice,ITPと略記)の現代の諸提案をいくつか簡潔に見て行く準備として、現在までの半世紀の間、僅かながらの人々を突き動かしながら、それでもなおも置き去りにされつつある『ガイスト・サイエンス(霊的瞑想科学)』の背景と足取りを、科学の視点から遡り観て頂きたい。

 ちょうど私が誕生したころ(1967年)から現在(2014年)までの科学世界には、今こうして叙述するに至る、自身の運命をも大きく突き動かす文脈と背景が整然と歩調を合わせるがごとく存在し、時に対立しながらも、私の傍らで常に躍動し続けている。

 この半世紀での出来事は、私の人生にとってだけでなく、時代を共有する人々にとっても非常に重要と言える『歴史的変革期(ターニングポイント)』であることは間違いないであろう。

第4章|歴史的変革期『ターニングポイント』

 前述にも説明した「パラダイム」とは、トーマス・クーンが科学思想における概念の枠組みとして提示したものが、今では教育学、政治学、ヘルスケア、そして世界観一般と言う、様々な分野・領域に適応されるようになった。またこの原理は、私たちがリアリティを認識し、意味づける方法にまで用いられ、その言語は日々の会話の中で広義に使用されている。

 「ピーター・ラッセル」の著書、『グローバル・ブレイン(1985年)』の中で、我々の思考、知覚、経験の基礎となっているものは、世界の在り方に関する暗黙の仮定である・・・と説明し、さらに外の世界の知覚が意味をもった経験となるには、一つの世界のモデルが必要であり、もしもこのような知覚の枠組みがなければ、生のデーターはそのままでは意味をもたない・・・と指摘している。そして今日では、パラダイムは科学の領域を超えて、広く一般的な私たちの「概念と知覚を構成するモデル」、「リアリティを決定する基本的な枠組み」にまで適用されるようになったのである。

 つまり、私たちが知覚を構成するときに「世界を構成するモデル」、すなわち「パラダイム」をもっており、それは通常、意識するしないにかかわらず、私たちの物の見方・考え方を大きく左右するということである。心理学ではこの知覚を構成するモデルのことを『セット』と呼び、この存在は非常に大きいもので、知覚したデーターを解釈し、どの体験を「現実として受け入れ」、どれを「錯覚として拒否」するかを決定するものと定義している。

 このように、世界を考察するうえでの概念としての「パラダイム」や、私たちが体験をどう構成するかの基本となる「セット」の存在に、私たちは強く支配されているのである。ここで再び、「ピーター・ラッセル」に耳を傾けてみたい。

『 例えば、物理学者が自分の意識と物質的世界が完全に分離した存在だという体験をした場合と、その二つがより大きな全体の一部だという体験をした場合では、そうとう異なるパラダイムを発達させるだろう。その意味で我々の「自己意識」は、パラダイムやセットを越えたものである・・・

 ラッセルのこの説明には、私たちのあらゆるパラダイムやセットと言われる「表層の意識」と、それを超えたところの「自己意識(深層の意識)」に存在する『メタ・パラダイム』、『メタ・セット』と呼べるものの存在を示唆している。『メタ』とは、ギリシャ語の『越える』を意味している。

 つまり、私たち人類がこれまでに体験してきた、『パラダイム・シフト(転換)』と言うものが発現する場合、それらの現象を突き詰めていくと、おのずと『人間の意識の根源』にまで迫っていくことになるのである。パラダイム・シフトと言うと、如何にも『表層の観念的な概念操作』によって行われるという印象をもってしまう。が、この背後・根底には『メタ・パラダイムの転換』が存在し、知的な作業に加えて「意識の変容的な体験」、日常生活の在り方を含む、全体的な世界観の「何らかの体験(神秘体験など)」が問われることが、科学の世界においても認識されるようになったのである。(今から30年程前のことである)

 80年代の科学の世界におけるこの様な認識には、20世紀初頭の物理学、特に「量子力学」の発展に始まる。「アインシュタイン」の『相対性理論』にはじまり、1920年代後半に確立された現代物理学で起こった「パラダイム・シフトの波」が、科学全体に広がって行ったところにその原点を観ることができる。

 特に注目すべき科学者であろう人物の一人としては、アインシュタインの無理解にもめげず、「波動力学」の創始者「シュレーディンガー」との論争にもひるまず、量子力学の創始者で、それに重要な側面を与えることとなった『不確定性理論』の提唱者である「ハイゼンベルク」と言えよう。当時、彼と共に「近代量子理論」の基礎となる『相補性原理』の提唱者「ボーア」らによる『コペンハーゲン解釈』は、今日も続いている「近代合理科学のパラダイム」を大きく揺るがせることになった。

 この現代物理学、つまり科学の世界で起こった『パラダイム・シフトの動向と変化』とは、日常の表層的な考察から覗うならば、知的な作業への努力と研究への情熱による偉業として、彼らの特殊な能力や才能を評価・称賛するのみに多くの視線が向かうだろう。確かに、卓越した理論の形成、世紀の発見と言える『結果に対する驚き』に、多くの学者や大衆の目が奪われる出来事である。事実、上記の三名は「ノーベル賞学者」であり、今なお、科学界をはじめ、政治・経済・社会の領域に対し、その恩恵と希望を与え続けている。

 結果と実績が際立って大きい状況だけに、彼らの『内面領域に対する個的な心情』については、あまり注目されてこなかった。ちなみに科学者以外にも、20世紀前後の時代には「偉業」と呼ばれる発見・発明を果たした人物として「トーマス・エジソン」などが挙げられる。この時代には、「物理的・物質的側面」の開花時期であるだけに、外面的なモノに興味と視点が注がれていた傾向が強いこともあった。事実、学術界と産業界は、物理学がその中心的な役割と牽引を担っており、絶対的科学神話が確固たる地位を得て、世界の中心的思考は「客観的合理性と機械論」を強調し、社会の真実性は科学的論理性に基づいていった。

ではいったい、彼らは如何にして、その「能力と才能」、「着眼と発想」、そして「発達と開花」を成し遂げ果たすことができたのであろうか・・・。皆同じ限られた時間と空間の中で、「驚くほど新しい」知覚・思考を喚起・展開・転換するに至ったのであろうか・・・。あるいは、限られた時間と空間の中で、他の人々よりも並外れた「集中力などの力動」を持ち合わせていたのだろうか・・・

 興味深い話として、科学界と実業界の傑出した発明家であり天才と言われる「アインシュタイン」と「エジソン」の両名の幼少期には、共通する秘話が実は存在する。彼らは共に、現代で言うところの多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害、つまり、「注意欠陥・多動性障害(英: Attention Deficit Hyperactivity Disorder ; ADHD)」であったことが判明している。ADHDの症状は、注意力を維持しにくい、時間感覚がずれている、様々な情報をまとめることが苦手などの特徴がある。日常生活に大きな支障をもたらすが適切な治療と環境を整えることによって症状を緩和することも可能であるが、脳障害の側面が強いとされ、しつけや本人の努力だけで症状などに対処するのは困難であることが多いとされる。また両名は幼少期において学校の教育に馴染めず、非常に特殊な性格を持ち合わせていた。しかし、アインシュタインは伯父に、エジソンは母親によって、ある種の才能・奇才を見出されて独自性を育成するオリジナルな教育環境を与えられている。その後は共に学業的な有能性よりは、興味のあることはとことん突き詰め、ユニークで豊かな発想力と行動力によって、「自身のあるがまま」の本性に従うごとく、それぞれの分野で功績を発揮するに至っている。現在において、両名を圧倒するほどの歴史的に偉大な人物はその分野に存在しないであろう。

 特に注目すべき記録の中で、「アインシュタイン」をはじめとする、当時の先進的な科学者であった「ハイゼンベルク」など『ニュー・サイエンティスト達』の手記には、ある種の神秘体験に基づく『高次のリアリティ認識』を積極的に語っている事実が残されていることである。そして彼らは、従来の合理的科学手法に加え、「神秘的な体験」を通して得られる(あるいは得られた)『直観的認識』を、自然に対する洞察の道具として使用した結果が、『パラダイム・シフト(転換)』を創発し、現前のリアリティに真実性と価値と意味を見出させたのである。また、その結実させた世界の存在を、彼らが表現する場とする科学の領域に反映させたと言えるだろう。

 実際の問題としては、このことを「科学者の個人的な特殊な問題」として片づけてしまうか、あるいは「より意識的にこの問題を考察するか」で、その後の『伝統的科学と新しい科学の分岐点』が見えてくるのである。そして、これよりも遥か以前の時代においても、新しい発見や理論が誕生する際、ある種の神秘体験や直観的洞察をうかがわせる記述の存在が確認できる。ただし従来、こうした誕生秘話は、あくまでも秘話として「科学の問題」としては捉えられず、科学者個人の特殊な問題とされてきたのである。あるいは、そのテーマ自身が近代において科学的ではない、「形而上学」もしくは「神秘主義の系統」として避けてこられた帰来があり、特に西洋科学の発展の過程においては、それらは神学及び宗教的領域が扱うものとして、対極(対立)の側の幻想的世界として目を背けられてきた。そこには、中世キリスト教によるドグマに対する、過去のトラウマが大きく科学者達には存在しており、今や自由な学問的追求と論理的・合理的科学手法を手にした研究者にとっては、客観的に目に見えるもの以外を取り扱うことを良としなくなっていたのである。

 この傾向は現代の世界にも引き継がれている。客観的及び論理的、科学的という言葉はいかにも信憑性があり、理性による真実性を強調する唯一の手法として誰も疑うことはないであろう。しかし、その客観性を決定しているのは、いたって個人である主体側(観察者)である。その事実に遭遇したのが「量子力学」であり、「波動力学」という『物理学の世界に起こったリアリティ(粒子は「物質」であり「波」である、観察者の意識によって同時に観ることがない)』であった。その内容は多くの専門文献等にて詳細に紹介されているので、そちらに譲りたいと考える。

『 ここでの「視点(議論、思索、考察)」・・・それは、科学世界における歴史的な動向や状況に対する批判をすることではない。科学者の表層的なパラダイム分析や現代の科学倫理を非難することでもない。まして、散々知識を引け散らかした末に、野暮で下世話な「とんでも話(オカルト本)」を展開するつもりなど毛頭ない。つまり、自然に対する「洞察の道具」として使用する、「精密な機器(顕微鏡や望遠鏡など)」と「表層的パラダイム」以外に、その主体となる身体(自己)に備わる『精妙な器(生得の力)』と、その感度と精度を最高に引き上げる、深層的な『メタ・パラダイム・ダイナミクス(パラダイムを超えた存在の原動力)』の存在と認識、そして行為(修行・実践)について視点を注いでいる・・・

 80年代に大きく注目されることとなる『メタ・パラダイムへの認識』は、20世紀初頭の物理学の世界を先駆けに、その後『ニュー・サイエンス』と呼ばれる潮流の中に継承されていく。それらは、「アインシュタイン」や「ハイゼンベルグ」、「ボーア」たちの流れに繋がっている。そして、現代物理学者のある者たちは、「観察者の意識」と言う重要性の問題を抱えて、「科学哲学」や「認識論」の方向に進んでいった。

 当初、ニュー・サイエンスなる言葉自体は日本で生み出されたもので、この言葉に象徴される明確な傾向が世界的に存在している。日本で「ニュー・サイエンス」、または『ニュー・エイジ』が話題になり始めたのは、「フリッチョプ・カプラ」の『タオ自然学(原書:1975年/翻訳:1979年)』が発表された時期に一致する。私自身にとって、このF・カプラの著書とは、その後の人生に大きく影響を与えた一冊であることは間違いない。その後、F・カプラの二冊目となる著書『ターニングポイント(原書:1982年/翻訳:1984年)』は、より一層、私の「メタ・パラダイム創発」を激しくスパークさせた「壮大なる著書」である。

 「ターニングポイント」では、物理学のパラダイム・シフトに端を発した、ニュー・サイエンス、及びその根底で進行している人類史的な『大きな変革の潮流』を概観している。その上で、今日の社会全体における「危機のゆゆしさと地球的広がり」への警鐘とその対応について示唆するものであった。その認識は30年後の現在においても十分通用する、的確な指示というものが明記されている。

 当時の私(18歳)には、F・カプラがこの洞察に至った経緯と、その背後に存在する「知的活動(表層的知覚)」以外の「深層的な知覚」をもつ契機に、『ドラッグによる覚醒』が関わっていたことを後になって知ることとなる。ただし、そのことを境に『意識の覚醒と可能性の存在』に対する純粋な関心が芽生えたことと、自分自身のそれまでの「不可思議な体験(神秘体験)」に対する検証とより深い洞察へのヒントを得ることができた。まさに私にとっての『ターニングポイント』であった・・・

 F・カプラの「ターニングポイント」の序文は以下である。

『 1970年代に物理学者として私が抱いた大きな関心は、今世紀(20世紀)のはじめの30年間に物理学で起きた。そして今なお、物質理論の中で色々手が加えられつつある概念の発想の劇的な変化であった。その物理学の新しい概念は、われわれ物理学者の世界観に、デカルトやニュートンの機械論的概念から、ホリスティック(全包括的)でエコロジカル(生態学的)な視点へと大きな変化をもたらしてきた・・・。それは、東洋思想や神秘主義の視点ときわめて似通った視点である・・・

 こうして、物理学にはじまった「パラダイム・シフト」、そして「ニュー・サイエンス」の波は、「生物学」さらには「心理学」へと波及していくこととなる。

第5章|意味のある偶然の一致『シンクロニシティ(共時性)』

 パラダイム・シフト、そしてニュー・サイエンスの波が科学全体に広がって行くにあたって、明確に宣言・提唱された時期とは、おそらく、1968年のオーストラリアのアルプバッハという村で行われた、ある「シンポジュームの開催」が引き金となっている。

 このシンポジュームは、『ホロンの概念』の創案者として知られているジャーナリスト「アーサー・ケストラー」によって具現化され、その参加者には、理論生物学をさらに一般化して『一般システム理論』を発展させた「ルードウィッヒ・フォン・ベルタランフィ」をはじめ、「コンラッド・ウォディントン」、「ジャン・ピアジェ」、「W・H・ソープ」、「ポール・マクリーン」といった、当時の代表的な生命科学の指導者たち15名による、新しい展望を持ち、『科学の統合』を目指す議論によるところが大きい。

 その中心人物であったケストラーは、スペインでジャーナリストとして活動中、スパイ容疑で逮捕され、死刑を宣告されたが、このとき彼は独房の中である種の神秘体験をする。それは神秘家たちが言うところの『大洋の感覚』だったことを明かし、その後において彼はその筆先を「生命科学の分野」へと転じたのである。やがて彼はその「科学的思想の要約」であり、総決算とも言える『ホロン革命(原題:ヤヌス/1983年)』を著した。

 これらの科学者たちも、それまでのリアリティ認識を転換するような体験を通過することによって「メタ・パラダイムの転換」を達成したと考えられる。そして、自らの洞察や発見が誕生するときの『直観や高次のリアリティ体験を意識化』するようになったその時、彼らの視野の中に『東洋思想や神秘主義』がまことしやかに写し出されてきたのである。

 それらへの具体的な関心と考察は取り分け、当時の『人間心理学』や『トランスパーソナル心理学』へと手渡され、そうした神秘体験の肯定的な要素を積極的に認め、また、自身で体験する方法までもが考案せれて行く様相は、『メタ・パラダイムへの意識的な発展』への兆しと受け取れるであろう。

 一般に学問としての「心理学」は、19世紀に形成されたとされるが、その思想は『古代ギリシャ哲学』にまで、その歴史的な起源に遡ることとなる。また、心理学には非常に多くの学派が存在し、それぞれに独自の理論体系もが存在するため、いささか混乱を招きかねない。他にも心や意識を対象とする探究には、「東洋の伝統宗教」、「西欧哲学」、「文学の世界」など、実に多彩なものがある。

 今日、心理学と言うと、多くの人が「フロイト」の名を念頭に思い浮かべるかも知れない。また、フロイトを中心とする『精神分析運動』は、多くの優れた人材を魅了し、その弟子たちで最もよく知られた者には、「ユング」、「アドラー」、「ランク」などの有名な研究者が名を連ねる。ところが、フロイトの「精神分析学」は当時の心理学からではなく、19世紀に医学の一分野として独立した『精神医学』から生まれたものであり、このような「出自の特殊性」が、心理学と言う学問を複雑にしている。

 ある時期、ユングをはじめとするフロイトの弟子たちの何人かはその後、フロイトの基本理論との不一致から、そのモデルの修正を主張し、独自の学派を創設することとなる。特にユングが提示した『集合的無意識』と言う概念は、フロイトばかりか他のあらゆる心理学と一線を画すものとして、そこから宗教や哲学、心理学、精神性に対する「新しいパラダイム」が生み出されることになる。

 フロイトもユングも「宗教と精神性」に強い興味を抱いていたが、フロイトが「宗教的信仰や行動の論理的、科学的説明」を見出すことに取り付かれたのに対し、ユングのアプローチは、はるかに「直接的に数多くの宗教的体験」を通して、『真の精神性を人間の魂の不可欠な部分』と見たのである。

 そしてユングは、『個的成長を自己実現』するにおいて、神秘体験がそのプロセスに至る重要な段階であると見なしたのである。またユングは、「集合的無意識」の中に、『集合的に存在するダイナミックなパターン』があるとして、それらを『元型(アーキタイプ)』と呼んだ。これらのパターンは、人類の太古の体験によって形成されたもので、「夢の中」、さらには「世界の神話」や「おとぎ話」に観られる『共通テーマ』に反映されている。

 つまりユングは、「無意識」を『意識の源』と見なし、そこから「二つの領域の出現」として、一つは個人に属する『個的無意識』と、もう一つは意識の深層に横たわる全人類に共通した『集合的無意識』の領域が存在すると考えたのである。この存在を示す知覚は、古来より様々な呼び名にて伝統的に伝わるものであり、決してユングに始まったものではない。しかし、ユング自身が直接体験した高次なリアリティが深層の「メタ・パラダイム」を開示させ、『個人と全人類』、『人間と宇宙』との繋がりを覚真(確信)へと導いたのである。

 その後ユングは、科学が基本とする『合理的アプローチ』が、リアリティに接近するための数ある中における一つに過ぎないとして、取り分け「人間の魂」を探究するときには、しばしば『合理的理解を超える必要性』があり、『包括的なアプローチ』を何度も強調している。そして、内なる「霊的世界の象徴的イメージ」と外界の出来事との「非因果的つながり」などに対して『共時性(シンクロニシティ/意味ある偶然の一致)』と言うパラダイムを提出するに至ったのである。

 ユングのパラダイムは、それまでの「機械論」、「因果律」、「客観性」、そして「理性」などに強調点がある『西欧的パラダイム』に対して、「包括的」、「非因果律」、「主観性」、そして「感情や直観」、「感覚」など、『伝統的宗教や精神世界』の中で古くから伝えられてきたものに強調点を移し、それを心理学と言う学問領域の中で探究したといえる。

 私の見解では、ユングのメタ・パラダイム転換には「東洋(中国)の秘教(秘伝)」である『老子(タオ)』の影響が大きいと観ている。1928年、ユングは「リヒャルト・ヴェルヘルム」の手による『道教の錬金術』のドイツ語訳を入手し、その後これにコメントを付けて、共著による『黄金の華の秘密(1929年)』を出版している。なお『易経』にも傾倒し、また『マンダラ』に夢中となり、「チベット密教」や「禅」などの伝統宗教への関心は高く、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である『鈴木大拙』との親交も深いものであった。

 20世紀初頭から60年代中期(66年)までのユングの研究姿勢は、「広大な心の世界」に触れようとするとき、その世界の奥深い神秘や謎に深く入り込み、不可知の地下水脈からエネルギーを汲み出し、『新しい意識の科学の可能性』を探究しようとするものであった。 一つのこの基本姿勢はユングを原点に、その後の心理学における「パラダイム・シフトの波」が、『第三・第四の心理学』へと発展する。

 「物質」から「生命」、そして「心」に対する学問領域は、ユングの予言とも言えるシンクロニシティの出現を示すかのように、私の目前に、一連の『意味ある偶然の一致』なる様相を写し出した。

 まずひとつは、物理学の世界からF・カプラの「タオ自然学」が翻訳・出版された1979年の同時期、心理学の世界からは「アブラハム・マズロー」の著書『人間性の最高価値』が出版され、今や物理学におけるパラダイム・シフトが、一分野での出来事ではないことが示唆されるのであった。

 マズローもユングと同様に、「個的成長と自己実現」に強い関心を寄せており、中でも「自然発生的な超越体験」を『至高体験』と呼び、そうした経験をした人々を対象に広範囲な研究を行っていた。そして、至高体験が自己実現のプロセスにおける、重要な段階であると見なしていた。このような問題意識から、従来の二大学派に対抗した「第三の心理学」である『人間性心理学』を打ち立てていった・・・

 もうひとつは、生命科学におけるアルプバッハのシンポジュームにおいて、「人間的価値を受け入れ得る、新しい展望を持った科学の統合」を目指す論議が交わされていた1968年の時期、アメリカでは「人間心理学会」が開催されていた。マズローの晩年(70年没)である。

 当初マズローは、特定の方法によって「至高体験」を生み出すことはできないと考えていたが、晩年には、至高体験を能動的に呼び起こす方法を開発する必要があり、その方法をもった心理学は『第四の心理学』になると言う考えを発表している。

 そのような考察を模索する中、人間心理学会で自らの研究を発表する一人の精神病理学者との出会いが、「マズローの構想を現実化」するとともに、心理学の統合と新たなパラダイムを展開することとなる「第四の心理学」を誕生させることとなる。その人物こそ、『初代ITA(国際トランスパーソナル学会)会長』を務めることとなる「スタニスラフ・グロフ」である。

 心理学理論がほとんど一致することを確認し合った両者、そして人間心理学者である「トニー・スティッチ」を交えた三人の討議の過程で、「至高体験」や当時はまだ合法ドラッグであった「LSD」などによって引き起こされる『個を超えた意識の体験』を研究するパラダイムとして、『トランスパーソナルと言う言葉が生み出されたのである。そこには「個を超える」、あるいは「個と個の間を繋ぐ」と言う意味がある。西欧の心理学は、基本的に個の心性を対象とする学問であり、ここに「第四の心理学」である、『個を超えた心性』を対象とした心理学が初めて誕生したのであった・・・

 以上、『二つのシンクロニシティ』を、「偶然である」もしくは「必然である」と捉えるか、あるいは「無意識の繋がり」もしくは「意識的な一致」と観るかは、読者の自由意思に委ねたいと考える。但し、お断りしておきたいことは、私は『どちらが正解で間違いか?』を問題としていないということである。

『 万事全てに正解を求め、答えを出し急ぐ必要はない・・・。そしてこれらは、古来より希求して止まない『永遠の哲学』と呼ばれるものと同じと言えよう・・・。今しばらくは、ここ半世紀の簡略すぎるこの史実に『目を開き、耳を傾け』て頂きたい・・・

 1960年代は「パラダイム・シフト」を考える時、「非常に重要な時代(ターニングポイント)」であった。70年代に入ると、経済的な不況などもあり、一度このような動きは表面から消えていった。

 しかし、80年代に入ると、おおよそ10年ほど熟成され構築された思想としての著書が多く発表され、それが一つの「ムーブメント」として浮上し、いわゆる一群の「ニュー・サイエンス」、「ニュー・エイジ」と総称される動きとなるのである。

 80年代後半から90年代にかけてのニュー・エイジ的な動きは、ヴァーチャルリアリティやコンピューターネットワークなどの展開と呼応する「デジタル・アンダーグランド」的な方向と、チャネリングやヒーリングなどに代表される「ポップオカルト」的な流れに大きく二分されていった。

 90年代半ば頃から21世紀にかけては、ブームそれ自体は去ったが、ニュー・サイエンスの特徴の一つとされた「システム論」的な発想や、「包括論(ホーリズム)」的な思想は、科学の基本に組み入れられた。しかし、もう一つの特徴とされた「東洋思想」との類似や、「神秘思想・神秘体験」などの『メタ・パラダイム』に関する問題は、十分に学問体系の中には組み込まれたとは言えず、探究者それぞれの「個的探究に委ねられた」と言ってよい。

 一方、ホットな話題としてこの間には、「脳死の問題」や「ホリスティックヘルス/代替医療」、あるいは「気の科学的研究」など、『意識と生命』、『物質と生命』などの存在階層における境界面での問題は盛んに研究され、議論されるようになった。

 もう一つは、「科学と心の諸科学」との対話で大いに注目すべき成果として、認知心理学者の「フランシスコ・ヴァレーラ」などの科学者とチベット密教の「ダライ・ラマ」との討議を収録した『心と生命(1995年)』にて、霊的伝統に継承される叡智と西欧科学の探究方法に観られる「差異と共通点」を明確に浮彫にし、相互の距離がかなり明らかになったことが挙げられるだろう。その上で、「人工知能の研究と意識の問題」のように、相互の探究が重なり合うなど、情報科学や認知心理学、そしてコンピューターサイエンスと意識の研究がもっとも注目される分野になることが推測された・・・

当時の私はそこに、霊的伝統に秘められた智慧が不可思議な魅力を持って蘇ってくる予感を覚えた・・・

 世界は、四方八方十方に創造的進化を開花させ、私たちはその深淵で眩い「次元の存在と認識」の狭間において「価値と意味」を見出す。世界の「四つの領域」、「八つの視点」、「十の事象」は、そのまま私たちの全てのリアリティに他ならない。個の内面と外面および集団の内面と外面の領域(四方/四つの領域)、その個と集団の内面・外面それぞれの内側と外側の視点(八方/八つの視点)、それらの上下、高低、浅さ深さを含む事象(十方/十の事象)は、私たちの「存在と認識」、「価値と意味」のリアリティの次元を示す。それは、「今ここでの多次元構造」、「存在と認識の12段の階層」、「価値と意味の総計16の基底(源泉)と超越(至高/絶頂)の環(ループ)」・・・

共創造的進化の全貌コード・レジーム・カノン・ループ・パターン・サイクルを解き明かすもの・・・

それらはまさに、私たち個々の意識のレベル、コスモスのアドレス、アイデンティティーを決定する・・・

 そのような洞察を得た頃、10年前(1985年当時)の『若きニュー・サイエンスの旗手』が壮大なスケールに変貌を遂げ、現代思想の世界に再登場してきたのである。

第6章|奇才の人『ケン・ウィルバー』の再来

 一群の「ニュー・サイエンス」、「ニュー・エイジ運動」、「トランスパーソナル」など、時代において呼び名を変転しながら、表層のパラダイム・シフトは、深層の『メタ・パラダイムの転換』を基底として展開されてきた。

 ニュー・サイエンスの教祖的存在であった「フリッチョフ・カプラ」の著書『タオ自然学』が、その認識を科学の世界から一般社会の広範囲の読者にまで関心を高めた頃、その当時、若干23歳の一人の若者が、生化学の大学院をドロップアウトした直後、三か月で書き上げたとされる『意識のスペクトル(原書:1972年/公刊:1977年/翻訳:1985年)春秋社』が威光を放ちながら出版された。

 その彼はほとんど一夜にして、当時もっとも幅広い「哲学的思想家」、「ニュー・エイジの旗手」、あるいは「トランスパーソナルの代表的理論家」と世に言わしめ、『私たちの時代の独自な存在』として出現したのである。その人物こそ、現代の覚者と言える『ケン・ウィルバー』、その奇才の人であった。

 その影響力は、当時のニュー・サイエンスの教祖「F・カプラ」でさえ、ウィルバーの批判を受けて変貌するなど、F・カプラの二冊目の著書『ターニングポイント』にはその反映が伺えるほどである。

 ウィルバーの処女作「意識のスペクトル」では、人間の発達が、「西洋心理学」で一般に認められるものを超える「独特の段階」を経て展開していくことを論証する。それは、各発達段階を成功裏に経過することによってのみ、まず「健全な自己意識」を発達させることができ、最終的に『個的自己を超越』し、そして包み込み、より広い『アイデンティティーを体験』することができる・・・とウィルバーは論じている。

 つまりウィルバーは、それまでは一見相容れない相違のために分離していた、『フロイトと仏陀を結合』したのである。しかもそれは、彼の多くの独創的とも言える業績の先駆けにすぎなかった。特記すべきは、人間心理学を含んで超える学として登場した「トランスパーソナル心理学」が、ウィルバーらの活躍によって、『心理学の最新の潮流』を形成していったことであろう。

 しかし、「トランスパーソナル心理学」自体が、その根底に当初から豊かな主流社会への密かな依存があったことは否めず、それが1990年代には表面化し、運動の意義とスタンスが問われ、沈滞期を迎えて行くこととなる。その様相の中、1996年においては「日本トランスパーソナル学会」が結成されるが、本場米国では既に運動は沈滞しつつあったのである。

 ウィルバー自身においても、その後のニュー・エイジ思想等に代表される「内面主義」、「退行的発想」に対する批判を強め、自身のホームページにおいて『トランスパーソナルとの決別』を表明している。

 「意識のスペクトル」の出版以後、ウィルバーは個人的な事情(奥さんのガン)もあり、ほぼ10年の間は本格的な著書と言う意味では休筆状態であったことも重なり、やや忘れられつつあった・・・

 しかし、『進化の構造(原書:1995年/翻訳:1998年)』とその要約版『万物の歴史(原書・翻訳とも:1996年)』を著して現代思想の舞台に再登場してきた時、ケン・ウィルバーはもはや先の表現では表しきれないほど、『極めてスケールの大きな思想家・哲学者』に変貌を遂げていた・・・

 つまり、ウィルバーはもはや、「ニュー・エイジの旗手」、や「トランスパーソナルの代表的理論家」と言ったレベルを遥かに超え、アカデミズムの内部にも絶大なる支持を得て、大きな影響を与えつつある『本格的(オーセンティック)な哲学者・思想家』に成長・変貌を遂げていたのである。(ウィルバー:46歳/筆者:28歳の頃)

 近年のケン・ウィルバーは勿論のこと、沈黙に至るまでの彼の貢献には、「未だ比類のない巨大な物」があった。また、彼の心や意識に対する探究が、一貫して瞑想に基づく『至高体験がもたらす深淵なるリアリティの知覚』を基盤としている。その伝達が言葉を絶し、言語がその習性として語られうるもののみを伝えるしかないそのジレンマは、恐らく彼の沈黙に観ることができるであろう。しかし、当時も現在においても、彼の意念が、現実的な『統合的ポスト形而上学』の樹立であること、「心理学の根と枝を少しも傷つけることのなく、形而上学の豊かな土壌に根付かせる」ことを目指し、そうすることで過渡期の混乱から、「西洋心理学と精神医学」、そして「東洋の諸宗教と神秘主義」の双方をも救いだして、『より豊かな統合』をもたらそうとする意図に対し、私は心より敬意と賛辞を表する・・・

 威光を放つ、ウィルバーのデビュー作「意識のスペクトル」では、私たちの視覚が可視光線だけを拾い上げ、その他の帯域を知覚できないように、意識にも私たちが普段「接続(プラグイン)」していない様々な帯域、あるいは振動レベルがあることを示唆する。そして、人間の精神ないし意識に関する異なった観察やアプローチ(その対立の典型として「西洋的」なものと「東洋的」なものがある)は、それぞれスペクトルの異なった帯域に「接続」しているために対立しているように見えるだけで、実際には相補的に統合されうると彼は主張する。このように意識を「階層」、ないし「階梯」として捉え、それぞれの階層・階梯を詳細に検討し、しかもでき得る限り様々な探求を、それぞれの階層・階梯に位置付けていったものが、『意識のスペクトル論』の基本的な構図である。

 それらに対する全くの異論が私にあるとは言わないが、しかし、意識を「スペクトル」になぞらえることは、微妙な危険がつきまとっている。ウィルバー自身がその後、意識の領域に「物質科学のアナロジー」を持ち込むこと自体に再検討を加え、それが『空像としての世界(1992年)』における「ポップ神秘主義」への批判や物理学と意識の問題を中心に据えた執筆につながっている。この点、「量子力学的認識」と「神秘主義的文献」に観られる符号を手放しで歓迎しているあたりは、ケン・ウィルバーの若書きのナイーブさが見えなくもない。

 ただし、その読解力は相当なもので、ウィルバーは「意識のスペクトル論」をまとめる上で、その下地に「フロイト派精神分析」、「瑜伽行派仏教」、「ユング派精神分析」、「ヴェーダンタ学派」、「ゲシュタルト心理学」、「金剛乗仏教」、「統合心理学(サイコシンセシス)」などの理論ソースを縦横に駆使し、それから抽出された三つの主要な意識の帯域と四つのマイナーな帯域からなる「意識のスペクトル論」を見事に展開している。

 そして大まかに言って、西洋のアプローチが『個人の自我を補修』することを主眼に置いているのに対し、東洋のアプローチは『個我と呼ばれる自己を超える』ことを目指しており、「知の様式」には西洋科学が代表する「象徴的」、「推論的」な『二元論的第一様式』と、東洋神秘主義に説かれるような「直接的」、「無媒介的」な『非二元論的第二様式』があることを指摘する。

 こうして『知の二つの様式』を述べた後、ウィルバーは「知の様式が意識のレベルに対応し、リアリティが特定の知の様式であるならば、リアリティとは一つの意識レベルである・・・。」と言う、『驚くべき結論』を述べる・・・

『 つまり、一方に「知の対象としてのリアリティ」があって、もう一方に「リアリティの知識」があるのではなく、「非二元的知と言うものがリアリティそのもの」であり、また「非二元的知が一つの意識のレベル」に対応するものであるならば、『絶対的実在』とは、「それを知覚するレベル」に他ならない・・・ 』

 これは恐らく、言語の達せられるギリギリのところであろう・・・。

 ケン・ウィルバーは言うまでもなく当時から、深層の『メタ・パラダイム』によって『自己の基底』を力強く支えられ、その働きによって可能な限りの『自己の超越』が開花(表現)されていたであろう。

 そして、「意識のスペクトル」以後に出版された、『進化の構造』、『万物の歴史』へと帰結する・・・

 そこでは、現代の物理学、生物学、エコロジー、システム科学、複雑性の科学、構造主義、ポスト構造主義の哲学、人類学、現代社会学、様々な派の心理学、東西の神秘思想及び伝統的宗教など、おおよそ何でも知っているのではないかと思うほどの「膨大な知識量」を、見事な思想体系にまとめ上げられた、『全ての本である、一冊の本』とも呼べるものであり、私たちの生きている宇宙がどのような構造で進化してきたか、進化し続けているか、『壮大な見取り図(ビック・ピクチャー)』を提示したのである。

 しかもそれは、物理学などが描いてきたような、「単なるモノとしての宇宙(小文字の「cosmos」)」の平板な見取り図ではなく、物質と生命と心と魂と霊を含む『真の全体としての宇宙(大文字の「Kosmos」)』の、ダイナミックで立体的な構造図であり、もちろん進化の歴史の中の『人類の歴史の流れ』も的確に捉えられている。

 「進化の構造」とその要約版「万物の歴史」に対しては、ウィルバー自身が『コスモス3部作(Kosmos Trilogy)』と呼ぶところの「第一部として構想」され、妻トレヤの死後、数年の喪に服した後、3年もの歳月をかけて著した大部の著作である。その思想的営為は狭い意味での心理学を抜き越して、文明論的視野を持った思想家として世界的に認知され、それまでの「個人の領域の成長」、あるいは「集団の領域の成長」を単独で取り上げていたのに対し、これ以降は『人類と世界の統合的な探求(インテグラル・ヴィジョン)』へと開かれていった。その後、21世紀を向えるまでには、『インテグラル理論』として具体的に説き明かされ、今世紀のおよそ10年間で『ひとつの探究領域』として急激な成長を遂げ、今日では、世界中でこのエキサイティングな領域に関する学術会議が開催されるまでに至っている。

 さてここまでに、『インテグラル・トランスフォーマティブ・プラクティス』(Integral Transformative Practice, ITPと略記)と呼ばれる、現代の「統合的で変容的な実践」の諸提案をいくつか簡潔に見て行く準備として、現在までの半世紀の間、僅かながらの人々を突き動かしながら、それでもなおも置き去りにされつつある『ガイスト・サイエンス(霊的瞑想科学)』の背景と足取りを、幾分簡略すぎることは承知の上で科学の視点から遡り観て頂いた。

 前述したように、この半世紀での出来事は、「私の人生」にとってだけでなく、「時代を共有する人々」にとって、非常に重要な『歴史的変革期(ターニングポイント)』とも言える、いくつかの概念、理論、哲学、思想が世に誕生した。

 現在では、その出自がどの分野から発生し、どのような意図を含む定義と概念かに関わらず、私たちの日常に溶け込み、それらはコミュニケーションの中で一般的な共通言語として使用されているものも少なくない。

 特に現在は国を上げて、「科学的リテラシー」の一般国民への普及が盛んに叫ばれると同時に、「科学倫理」が世界的に問われるようになったその背景には、「グローバル社会における共通の問題」に対する意識向上と問題解決が、今や世界の国民一人ひとりに委ねられている時代における、共通の「環境倫理」、「生命倫理」などが、広く一般的に必要不可欠であると言った「認識の重要性」を物語っている。

 歴史上に観る、これら現代の意識の高まりには、現代文明における「目に見える表層の危機的事象」への反応は勿論のこと、「高度な情報化による共通認識」がもたらした結果であることは間違いない。

但し、現在に至るまでにおいて既に、「現代の危機的状況」や、その問題を生じさせる原因に言及した情報は、少なくとも過去50年、いや何世紀もの前から、特定のある限られた人々によって叫ばれ、議論され、そしてその解決方法までが提案されていたことを見逃すわけにはいかない・・・

『 私が言わんとする『失敗の歴史(成功の歴史でなく)』と呼ぶもの・・・それは、貪欲すぎる個人、集団、組織、国家が観ようとせず、ついやり過ごしてしまう、物事全てが内包する『価値と限界』、『真実と盲点』の「適切な追求と徹底」、そして「転換すべき行為の欠落」・・・それらに果敢に挑んだ著名な専門家であれ、卓越した一般個人であれ、その理に叶った諸提案への「全体的な容認と実施の痕跡」には、『人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語』が過去と現在に渡って存在し続けている・・・これまでに多くの叡智が、影を潜めることなく在り続けているにも関わらず、その存在の認識だけが情報として出回るだけ出回り、『本質的な行為としての人間的知覚』を通り越す形で世に広まってきた・・・

 つまり私たちは既に、「有意義な認識の存在」、その「認識の重要性」、それら「認識を伝える情報網」は整備され、いつでも『獲得可能な状態』にある。しかし、その「有意義な実践の存在」、その「実践の追求性」、それら「実践を現実化する徹底度」は無視され、いつでも『危機崩壊の状態』を招きかねない。

 そして、いつの時代も「認識と存在」、「無知と無義」、「対象と主体」の分離と分断が『失敗の歴史』を繰り返し再現するのである。

 たとえ優れた「知識」や「技術」や「方法」を豊富に所有していても、『高度な認識力』が欠如していれば、 結局のところ、その可能性を十全に引き出すことはできないであろう。しかし、その認識に至り、実践力を発揮するのは『自己の存在と力動』に他ならない。

 現在は『表層のパラダイム』を得ることは、従来のように「単体の知識を得る」ことさえ難しい時代とは比べ物にならないほど容易となっている。何よりそこで必要とされるのは、「自己の存在と力動」であり、『深層のメタ・パラダイム・ダイナミクス』の「創造性と潜在的可能性(生得の力)」に根付かせた、『統合的共創造による成長(発達/進化)』である。

第7章|東洋の目に映る『慈悲と叡智』

 私自身にとって、1985年から1995年(18歳~28歳)の10年間は、出生から高等教育を終える18年間までの「美(個人)、善(文化)、真(社会・自然)」に対する存在と認識、「パーソナリティーとアイデンティティー」など、未発達で未顕現な自己を激しく揺さぶる期間であった。

 幼少期の頃から、絵画や音楽に早くから興味を持っていた傍ら、科学や歴史、哲学や文学にも興味が大いに有り、それは小学校の高学年から始まり、既に中学生の頃になると、よく古本屋に通っては、まだよく理解のおぼつかない科学書(ダーウィン)、哲学書(カントやニーチェ)や文学書(ゲーテやミヒャエル・エンデ)などを手にし、夢想・空想的な世界に浸ることが何気に好きだった。絵を描くことには異常に興味があり、小学4年生の頃には授業の合間や昼休みには、毎日飽きもせず、色々な風景や置物をデッサンしていた。そのための用紙を手に入れるため、皆が嫌がる放課後のゴミ焼却当番に手を挙げ、職員室から運ばれてくる用紙を選り分けては、絵が描ける適当なものは焼却せず、せっせと集めてはデッサン用紙として拝借した・・・。

 中学に入学する頃には、音楽にも興味が湧き、同級生のお姉さんに無理を承知で500円にて何とかクラシックギターを譲ってもらい、毎日練習してオリジナルな楽曲を作成しようと奮闘していた。絵を描くときは、キャンパスと絵具と筆さえあれば、いつでもすぐに描けたものが、楽曲はそうは簡単にいかなかったため、返って空間芸術よりも時間芸術にのめり込んでいった。詩を書くことは案外と思うように表現できたので、沢山書いたものを今でも大切に保管してある。絵は小学校・中学校を通して、ポスターなどの出展で評価されたものが海外にまで行ったこともあった。

 中学卒業後はすぐにでも都会に上京して、音楽の道を目指そうと考えていたが、親の説得によりギリギリ二次募集の公立を受験して高校に通うこととなった。正直なところ、私は親からも世間からも、そして中学時代の教師からも、まじめでおとなしい子供とは受け止められてはいないことを、自身が一番理解していた。高校入学時も、成績以外の内申書と言うものは、担任が親に告知するほど酷いもので、元々私立の受験は受けることさえ無理な状態であった。私の祖父の従兄には、有名な私立高校の教頭を務める親戚がいたのだが、きっぱりと受験・入学は拒否されるほどであった。高校時代は1年生と2年生の時に二度の家出を決行したが、二度とも親と教師によって連れ戻された。何とか高校卒業まで通えたのは、親と当時の担任、そして親友たちのお蔭である。

 つまり、私は幼少の頃から変わり者で、18歳までは手におえない若者として、かなりわがままな人生を歩んでいた。しかし、故意に他人を傷つけること、人間のルールを犯すことは自分自身が一番嫌いなことで、その点から言えば、私は「自由意思の尊重」ということを人一倍意識し、その可能性をバカ正直に信じて少年時代を過ごしてきた。

 その後の人生におけるエピソードは割愛するとして、2014年現在(47歳)、ここ3年間は隠遁生活を送っている。その前の1年間は持病の進行性筋ジストロフィーに加え、非定型(非結核型)抗酸菌症と言う、もう一つ厄介な病気に見舞われて往生するなど、ほぼ完全に身体が病に蝕まれると同時に、初めて精神的な限界(うつ病)も体験することとなった・・・

『 人はいつも学ぶとき、そこには「洞察による学び」が在り、「破局による学び」が在る・・・。「受動的な学び」が在り、「能動的な学び」が在る・・・。そして、「偶然的な学び」が在り、「必然的な学び」がここかしこに存在する・・・。そこから得(う)るものが、知覚であれ、核心であれ、覚醒(悟り)なるものであれ、いずれにおいても「自己(おのれ)の意」が働いている・・・

 私は何かを学ぶ際、まずはその『「意」を格(ただす)』。意とは、「立」と「日」と「心」の三つで組まれた字であり、「立」は方向性を立てることを表しており、身体の器官で言えばそれは「脳」で、働きは「思考」である。「日」はもともと「目」であり、見(観)ること、対象に目を向けることを表し、「感覚器官」を総称している。そして「心」は、その対象を感じると言う働きを示しており、「内臓器官」を指している。それらの『マインド(思考)・目・ハート(心)』を外側だけに向けるのではなく、内側にも向ける(内観)のである。

 本当の「学び」とは、その「意」を効果的に用いる方法(働き)を得て、『生命力(生得の力)』へと練り上げていくことによって、「マインドと目とハート」が内外世界に開かれて安らか(自由)になり、愛と喜びと幸福、そして尊敬や礼節の念を呼び起こすことである。つまり、自己と世界の全ての領域において、「優しさや穏やかさ」、「勇気や寛大」、「公明正大」などの『徳の質を呼び覚ます』ものである。

 より正確に表現すれば、日常の生活水準の尺度というものが、物質的、あるいはその量一辺倒のものではなくなり、人生体験の質や意味に重点を置くようになり、同時に他人に対する寛容さや人生に対する敬意、時に生の冒険に対して正当な評価を与える『慈悲と叡智の自得に格(いたる)』ことである。

『 私たちはいつでも学ぶことができる・・・。その意を創造的に活かすことができる・・・。本当の学びを始めるのに遅いも早いも全く無い・・・。如何なる道(人生)であれ、その存在の価値と意味に大小など無い・・・。「慈悲と叡智」には、そのような打算は一つとして無い・・・ 』

 私たち東洋人が「道」において「徳」を成すと言うときの『智・仁・勇』とは・・・「智」は『迷わない為』、「仁」は『悩まない為』、「勇」は『怯えない為』の、「人為の智慧」を言い表す。つまりは、人生(道)の処世術としての知恵(徳)となる。

『 しかし、私はもうひとつの「道」と「徳」が在ることを語ろうと思っている。それが、東洋の目に映る「慈悲と叡智」と言うここでのテーマであり、「ユニバーサル・セックス(大道)」に繋がり行く・・・ 』

 それは西洋で言うところの、「エロスとアガペー」、「上昇(アセンディング)と下降(ディセンディング)」、「オメガとアルファ」、「一者と多者」、そして「パラダイム」に対する『メタ・パラダイム』と言える・・・。

 ところで、私たち日本人が「東洋全体の一部」であることは間違いない。しかし、西洋人という言葉が、文化的な均一性を前提とするなら、アジア世界、つまり東洋人はとても均一とはいえない。文化的にもそれぞれ独自なものを持っており、なにより西洋では根幹であった「宗教文化」は、アジアでは一つのまとまりももたなかった。とくに東アジア、とりわけ中国中原では、宗教はいわば「枝葉の文化」であり、古代的な視点でみると、このことが奇妙な暗号に思える。

 そもそも東洋世界において、洋を東西に分けるという概念が存在しなかった。東アジアの例からすれば、唯一「中国中原の文明」だけが世界の中心にあり、その他はすべて辺境である。日本の古代史、及び文化について語るとき、このことがいわば「普遍的な背景条件」であったと言ってよいだろう。

 これに従えば、中国中原たる大陸を起点とする周辺地域は、それぞれ的確な呼称がある。かつての満州と言った地域は「東北」であった。朝鮮は「半島」であった。日本は「列島」であった。これらが単に「地理的概念」でなく、歴史的な背景条件であることは、古代にあっていかなる政治的・文化的な活動も、文明の枠組から逃れようがない。大陸・東北・半島・列島という水平的な概念において、特に日本の「列島としての特殊性」があるとすれば、一海を隔て、そのために人的・文化的な伝播ないし交流がひとつのクッションをもつということであろう。

 中国中原の文化、とりわけ「漢の400年にわたる時代」を通じて、この西周・東周の時代の文化は至上のものであり、その思想と観念が、文化の核として東北・半島・列島をたえまなく洗っていき、すべての文明は辺境にその古様式が残る。列島(日本)にあってはそれがとくに顕著であった。そして、後漢の時代に初めて日本が歴史に登場する。

 それにしても、東洋の極東とも呼ばれる日本の文化は、中国四千年の歴史に観られる「文化・部族の衝突と革命の連続」に対し、大きな革命的史実はそれらに比べれば、「革命」などと呼ばれる出来事は無いに等しい。

 しかし、「伝統の継承」と言う歴史的視点においては、天皇家に観られる二千年におよぶ「家系の連続性」などは、世界に類を見ないのが事実であり、そこに日本人としての『大きな誇りとアイデンティティー』が存在する。

 また、本質的な日本独自の哲学や宗教に関しては、「武士道精神」にしても「神道の精神」においても、特定の「教祖」なる人物もいなければ「教典」などもなく、文字による確固たるひな型は無いに等しい。  

つまり日本人は、自然発生的なものとしての哲学・宗教らしきものを、その精神でもってのみ伝達・継承する特異な性質を有する民である。

 他国の文化の受容については非常に寛容でありながら、なにかしら独特のフィルターを通して受け入れていったらしいく、オリジナリティーというものがつとに保たれつづけていたという感触はつよいものがある。つまり、『和魂洋才』、『和魂洋芸』と言われる由縁である・・・。

 これらに言及することは、私たち日本人の『東洋全体の一部である全体』として、とてもユニークなテーマではあるが、今はそれに深入りすることはしない。ただ、現代の日本人は、すっかり西洋化する中で東洋からも孤立的な位置に立たされつつあり、本来、日本人としての「大きな誇りとアイデンティティー」を世界の中で発揮することがままならない状態にある。しかしそれは同時に、私たちが『本当の学び』を必要とする時期を迎えたと捉えるのが賢明であろう。

 とりわけ、現代の表層的な「情報化」、「グローバル化」、「多様化」は、『本格的な統合』に向かう過程における『本質的な分化』を促進し、それらは、それぞれの国家や社会、文化、組織、家族、個人に至る、人類全体を構成する部分の全体を適切に理解・尊重するためには重要な過程である。

 その過程で、それぞれに『価値と意味』を与え、一片の疎外も傷つけることもなく、それぞれを世界の全体として断片化することなく位置付け、「共通の命(スピリット)」と「個々の命(ソウル)」の『成長と発達に参与する権利と責任』をも等しく与えられるかが、私たちの『共通の命題』であろう。

 表層の情報化、グローバル化、多様化の「化」は、『「一様(統合)すための遠心力』であり、真なる「多様性の中の統一性の実現」は、その深層(根底/基底)に在る、『慈悲と叡智なる求心力』によって結実(帰一/帰結/帰還)する・・・。

『 因果に縛られず、宿命を立命に転換し、偶然性を悦びへと導く、尽きることの無い「慈悲と叡智」の根源なるものへ能動的に繋がる必要がある・・・。そして、あなた自身がそのものに「抱かれ満たされ」なければならない・・・。人々が本当の自由を手にすることなく、そのものに繋がることができなければ、人々は永遠に苦しむこととなる・・・ 』

第8章|『創造性』と言う進化の物語

 私たちは日常的な生活を送る中で、知らずうちに「束縛」と「呪縛」の両方に陥っている。そこには現代に観る「3つの落とし穴」、「心理的自我に留まらせるブロック」、「弱者と強者の病理」、「乖離した知」など、昨今の『差し迫った危機』を生み出す元凶が横たわっている。

 かなりネガティブな話題と言えるが、冒頭にも述べたように・・・「本当の問題」から目を背けることなく、その現実に分け入る勇気があるならば、『闇と深淵の中』にこそ、『常に私たちを癒す真実』が潜んでいる・・・と私は観ている。是非読者の方も、目を背けることなく、しっかりと認識して頂きたい。

 まずひとつは、社会生活の上での取り決めや文化様式が、一定の範囲内で有効であるにもかかわらず、「人間の価値観や行動」に強い影響を及ぼし、それが『唯一の現実と混同』する傾向がある。

 一見健全に社会や文化と対応して生きているように見えても、多くの現代人は「仮面的な自己」を保つことに窮々としており、様々な精神的危機の多くが、おおよそこのレベルで発生する。そして、影にして疎外していた『自我との分裂』を引き起こす。

 一般に、自我の確立よりも「集団的調和」を美徳とする日本人は、社会・文化的帯域の無意識に取り込まれてしまっている傾向が強い。また、今日のように競争が基本的な文化の行動規範である社会では、人々が互いに愛し合うことを学ぶのは大変困難に近く、ここに「神経症」や「精神病」を生み出しうる『二重の拘束』が組み込まれている。

 二つ目は、知識偏重の現代社会に生きている私たちは、「思考(マインド)」や「心(ハート)」に偏りがちで、すっかり『身体(ボディー)』を忘れがちである。

 目を閉じて「身体の感覚」、「衝動」、「エネルギー」、「筋肉の働き」、「呼吸」を探求してみれば、思いがけない事実に直面するであろう。

自我としての私は、身体を所有していると思っているが、自分の身体の多くの部位にほとんど感覚がないという事実を発見する。現代人で「心を手放す人」はほとんどいないが、多くの人は既に身体を失っている。

 三つ目に、少なくとも個人、家族、宗教、企業、国家に至るまで、『自らのアイデンティティーが持てる範囲の保全』に躍起となっており、自我を中心とした狭い範囲で人生を眺めると言う、基本的な意識の在り方と姿勢から様々な問題が浮上してきている。

 社会的に一定の目標が共有されている時代であれば、このような姿勢も社会の活力とともに修正されていくのだが、価値観が相対化し、地球規模での「エコロジカルな危機」が露呈することにより、成長の限界も見え、経済的な停滞状況(格差社会を含む)が世界的に広がる中で、未来に対する「安易な目標設定」ができないと言う『閉塞した時代』に私たちは置かれている。

 この様な状況下では、「自我の無限拡大」を目指す衝動は押さえられ、強いては『非常に深い空虚感』や『ニヒリズムが横行』することとなる。中には我を忘れて『狂気に陥る者』や、今日の『倫理的な退廃』の基本的な構図がここに観られる。

 これらの心理状態を癒し、意識の成長・進化を促す「精神伝統の指導者」として歴史的人物を挙げるならば、「仏陀」や「老子」、「イエス・キリスト」をはじめとする覚醒者が挙げられる。

 今日の時代で言えば、彼らは当時の「ヒーラー」であり、「サイコセラピスト」を代表する人物であり、およそ2500年前には、既に私たちの「平均的意識」である『心理的自我段階』を抜き超え、時代をリードする役割を果たしてきた。

 その間に、彼らのような突出した意識を獲得した人物は、「神」や「仏」として、人間以上の「超越的な存在」として聖化し、神格化、神話化され、「尊敬と畏怖」が同時に、平均的な心理的自我段階に人々を留めることの、それはまたアリバイにもなっている。

 つまり、『仏陀や老子、キリストのような人物は、神のごとき卓越した人々であるから、あのような悟りも犠牲もできたのであって、自分たちには決してできない』と言う、心理的自我に留まることを良としてしまった。

 2500年間の心理的自我は、今や有機的なものとして心身に染みつき、『人間の潜在力をブロック』してしまったのである・・・。

 また現代は、物質的に豊富となり、その様相は「パラダイス」と言ってよいだろう。先進国に住む私たち日本人の生活は、基本的な衣食住を十分に確保でき、飢えに苦しむような「生存レベル」においての危機は、今のところ回避されている。

 また、ある一定の自由と喜び、自己実現への活動機会とその権利は保障されている。しかし、内情は経済格差がもたらす「心理的外傷」が日常的に襲っても来る。そのような状況に曝されている人々の多くが、恐怖心を基本的衝動として外界を見ることにより、『自己保全や安心感の獲得』を最大の課題にしてしまう。

 そのため、常に疑いと不信感に付きまとわれ、現在の状況を心行くまで体験できず、恐怖がもたらす現状から抜け出そうとあがき苦しむように、常に現在から逃避しては、何らかの「未来の目標」を達成しようとする。

 こうして、『ゴールをがむしゃらに追及する衝動』が生まれ、目標に執着したあげく、追い求めることに疲れた時には、「自己のアイデンティティー」はすっかり「無意識の影」となり、自己イメージが保てなくなると「社会的対応」が思うようにできなくなってしまう。

 それは単に満たされないばかりか、長い目で見ると、『自他に対しても破壊的な人生』を送ることに繋がるのである。(弱者の病理)

 また、この「無意識の領域の魔力」の下で生きる人間は、自分自身、自分の家族、宗教、国と言った狭い視点から人生を眺め、他の人々、集団、国家は競争者として、あるいは最悪にも世界は潜在的な脅威として、自然をはじめ外界は「征服支配すべきもの」と感じられる。

 こういった「心の枠組み」が、集合的な地球的規模で「力や競争」、「自己主張を強調」することをよしとし、線型的な進歩や限りなき成長を賛美する人生哲学を生み出す。

 この姿勢は、現代のグローバル経済と情報社会を巧みに利用するものにとっては、そのシステムの基盤を最大限に活用し、物質的な利益と国民総生産の増大を幸福の第一基準に仕立て、生活水準の尺度と見なして世界的に拡大を図る。

 こういったイデオロギーとそれに由来する戦略は、人間を生物学的システムとしての自らの性質を、『深刻な対立関係』に陥らせ、基本的な『宇宙的法則との不調和』を招く。(強者の病理)

 現代の『病理の両輪』は、様々な社会問題が解決不能とさえ思える状況に立ち入らせ、前述の「心理的自我への執着」が密接な関係として長期に結び付き、現代の『差し迫った危機』をもたらす元凶になっている。

 人類は歴史上、かつてないほどの複雑で大掛かりな危機に直面しており、実際に社会的、政治的、経済的、生態的、倫理的危機の直中に立たされている。その深刻さの度合いは、ここ30年間において急激に増しており、その細部には踏み込まないが、21世紀の現在が人類史上、これほどあらゆる面において一時に差し迫った危機に曝されたことは無かったと言えるほどである・・・。

 

『 この危機は、現代人が首まで浸かっている「理性(合理性)」や「知識偏重」の社会的文化的方向性に横たわる「二元論的な思考と行動様式」が、未だその根にあることは間違いないとは言え、本質的には私たち自身が陥ってしまった「乖離した知」の産物によるものである・・・ 』

 確かに、「人間の生」に限らず、宇宙全体の事象は『対立(二元性)』に基づいて、「相互に作用する対立」があることによって存在している。左右・上下・前後・大小など、あらゆるものすべてに相互作用する対立が観られる。

 しかし、それらに対する私たちの「知覚や認識」と言う現象、あるいは共有している「意味や価値」の源泉はどこに在るかと言えば、人間が中心にあるわけでも、世界が中心にあるわけでもなく、この「二つの間」、即ち、『人間と世界の中間』にその源泉が存在している。

 科学であれ、哲学であれ、宗教であれ、また自己や文化や社会、あるいは政治、経済、生活、そして自然と言った、いくつかの「参照先と言ったものの意味や価値」は、ただ一方に存在するわけではなく、人間と世界の中間に存在している。

 つまりそれらは、外世界にも内世界にも、どちらかに『絶対的中心』が存在するのではなく、全てが生き生きとした活動を可能とする有機体全体の『絶えざる変化の流れ』の中で、私たちと世界を結び、今ここにおいて「相互出現」、「相互のプロセス」の内に結実される、『現前たる瞬間の現実』と観なくてはならないであろう。

 科学、哲学、宗教のいずれもが、人間の『存在と認識の基準点』を求め、それぞれが世界には意味があると考え、その世界の意味を求め、そこに人間の認識の基準点を置こうと探求を続けている。

 しかしその意味は、私たちが歩んできた歴史の中で作られ、それを解明していく手立てを固定的で断片的な見方だけに力を注ぐだけでは、『肝心なもの』は観えてはこない。それは私たち「人間の生」にとって、「必要な条件」であっても、「十分な条件」とはならない。

 全宇宙、全生命が存在するための『絶対条件』を考えることなく、私たち人間の生や世界の意味や価値は語れない。それは『創造性と言う進化の物語』である・・・。

 物質から生命、そして心へと、「創造的進化の物語」は前もってプログラムされたシステムなどでは語りえない。創造性を獲得するには、『世界を生み出す能力』がなければならず、それこそが創造性に他ならない。

『 創造性とは、基準点を放棄し、参照すべき意味の根拠の探究をあきらめ、内にも外にも規範を求めず、そのことを恐れないで生きるところから生まれる・・・ 』

 現実の「境地」に分け入り、「悠々自適の道」に至るには、その当然の条件として『研ぎ澄まされた感覚』を必要とする。一つの中(一を極める)から無限の情報を読み取る(全体性を得る)には、閉ざされた超感覚を開き、体ごとそれを受け止める『実感力』を必要とする。

 そうして発達する『共感性(統合的包含性)』こそ、新たな世界の基底として、すべての人類に必要とされる能力であり、『身体』は本来、そのためにこそ重要な『高性度のアンテナ』なのである。

 多くの人々は「肉体が外側」にあり、「内なるものは心」だと思っている。生命は神経系の発展から結果的に脳を生み出し、私たちが心として捉える「思考の力」は生命進化の最後に生じたものである。生命の基礎はむしろ「身体」にあり、その奥にこそ『宇宙と言う実在と創造性に繋がる扉』がある・・・。

第9章|『スピリチュアル』への認識と弊害、そして混乱

 現代の「スピリチュアルの信奉者」の中には、その点について大きな誤りを犯しているものが多い。特に西洋型の「サイコスピリチュアル(心理的・霊的)なプラクティス(修行・実践)」を試みる人々が『真に統合的・変容的な成長(インテグラル・トランスフォーマティブ)』が開花していく例は稀であるように見える。

 しかし、東洋型においても、インド思想が後の時代に変容させたその概念にも、肉体の存在を「カルマ解消」のための足枷であるかのように捉える傾向が伺える。

 西洋の大半は依然としてルネッサンス以来、確立に執心してきた「個」にしがみつき、個を越えようとする努力などは逆に退行か逃避としか見ない一方、過剰な「上昇志向」とも言える、「意識のみの偏った超越」や「アルカイック(古層・古代)的な終末論や時間波ゼロ」など、ハイパー・アセンディングと退行的なレトロ・ロマンやポップ・オカルトも横行している。その傾向は日本においても同様であり、「スピリチュアルな混乱」は今日において一層高まりつつある。

 現代において、「スピリチュアル」と言う言語そのものに対する、ある種の抵抗感や違和感、あるいは非科学的で退行的な迷信のように捉えている人々も当然少なくはない。中には宗教や信仰そのものに抵抗を示す「無神論者」から、霊能力や超越的世界への不信感と胡散臭さを抱くのも、今日の文明社会では仕方のないことであろう。返ってそのような話題を真剣に議論することさえ、バカバカしいと考えるのも止むを得ないほど、論理的な理性重視の時代を私たちは生きている。

 但し、古来より「命(いのち)」のことを、『スピリット(霊)』と呼ぶことがある・・・。

 特に日本で「霊(たま)」と言うとき、そこには『「」「」「が宿る』ことを現し、自然の樹木から岩、石ころまで、はたまた言葉(言霊)、数字(数霊)など、人を含む森羅万象に霊が宿り、「八百万の神」として数多くの神社にて祀られている。

 そして、その場を中心に人が集い、文化が形成され、一年間に催される「祭り」は、世界に類を見ないほど数々の種類が存在している。人々のコミュニケーションと喜び、時空を超えたいにしえの伝統と精神を繋げて行く神聖なる場として、今なお人々に慕われ、崇められている。ちなみに「祭り」は、「交わり(まじわり)」を意味する。そこには、『全て(人を含む森羅万象)との交わり』が意図されている・・・。

 それに従うならば、一人ひとりの人体に宿った命を『ソウル(SOUL)/ 魂』、共通の命が『スピリット(SPIRIT)/ 』と呼ぶことができる。

 ソウルであれスピリットであれ、いのちとは、『ある空間の持つポテンシャル(エネルギーの総和)』と言ってよいであろう。

 私という人体は、地球上である一定の空間を占有しており、その空間は当然「ある量のエネルギー」を保有している。このエネルギーの総和であるポテンシャルが、「私の霊性」であり、「ソウル」であり、「いのち」である。

 空間が、ある物理量を持つとき、これを「場」と呼ぶことから、『場のポテンシャル』と言ってもよい。全てが外界と繋がっており、周囲の人々の場と繋がり、コミュニティーを形成し、自然環境の場と繋がりながら「地球の場」を形成し、さらに「宇宙全体」から「虚空(こくう)」へと果てしなく広がって行く。この広がる「場のポテンシャル」をも、『スピリット』と呼び、『共通のいのち』と言える・・・。

『 スピリットの問題とは、その問題の見方が問題なのである・・・。それは、人類と世界全体の「共通のいのち」の問題でもある・・・。そして、地球全体を含む、宇宙全体の創造と進化に関わる(交わる)「命題」である・・・ 』

 実のところ此処に、人を含む森羅万象の命に宿る『創造性と言う進化の物語』の終わりの始まりがある。それは、この著書で言わんとする、『大いなる自己(完全なる人間)』を完成させる『大道へのゼロポイント』がこの地点と言える。

 つまり、『終局点(オメガポイント)』と『開始点(アルファポイント)』が交わる『ユニバーサル・セックス(大いなる宇宙の聖性)』によって、全ての「スピリット(共通のいのち)」が究極のエクスタシーに繋がることを知っている、全身体の『実感力(生得の力)』を取り戻すきっかけとなる・・・。

 今は只々、動揺せず。なお静観せず。頭の先からつま先に至る『全身の脈動と呼吸に注意(思考によってのみ集中するのでなく)を注ぎながら』読み進めて頂きたい・・・。

 はっきりと言えることは、そもそも「命(いのち)=スピリット(霊)」を頭の先の「思考(マインド)」や「メンタル」によってのみ理解しようとすること、その行為そのもの自体に問題が生じる。

 常識とはいったい何をもって、その基準を決め、定め、誰が取り仕切っているのであろうか・・・

『 いわゆる、「価値観」や「考え方」などと言った、知的な作業とその思考様式ほど当てにならないものはない! 』

 世界には様々な習慣や作法、伝統的儀礼や生活様式など、長い時間をかけて築いてきた「文化の違い」があり、それぞれ「価値の物差しの違い」が存在する。私たち同じ日本人ですら、風土や環境によっては価値観や常識が異なることは多々あることであり、「一体」となるには、それなりの努力を必要とする。

 しかし、こと『(いのち)=スピリット(霊)』に関しては、「教育の程度の差」や「人種・言語の違い」、「努力の差」などによって理解が食い違うような、『やわでもろい知識』などではない。それらの尊さや大切さに至るのは、人間であれ、動物であれ、その本能や性の発露により、『』に一体として備わる、『共通の命(いのち)=スピリット(霊)』が明かす働きそのものである。

『 それらに優劣などなければ、まして価値観や一体感など、「観」や「感」と言った、スピリットの働きをまとった「認識」などでは断じてない! 』

 しかし、『スピリット(霊)』ではなく、『スピリチュアル(霊的/霊性)』と言う場合において、人為的な概念・定義・解釈、そして誤解が生じてくる。つまり、私たちの知覚・意識・精神をスピリチュアルな意味として理解するために、「①精神的な態度や姿勢」、「②いくつかある成長と発達の中での最高の段階」、「③独立して私たちの中にある、スピリチュアルな成長と発達の道筋」、「④至高体験や意識の変容状態」など、いくらかの定義可能な概念を組み立てる知的な作業がついて回る。

 上記①~④は、別章でも紹介した「ケン・ウィルバー」が考える、『スピリチュアルの4つの意味』であるが、「スピリチュアルな混乱」はある意味、こうして言語知的に解釈されればされるほど、『近くて遠い問題』として、いよいよ問題の見方の問題を膨らませていく。

 実はここに、西洋と東洋ならぬ『コンテクストリテラシー』の差異、特に西洋的なものとしての東洋の哲学・思想の解釈に、誤解・誤読と思い込みが多く観られる。また、せっかく『多様性の中の統一性の実現化』と言う実りある対話と相互作用、その『本格的な統合』に向かう過程における『本質的な分化』を前にして、その実現は遂に果たされぬまま、『永遠の哲学』として歴史の中に返されてしまいかねない『落とし穴ならぬ盲点』が見え隠れする。

 今日の『乖離した知』が、統合的・変容的な成長を促すはずの「スピリット」「スピリチュアル」「スピリチュアリティ―」の中にまで浸透し、それらは国境を越えて進行しながら、『人間の生』にまで同時多発的な混乱を招いているのである・・・。

『 人間のあらゆる次元に宿る「創造性」・・・心身の統合にしっかりと根差した「スピリチュアルな生」と言われるものは、もっとも生命的な潜在力に根ざすとともに、人間の全ての次元によって共創造される・・・そして、「創造性を宿した生」は、身体の中に存在し、それは身体知と呼ばれる知性をもった「生命のダイナミズム」である・・・それは、我々が完全な人間になる過程に潜み、その内部から出現し、全体を調和的にとりまとめる・・・ 』

 今日の複雑で多様的・重層的な世界に生きる私たち個人が、その文化、社会、エコロジーの領域において統合的・変容的な成長を遂げ、日常生活と世界が『多様性の中の統一性』を実現するための、『ラディカルで革新的な発達・成長へのアプローチ』を思索・提案する。

 また、現在までに『統合的な成長・発達(integral growth)』として探究・提案され、その実践である『統合的・変容的な実践(integral transformative practice/ITP)』、『統合的な生活の実践(integral life practice/ILP)』を展開する人たちを悩ませている「諸問題(乖離した知)」や「欠陥(偏った発達による弊害)」の実態とその解決案にも言及する。

 そこでは、今日の避けがたい極端で排他的な教育とも言える「認知中心主義」による成長モデル、その機能的発達に焦点を合わせた、外部の方向づけによる合理的な「マインド強化」「メンタル強化」など、マインド中心の教育や生活が何世代にも渡り続いたために、「抑圧」され「歪んで」しまった、『人間の生得の力』を取り戻し、目覚めさせることを意図している・・・。

 数千年に及ぶ様々な伝統に属す霊的人物や神秘家の生き方をざっと見ただけでも、『人類の霊性史(スピリチュアリティ―)』は部分的に、「人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語」として読むことができる。

 それは現代においても有機的に、「表層意識」や「潜在意識」、それに「集合的無意識」に深く浸透し、人間と世界のあらゆる次元が著しく分断の様相を顕在化させている原因でもある。

 過去から現在において、スピリチュアリティ―を特徴づけている『決定的な欠陥要因(乖離)』、あるいは、『霊的ヴィジョンの断片化(偏り)』とは・・・、意識的精神の解放を求める過剰(ハイパー)なまでの衝動によって、自己感覚を超越的意識にのみ同一化させることを主眼としてきたところにある。

 それはしばしば、『人間の基礎的諸次元』である「身体的」、「本能的」、「性的」、そして「ある種の感情的」な次元を、再三にわたって抑制することとなったのである。

 つまり、スピリチュアリティ―の主要な諸潮流、及び宗教的実践の歴史上において、身体やその『生命的・内在的・潜在的・原初的エネルギーの次元は・・・、それ自体で霊的洞察をもたらす正統で信頼のおける源泉とは見なされてこなかったのである。

 言い換えれば、身体、本能、性(セクシュアリティ)、そして感情の一部は、心(ハート)や思考・精神(マインド・メンタル)、意識(各階層的意識)と同等のものとして、それらと協同して霊的(スピリチュアル)な悟りや解放を達成できるとは、一般に認められてはこなかった。さらに言えば、多くの伝統宗教や宗派、神秘思想では、『身体と原初的世界』が実際、霊的成長の妨げになると信じられてきたのである・・・。

『 人間の基本的諸次元は抑圧され、統制され、変容され、「意識を霊化する」と言うより高次な目標にのみを主眼としたために、脱身体化されたスピリチュアリティ―は「ハートのチャクラの上」の霊的生にのみ凝縮されてしまった・・・そして、身体から切り離されたスピリットは遂に、我々の「生得の力」であり「創造性の源泉」であるにも関わらず、自己と共同体と世界からも切り離され、常軌を逸するほどの圧倒的な科学技術とそれに基づく経済、産業、情報社会が、ほぼ完全に「スピリット(気)を抜き取り」、排気ガスが立ちこもる「モノクロームな世界」を形成している・・・ 』

第10章|ラディカルで革命的スピリットの創発

  ~ ケン・ウィルバーを案内役に現代版「永遠の哲学」を解き明かす ~

 世界の偉大な智慧の伝統は、何らかの形での「永遠の哲学」「存在の偉大な連鎖」の哲学のヴァリエーションである。

時代と文化を越え「永遠の哲学」と呼ばれている世界観は、キリスト教から仏教、タオイズムに至るまでの世界の偉大な叡智の伝統の核心を形成しているばかりか、東西、南北の多くの偉大な哲学、科学、心理学の核心のほとんどを形成してきた。この「永遠の哲学」の核心が『存在の偉大な連鎖』という考え方であり、基本的な考え方は「リアリティは単一の次元ではなく、幾つかの、異なった、しかし連続している次元で構成されている」と言うものである。

顕現されたリアリティとは、したがって異なった「段階(ないしレベル)」で構成されており、ときに存在の偉大な連鎖は三つの大きなレベル、「物質―心―霊(スピリット、精神)」として提示される。他の提示方法では「物質―身体―心―魂―霊」の五つのレベルでも考えられる。もっと詳細なレベル分けとしてヨーガのシステムでは何十にも明確に区分され、それは低位の、最も粗く、最も意識の少ない段階から、高位の最も意識の高い段階まで連続している意識の次元が提示されている。

「永遠の哲学」の中心的な主張は、人間は低位の意識段階から高位の意識段階までの「階層(レベル)」を登って成長し、あるいは進化できるということ、それはすべての成長と進化が「偉大な連鎖」という「階層性(ヒエラルキー)」を展開しながら、その完全性への到達を目指すことを示している。

 ハーヴァード大学で学び、その後は学際的な学問分野である「観念史」を確立したアーサー・ラヴジョイが、「文明化された人間の歴史において、ほとんどの間、主要な公認の哲学」とした世界観。「東洋と西洋における、より細密な探究心を持つ人々、偉大な宗教の師たちが様々な仕方で関わってきた世界観」とは、既に述べたように、何らかの形での永遠の哲学、存在の偉大な連鎖の哲学のヴァリエーションである。

ヒューストン・スミスがその素晴らしい著書『忘れられた真実』で世界の偉大な宗教を一言でまとめたように、それは「存在と知の階層」。チュギム・トゥルンパ・リンポチェが『シャンバラ ― 聖なる戦士の道』で述べたように「天、地、人」という階層は、インドからチベット、中国に至るまで、神道からタオイズムに至るまで、アジアの哲学に浸透している基礎的な観念であり、それはまた「身体、心、霊(スピリット、精神)」に等しいことを指摘している。

歴史的に研究されてきた「永遠の哲学」、その核心である「存在の偉大な連鎖」の概念(観念)は、人間の文明の歴史のほとんどにわたって哲学の主流となってきた。それは普遍的であり、したがって諸文化を横断して、「身体―心―霊(スピリット、精神)」から構成される「人間性(さらに一切の衆生)」の核心をついている。

 私たち人間には(少なくとも)、すべての偉大な連鎖に対応する「三つの知の眼(知のモード)」があることを示すことができる。そこにも「階層(レベル)」があり、物質的な事象と感覚の世界を捉える(開示する)『肉体の眼』、イメージ、概念、観念など、言語と象徴の世界を捉える(開示する)『心(理知)の眼』、そして、スピリチュアルな経験や状態、つまり、魂と霊(スピリット、精神)の世界を捉える(開示する)『観想(般若)の眼』である。

これらは、身体から、心、霊(スピリット、精神)に至る「意識のスペクトル」を単純化したものであり、世界のすべての叡智の伝統であるタオからヴェーダンタ、禅からスーフィズム、ネオプラトニズムから孔子の哲学などは、すべてこの偉大な連鎖に基礎をおいていることを論証している。それは「存在と認識」の様々な階層(レベル)を伴った、『意識の全体的なスペクトル』である

 すでに述べたように、「永遠の哲学」の中心的な主張は、人間は「物質―身体(生命)―心(ハート、マインド)―魂―霊(スピリット、精神)」の各段階(階層)を登って発達・成長し、あるいは進化しながら、存在と認識はその完全性への到達を目指して行く。この永遠の哲学の核心である「存在の偉大な連鎖」ないし「意識のスペクトル」の一方の端には、物質と呼ぶ、感覚のない(少ない)、意識のない(少ない)ものがあり、一方の端には「霊(スピリット、精神)」「至高神」「超意識」(それはまた、スペクトルすべての基底となる)がある。

その間に並ぶのは、プラトン(実在)、アリストテレス(現実性)、ヘーゲル(包括性)、ライプニッツ(明晰性)、オーロビンド(意識)、プロティノス(抱擁)、ガラップ・ドルジェ(知性)など、呼び方の異なる「リアリティの次元」である。それはステップを踏んで「段階的」「階層的」「多次元的」(言葉はどうあれ)に顕現する。

叡智の伝統であるヴェーダンタでは、それは「鞘(コーシャ)」と言い、ブラフマンを覆う被層であり、仏教では、それは「八識」と言い、八つのレベルの識(アウェアネス)であり、ユダヤ教カバラでは、それは「知恵の木(セフィロト)」である。

 しかし、そこに行く前に、まず注目せざるを得ないのは、偉大な連鎖は確かに「階層性(ヒエラルキー)」を示していること、そして階層性という言葉は、しばし邪悪な意味を持たされたことである。

現代の文化的エリート及びポストモダンの批判家の中には、偉大な連鎖は階層的であるがゆえに抑圧的であり、それは慈悲深い結び付きではなく、不愉快な「順位付け」であると主張する人もいる。しかし、これはかなり粗っぽい批判である。まず、こうした反階層主義的な批判家は、彼ら自身が階層的な判断に囚われている。つまり自分たちの批判の方が他のものよりも良いという批判であって、彼ら自身、隠された、そして「明確でない(完全に自己矛盾的)順序付けのシステム」を持っている。

偉大な連鎖とは、単に階層主義などと言ったものではなく、実際にはアーサー・ケストラーの言う『ホロン階層』であり、包括性を増大させていく順位付けであり、高位に行けば行くほど、世界とその住人を包括していく。つまり、意識のスペクトルの上位、ないしスピリットの領域は、完全に世界を包括し、かつ抱擁する「ラディカルな普遍的多元主義」へと人々を導く

たしかに、如何なる階層も、ひどい悪用が可能であり、ある価値を抑圧したり、周辺化することができる。しかし、「現実的な階層」と「支配的な階層」には大きな違いがあり、偉大な連鎖は、はじめから『深い自己実現的な全体論的階層(ホラーキー)』であって、その悪用がしばしば指摘されるものとはかけ離れたものなのである。

 永遠の哲学における階層性という言葉の意味は、今では現代心理学、進化理論、システム理論にも使われるように、「単にその全体論的な能力(キャパシティ)に基づいて順序付けられた事象」に他ならない。どんな発達論的なプロセスでも、ある段階で全体であったものは、次の段階ではより大きな全体の部分になる。文字は単語の、単語は文の部分であり、文は文節の部分である。

アーサー・ケストラーは「ホロン」という言葉を、「ある文脈において全体であり、それよりさらに大きな文脈において部分である」という意味で用いた。つまり、全体と言うのは、部分の単なる寄せ集めではなく、全体が多くの場合、部分の機能に影響を与えたり、あるいはそれを決定したりするのである

階層(ヒエラルキー)とは、したがって、「より増大するホロンの順序(ホロン階層、ホラーキー)」であり、全体性と統合性の力の増大を示している。つまり、階層性という概念は、現代におけるシステム理論、全体性理論(ホーリズム)の中核をなすもので、永遠の哲学において常にすでに、決定的に重要な中心概念をなしてきたのである。

存在の偉大な連鎖を構成するそれぞれの階層の輪は、より増大し、拡大する『自己同一性(アイデンティティ)』を示しており、それは、身体という孤立したアイデンティティから始まって、社会・共同体的(文化的)な心のアイデンティティ、さらに大いなるスピリットとの至高のアイデンティティへと、文字通りすべての顕現とのアイデンティティへと進むことを示唆している。

 (人間の)意識の進化、ないし展開の本質への理解がないままで、発達・成長・変容、あるいは発展のプロセスを理解しようという試みは、ほとんどと言って成功の見込みはない。また、真に統合的な発展を実現するモデルとは、発達の一つの段階(レベル)や次元を取り上げて、全ての人に強制しようとはしない。その代わりに「発達のラセン(これは全象限・全レベル・全ラインなどを言い、詳細については別の叙述で説明したい)すべての健全さに取り組むという最重要の指令に従う。

そのアプローチは、個々人と諸文化が、それ自身の速度、それ自身のやり方で発達できるような必要条件(内面的なものと外面的なもの両方)を促進させるための、最善の思いやり、関心、そして共感に満たされていることが必要である。それは、自分の信念構造を他者に押し付けることなく、個々すべての人を自身の潜在力によって開発させ、そのことを通じて永遠に光り輝き、暗闇に光を放ち、あらゆる時に幸福である自分自身の深いスピリットを発見できること・・・、今この時にも輝いている自身の本来の顔(面目)・・・、聖なる魂とスピリットの、この単純で驚くべき発見へと招くものである・・・。にもかかわらず、このことが「永遠の哲学」の悪名高い逆説に私たちを導く・・・。

世界の知恵の伝統は、「リアリティは多次元的、多段階的に顕現する」という観念を採用していることを見てきた。高次の次元は、次々に先行する次元を包括し、絶対の総体性である至高神、ないし大文字のスピリットに「より近くなる」。この意味でスピリットは存在の頂点であり、進化の梯子(はしご)の最終の段である。しかし同時にスピリットは、梯子と梯子段すべてを作り出す材木であるというのも真実であり、スピリットは「真如」「存在そのもの」「存在するすべての本質」である。

最初の「梯子の最終段」という側面は、スピリットの超越の側面であり、それはいかなる有限のもの、此岸性(この世のもの)、被創造性(作られたもの)を帯びたものを超えている。全世界、全宇宙が破壊されてもスピリットは残る。二番目の材木という側面では、スピリットは同じように、事物、事象、自然、文化、天、大地に、いかなる差別もなく顕現している。この角度から見ると、いかなる現象もスピリットに「より近い」のではなく、同じようにそれから「作られている」。

したがって、スピリットはすべての発達と進化の最終的な「到達点(ゴール、オメガポイント)」であると同時に、そのすべての「基盤(グラウンド、アルファポイント)」でもある。スピリットは、始まり(アルファ)において完全に顕現していると同時に、終り(オメガ)においても完全に顕現しているのだ。つまり、スピリットは、この世界に先立ってあるものであり、この世界に対して常にすでに他者ではないのである

 スピリットの持つ、この逆説的(パラドキシカル)な側面を二つ共に取り入れず、どちらか一方しか取り入れなかったため、スピリットに関して偏った見方(政治的に非常に危険な考え方)が生み出されてきた。

伝統的に「父権的な宗教」は、スピリットの超越的側面を強調するがゆえに、大地、自然、身体、女性を劣ったものと見なす。父権的宗教に先立つ「母権的な宗教」は、スピリットの内在的側面を強調するがゆえに、有限で創造された大地を、無限で創造されたものでないスピリットそれ自体と見なす汎神論的な世界観をとる傾向がある。よって、限定された大地に同一化するのは自由であるが、大地それ自体は、無限でも無限定なものでもない。

いずれにせよ、母権的宗教も父権的宗教も、スピリットに対する偏った見方は、それは恐ろしい人間の犠牲を招いた。その恐ろしい歴史的な結末は、豊饒を祈るために大地母神に捧げる大規模で残酷な生贄から、父なる神のための全体戦争に至ったのである。

 こうした外面的な歪曲の中で、「永遠の哲学(智慧の伝統の秘教的な核心)」は、常に二元性(例えば天か大地か、男性性か女性性か、永遠か有限か、苦行の道か儀式の道かなど)を回避し、かわりに、それらの全体性の統合、ないし合一を中心に据え、『非 ― 二元的(ノン ― デュアル)』な視点に重心を置いた。

天と地、男と女、有限と無限、上昇(エロス)と下降(アガペー)、智慧と慈悲の合一は、様々な智慧の伝統における『秘密(タントラ)』の教えであった。それは西洋における新プラトン主義から、東洋における秘密金剛乗に至る世界の智慧の伝統は、この「非 ― 二元的」な核心こそ、永遠の哲学と呼ぶに最もふさわしいものなのである。

スピリットを心的・合理的な言葉で考えようとすれば、それは必ず困難を伴うが、私たちはこの「超越と内在の逆説(パラドックス)」に気が付いていなければならないのがポイントであり、厳密には、スピリットそれ自体は逆説的でも何でもなく、いかなる属性も付与することは不可能である。

 現在、永遠の哲学は「進化的なホロン階層の理論(場の中に場があり、それが無限に続く発達と自己組織化の全体論的な研究)」として再び多くの科学、行動理論の主要なテーマとなった。さらに偉大な連鎖の現代版(進化論的ホロン階層)とその自己組織化の原則は、新しい洞察を付け加えながら、偉大な連鎖の進化的な展開に進んでいる。

この偉大なホロン階層を一瞥するたびに、そこには必ず適切な洞察が生まれ、それぞれの洞察はさらなる一瞥によって更に適切なものとなる。いみじくも、19世紀に様々な唯物論的な還元主義(それは科学的な唯物論から行動主義、実証主義に至っていた)によって一時的に脱線させられた「存在の偉大な連鎖(存在の偉大なホロン階層)」は、20世紀において驚くべき復帰を遂げた。

ルパート・シェルドレイクの「形態生成場の階層」からカール・ポパーの「創発する特性の階層」、バーチとコッブの「階層的な価値」を基礎にした「リアリティの生態学的モデル」、フランシスコ・ヴァレラの画期的な業績「自己生成システム(オートポイエティック)」、ロジャー・スペリー、エックルス、ペンフィールドによる「非還元的な創発因子の段階」などの脳の研究、ユルゲン・ハーバーマスの「社会批判理論(コミュニケーション能力の階層性)」に至るまでのほんの一例を挙げても、偉大な連鎖が復帰したことが伺える。

このことに誰も気が付いていないように見えるのは、それが様々に異なった名前で呼ばれているからであるが、しかし、いずれにしても、気が付いていようといまいと、それは進行している。

 そして21世紀の今、永遠の哲学の復帰には、たった一つ、なすべきことが残されている。物理学から心理学、そして社会学に至る現代思想において重要なたった一つの「統合的なパラダイム」とは、『進化的なホロン階層』である。しかし、こうした正統的な学派は、「物質」「身体」「心」の存在しか認めていない。つまり、偉大な連鎖の内、「魂」や「スピリット(霊性、精神)」などの高次の次元は、同じ地位を与えられてはいない。それは、存在の偉大なホロン階層の五分の三しか認めていないと言えるのである。

したがって、なすべきことはこのホロン階層に残りの二つを導入することであり、偉大な連鎖のすべてのレベル、すべての次元を認め、かつ敬意を払うこと。つまり、「物質と感覚の世界を開示する肉体の眼、言語と象徴の世界を開示する心の眼、さらに魂とスピリットの世界を開示する観想の眼のすべてに対応する知のモードを同時に認めること」である。よって、最後になすべきことは、『観想の眼を導入すること』なのである。

 私たちは今こそ、「観想の眼」が、科学的で反復的な方法論によって、魂とスピリットを開示するのを認める時を向えた。このドラマティックで前例を見ない「統合的(インテグラル)な未来展望(ヴィジョン)」は、人間の意識と行動の包括的な探究における「多次元的(統合的)なアプローチの重要性」を強調することになる。

その「統合的なアプローチ」とは、古代の叡智と現代の知識を結び付けること、先駆的で本質的な洞察に敬意を払い、包含するとともに、かつて無かった新しい方法論と技術論を付け加えようとするものである。これこそが、様々な文化的な相違を尊重しつつ、普遍的な文脈に置き直すという意味で、最良の、そして真の意味での「多元文化主義」である。

「インテグラル・ヴィジョン」と呼ばれる『統合的な展望』は、「インテグラル・パラダイム(メタ・パラダイム)」となる『統合的な指示』に基づき、「インテグラル・アプローチ」、つまり『統合的な実践』を要求する。それは循環的に理解され完結するものになるだろう。あえて言えば、最終的な帰郷、すなわち現代人の魂とスピリットを本来の人間性の魂とスピリットに再び織り込むことであり、これが『多元文化主義(マルチ・カルチュラリズム)』の本当の意味でもある。

 この精緻で例えようもなくスケールの大きな「統合的なヴィジョン」は、現代における最も包括的な哲学思想家『ケン・ウィルバー』によって、今から遡ること20年前に提示されるまで、誰も完全には把握していなかったものである。

彼のずば抜けたヴィジョンが持つ、包括的で統合的な理論を理解する鍵となる著書『進化の構造(1996年)』
についてマイケル・マーフィーは、この本は、シュリ・オーロビンドの『聖なる生命』、ハイデッガーの『存在と時間』、ホワイトヘッドの『過程と実在』と並んで、20世紀の四つの最も偉大な著作であると主張している。ラリー・ドッシー博士は、「過去、出版された本の中で最も重要な本」と呼び、ロジャー・ウォルシュは、その大きさをヘーゲルやオーロビンドにたとえている。もっとはっきりした言い方では、アラスデア・マッキンタイヤの有名な「ニーチェか、アリストテレスか」という選択を引き合いに出し、「いや、現代世界は、実際には三つの選択肢を持っている、アリストテレスか、ニーチェか、あるいはウィルバーか」と言うのである。

ウィルバーが展開している「統合的理論」は、知的な思想レベルで言えば、私たちに希望を与える唯一の『世界哲学』である。簡単に言えば、哲学は合理性の範囲内では、やるべきことをすべてやり尽してしまったのである。知的言語、あるいは論理ないし知的レベルで考えている限り、あなたはけっして自我と合理性の外に出ることはできない。(相対的の二元性の世界、「肉体の眼」及び「心の眼」の世界の外)

そこでウィルバーは、現在、力強い蘇りを見せている「非 ― 二元性(ノン ― デュアル)」を、ある種、スートラの形で説いている。「非 ― 二元」とは、世界の叡智の伝統である「永遠の哲学」の核心にある教えであり、「秘教(タントラ)」であることは既に述べたように、それがどんなものであるかを言葉で言うとパラドックスをきたすため、ウィルバーのようにある種、「指示」の形で示さざるを得ない。

この伝統は20世紀において、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジ、鈴木大拙、エックハルト・トーレによって力強く蘇った。上記の四名について、ウィルバーも高く評価しており、ウィルバーの名も勿論、ここに加えられるだろう。

その世界観、存在と認識、至高のアイデンティティ、観想の眼(スピリットの眼)によって開示される知のモードに至る(悟る)には、それ相応の努力と時間を要するであろうが、この方法は恐ろしくシンプルであって、言うなれば「今(即今目前)」を十分に注意すること、そこで起こっていることを十分に意識することに尽きる。

 私たちは、普通、常に何らかの思考なり感情なりに巻き込まれている。いわば夢の中で生きているようなものであって、「今、ここ」に完全にいることはめったにない。ところが、すぐにわかるように、私たちがいることができる場所なり時間は「今」しかなく、実は、私たちは今に十分いるということがめったにないのである。

常にすでに、「今」、ここで起こっていることは、例えば思考なり感情なりも、音や光も、空を行く白い雲や、ふいに窓を横切る鳥もそうであるように、こうして起こっていることすべてを、いわば無差別にゆったりと目撃する位置に留まり、思考や感情も、鳥や雲と同じように見つめていると、次第にそれらもまた、風や光や雲のように自然に起こっているものという風に観ぜられてくる。こうして自分と周りの対象世界との関係は変化してくる。自分と言う強固なものがここにあって、それに対して様々な対象があるという見方が変化してくるのである。

このことをウィルバーは、「自己収縮が緩む」と表現している。すべては、広大なアウェアネス(意識、気づき)の海の中で起こっている波であると。それは、浮かんでは消えていく現象であり、どの現象も平等に起きてくる。鳥も雲も思考も感情も、それを平等に目撃していく・・・。

こうした見方が身についてくると、自己というものを中心において、それとの関係によって対象を見るという意識が変化してくる。また、今を意識することによって、過去や未来への自己投影(不安や後悔)という病も停止する。不安や後悔が起きないというのではなく、それらの感情との関係が変化してくる。不安や後悔は、今、あなたの窓を横切っていく小鳥と同じく、現象であり、ほっておけば消えていく・・・。

このようにして、私たちは、おそらくは長い間かかって作られた外界の現象に対する、ほとんどプログラム化されたような自動的な反応を緩めていくことができる。

 このような「瞑想的・観想的」な態度をとる人は世界中で増えている。これはある意味では、世界史的に見ればルネッサンスに匹敵するような大きな出来事である。

『ラディカルで革命的スピリットの創発』・・・、ウィルバーはその先駆者であり、しかもそれを「大きな哲学の中(世界哲学)」に組み込んだのである。そのヴィジョンは、古代の智慧の最良の部分と現代の知識の最良の部分とを結び付けるのである。

 また、彼のずば抜けた仕事を簡単に言えば、「様々な知の領域の真理性の主張(それぞれの知の領域で何が真理とされているのか、ということ)、言い換えれば、それぞれの知の領域において人間のために提供されたすべての真理を統合し、一貫性のあるヴィジョンに織り上げた」のだが、その領域は一例を挙げても、おおよそ一人の人間としての知的作業・能力の幅をはるかに超える領域を網羅(カバー)している。

そこには、物理学から生物学、環境科学、カオス理論とシステム科学、医学、神経生理学、生化学、アート、詩、美学一般、フロイトからユング、ピアジェに至る発達心理学と心理療法のスペクトル、西洋のプラトン、プロティノスから東洋のシャンカラとナーガールジュナに至る「存在の偉大な連鎖」の思想家、デカルトからロック、カントに至る近代哲学者、シェリングからヘーゲルに至る観念論者、フーコーとデリダから、チャールズ・テイラー、ハーバーマスに至るポストモダニスト、ディルタイからハイデッガー、ガダマーに至る主要な解釈学派、コント、マルクスからパーソンズ、ルーマンに至る社会システム理論家、世界宗教の東西にわたる偉大な瞑想的伝統の中に至る神秘・観想学派など、途方もない領域なのである。

 どのような領域を探究するに当たっても、ウィルバーはある一定の抽象レベルからその領域を見る・・・。そのレベルに達すれば、様々に対立するアプローチが実際は合意していることが見て取れるのである。

彼の主張は明快である。「どんな人間の考えも100パーセント、間違っているとは考えられない・・・。どの方法が正しく、どれが間違っているとするよりも、どれもが正しいが部分的なのだと仮定する。そして、このような部分的な真実のどれか一つを取り上げて、他を捨て去るのではなく、どのようにそれを組み合わせることができるのか、どのように統合できるのかを考える・・・」。

同時に彼は付け加える。「あまり大げさにとる必要はない・・・。これは単に志向的な一般化にすぎない。細かい点はすべて読者が埋めるのに残されている・・・」。簡単に言えば、ウィルバーは概念的な拘束衣を提供しているのではない。まったく逆なのである。「私は、コスモスにはあなたが考えるよりずっと広く自由な場所があることを示したい・・・」と。

そして彼は美しい一編の詩を紡ぐ。『スピリットの眼において、私たちは出会う・・・。私はあなたを見つける。そして、あなたは私を・・・。奇跡とは、私たちがお互いを見つけ出したことである。この真実こそ、疑いもなく、まさにスピリットが絶えざる存在であることの最も単純な証拠なのである・・・』

 スピリットはたった今、この文を読んでいる、まさにあなた自身なのである。

第11章|私たちの「経験的な世界」に対する同意

 アリストテレスは、「どんな人物も、その人生の最後にならなければ、自分の人生にどんな価値があるか、そして人生を全体として眺めなければ、徳のある人生を送ったかどうか判断できない」と述べている。

たしかに、「ある全体は、より大きな全体の部分」である。その全体について価値判断を下すことはもとより、把握することさえ、とても困難なことを誰もが知っているだろう。個人的な「生の断片(存在の意味や価値など)」が、どのように組み合わさり、誰と、そして何と結びついているのか考えようとすると、たちまち興奮したり、時にはトラウマに襲われたりするのはそのためである。

 あらゆる現象(出来事)の全体を理解するためには、部分を理解することは必要である。しかし、部分を理解するためには、全体を理解することが必要である。これが『理解の循環』である。理解の循環の中で、私たちは「意味」、「価値」、「ヴィジョン」へと導かれる。部分を結び付け、断片を癒し、切り離された破片を織り合わせ、『遥かなる前方に光を当てること』ができるのである。

人が真に理解(相互理解)に至るためには、その一歩一歩が癒されるような足どりと、優しい報いで満ちている必要がある。そして、全体と部分のすべて調和が取れているかどうかが、正しく理解されているかの基準となり、こうした調和を達成することに失敗すれば、それは理解することに失敗したことになる。

 部分と全体の関係とは、つまり「個人と集団」、「自立性(独立性)と関係性(協調性)」、あるいは「権利と責任」などを意味している。しかし、最も深い意味では、部分も一個の全体であり、全体もより大きな全体の部分である。よって私たちは、「理解した意味の統一体(部分の単なる寄せ集めではない)を、いわば同心円的(ホロン)に拡大させていく」ことである。

「ホロン」。アーサー・ケストラーが作ったこの言葉は、『全体が同時に他の全体の部分である』ということを示している。全体としてのクォークは、全体としての原子の部分であり、全体としての原子は、全体としての分子の部分であり、全体としての分子は、全体としての細胞の部分である。全体としての細胞は、全体としての有機体の部分である。

言語学においては、全体としての文字は、全体としての単語の部分であり、全体としての単語は、全体としての文の、全体としての文は、全体としての段落のそれぞれ部分である。こうして無限に続く。

言い換えれば、私たちは全体のみから構成された世界にも、部分からのみ構成された世界にも生きているわけではなく、全体・部分、すなわち「ホロン」から構成された世界に生きているのである。全体は全体だけで、部分は部分だけで存在できない。すべては同時に全体であると同時に部分である。そして私たちが知り得る限り、それは無限に続いている。たった今、存在している宇宙は、次の瞬間の宇宙の部分であり、この宇宙のどこにも、全体だけ、部分だけというものはなく、すべては部分であり、同時に全体、すなわち「ホロン」なのである。

かくして理解とは、「常に部分から全体へ、全体から部分へという循環運動を行うもの」である。そして私たちは、「理解した意味の統一体(部分の単なる寄せ集めではない)を、いわば同心円的(ホロン)に拡大させていく」ことである。すなわち、私たちは「ホロンの世界」に生きている。コスモスは終わりのないすべてであり、すべてはどこまでも上昇し、どこまでも下降するホロンで構成されているのである・・・。

 そこで、私たちが生きている、上記の抽象的な「ホロンの世界」を理解するために、いま一度、具体的に「経験的な世界」として解釈する必要がある。そのためには、私たちの「思考」、そのメカニズムの発生と循環を理解することに繋がる。

まず、文化のないところでは「言語的思考」は生まれない。言語的な文化なしに成長した人間の脳は、言語的な思考を生み出すことができないのである。この人間の内面的な思考は、私の文化的背景の中においてのみ、意味を持つ。私の思考それ自体が、個人的な思考に意味と質感をもたらす文化的背景の中でのみ、起こり得るということである。つまり、思考の持つ意味とは、「文脈(コンテキスト)に依存しているのである。この「文脈依存症」は、宇宙とそこに生きる私たちの生のあらゆる局面に偏在している

文化的な共同体は、私の個人的な一つ一つの思考にとって、背景及びコンテキストとなっている。私の思考は、無からいきなり頭の中に浮かびあがったものではない。私個人の一つ一つの思考は、文化的な実践、言語、意味、文脈の広大な背景の中でのみ存在し、幾らその背景から遠ざかっていたとしても、そこから逃げることはできない。何故ならそもそも、文化的な背景なしに個人は思考というものを構成できないからだ。

私に語りかける個人からなる共同体の中に存在していなければ、私は自分に語り掛けることもできないどころか、そもそも「独り言」を言うこともできない。私の思考自体、文化的背景の中で起きるものであり、その文化的背景が私の個人的な思考に、意味とコンテキストを付与する

すなわち、「私」という『主観的な個人の内面的世界(思考をはじめ、意識、気づき、心、魂、精神あるいは霊性など)』というものは、「私たち」という『間主観的な集団の内面的世界(共通言語や意味をはじめ、倫理観、道徳、共有する価値観、文化的な世界観など)』である、共有された文化的な背景と文脈を内在的に持って存在している。(個人及び集団の内面的側面/領域/象限/ホロン)

 しかし、文化それ自身は、ただ単に切り離されて概念的(観念的)な空中に浮いているわけではない。それは物質的な要素を持っている。私の思考が「脳という物質的側面(個人の外面)」を持っているように、すべての文化的な事象は、社会的に相関(相補)する要素を持っている。これら具体的な社会的要素とは、技術・生産のための諸形態(鍬・鋤農業、各種工業・産業、情報、その他)、具体的な社会制度、文書化された法律、地政学的な位置など、「社会行動システムを構成する具体的な社会的側面(集団の外面)」である。(個人及び集団の外面的側面/領域/象限/ホロン)

こうした具体的な物質的要素、すなわち実際の社会システムは、「文化的な世界観のタイプ」を決定するのに極めて重要な役割を果たす。その世界観の内部で、私の個人的な思考は生起するのである。したがって、私の「個人的な思考」というものは、実際には少なくとも『四つのアスペクト(四つの様相/側面/領域/象限/ホロンなどと呼ぶ)を内在的に持っている現象なのである。(四つの象限ないし次元)

四つのアスペクトとは、「私」という『志向的な主観性(個人の内面)「私たち」という『文化的な間主観性(集団の内面)「それ」という『行動的な客観性(個人の外面)「それら」という『社会的な間客観性(集団の外面)として、それぞれ言語的に記述する際の主語となる、「私」「私たち」「それ」「それら」の世界を示している。そして、これを巡ってホーリスティックな循環が作動する。(あるいは、ホロンのサークルが一巡する)

社会システムは、文化的な世界観に強い影響を与え、それは私の持つ個人的な思考に限界を定め、個人的な思考は、私の脳の物質的な活動として現れる。こうして私たちは、この循環に沿ってどのような方向にも動くことができる。すべては互いに結び合わされており、すべては互いに決定し合う。すべては互いに他のアスペクトの生起する原因となり、またその結果でもある。そして、それらのアスペクトは、無限に続く文脈の中の文脈という同じ中心を持つ球体の連続なのである。(あるいは、それらのホロンは、同心円的な多層構造を持つ無限に続くコンテキストの中にある)

 よって、私たちの「経験的な世界」とは、単に知覚にあるのではなく、様々に重要な意味合いにおいて「解釈」にある。言い換えれば、単純であるはずの「経験的・客観的な世界」は、ただ「外部の世界」に横たわっているのではなく、むしろ「客観的な世界」とは、実際は主観的で解釈学的な文脈と背景の中に置かれ、それが「経験的な世界」で見えるもの、見え得るものを様々な仕方で統制しているのである・・・。

しかし、ここで重要なことは、私たちの「経験的な世界」に対する同意(認識及び承認)、そして人間という存在において、この四つのアスペクトが非常にリアルであり、非常に永続的で、かつ深いものであるという見方である。

どのアスペクトからの、どんなアプローチ(知的な活動)もいわば、私たちに「コスモスの一つの顔(側面/領域/象限/ホロン)」を見せてくれるのである。どのアスペクトも、この世界に関して非常に重要なことを告げている。そして、どのアスペクトも、攻撃的、暴力的な歪曲、あるいは無視すること無しには、他のアスペクトに完全に還元することはできない。(還元とは、すべてを一つの象限ないし次元で説明しつくすことができると主張すること)

最も重要なことは、私たちの「経験的な世界」に対する同意、及び様々な重要な意味合いにおける理解と解釈の過程において、この四つの素晴らしいアスペクトのいずれにも敬意を払い、包括することが目的の一つである。