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G2J Spiritus CLUB. VOL.7:Portrait of a Legend(伝説の肖像)/ DONNY HATHAWAY

 

公民権運動やキング牧師暗殺といった時代背景の中で、黒人音楽も“R&B”から“ソウル・ミュージック”へと歴史的な過渡期を迎えていた70年代初頭、 スティーヴィー やマーヴィン・ゲイ等と歩調を合わせる様に登場した“稀代の天才シンガー”こそ『ダニー・ハサウェイ』である・・・ 。

ゴスペル、ブルーズ、ジャズ、そしてクラシックまでも取り入れ、ソウル・ミュージックを新たな次元へと導き、 “ニュー・ソウル”という新しい時代の扉を鮮やかに解き放った「プログレッシヴなソウル・アーティスト」としてだけでなく、現在のフリー・ソウルからネオ・ソウルまでの流れをダニーの存在無しで語る事は出来ない。

ソウル・ムーヴメントのアイコン、孤高の天才シンガー・ソングライター、才能あるミュージシャン、創造性あふれるアレンジャー、そしてパワフルなシンガーでもあった彼は、1979年1月、滞在先のホテルから飛び降り、33歳という若さで自ら人生の幕を下ろしたことでも知られる。

その短い生涯で残した愛と希望に溢れる名曲・名盤と、その悲劇的な最期での「光と影のコントラスト」が非常に印象深いアーティストは、数々の音楽的遺産を後世に遺していった。

さらにシンガーとしてのダニーは、実に多くの後継者を生んでいる。ゴスペルをベースとしたエネルギッシュかつ深みと温かみのある彼の歌は、「ソウル歌唱のひとつの理想形」と言える。また、ソウルの文脈以外で作られた楽曲のカヴァー(A Song For Youなど)を聴けば明らかなように、彼の歌はソウルに満ち溢れているが、それでいて、しっかりと制動を利かせることで決して下品にならない。

ソウルフルでありながら知性を感じさせるそのスタイルは、彼のルーツであるゴスペル畑の歌い手はもちろんのこと、現代のネオ・ソウルからハウス・フィールドまで、サウンドや時代によらず「幅広いシンガー達の手本」で在り続けている。

今日は「70年代ニュー・ソウルの金字塔」と言える楽曲 “Love Love Love [Live At Newport 1973] ” の貴重なライブ音源と1973年にNYのWBLS-FMが収録した彼の生声 “Interview” をお届けしたい ‼

by JELLYE ISHIDA.


『Love, Love, Love』

愛よ
何故君はそんなに焦らしながら僕のところへ来るの?

愛よ
いつも君がどこへ僕から身を隠しているのか教えて欲しいんだ

僕が君のところへ誰かを連れて行こうとするたびに
全てが水泡に帰した
彼女たちの唇は僕に動揺をもたらしたんだ
僕が新しい彼女とキスをしたら
僕の心の奥底で愛のない寂しい想いが湧き起こったんだ

君(=愛)はまた僕を君に恋をさせるから
僕はどうしていいのか分からない
僕が何もない場所を見つめていた時
僕が見ていたものはただ君の魅惑的な顔だけなんだ

愛よ
君は君が僕にしたことが想像すらできない

愛よ
君が僕を通り抜ける時は君はいつも笑顔だ

日々僕はますます君のことが好きになっている
これは嘘ではないんだ
誓ってもいいよ
だって僕は君を惑わせようとしている訳ではないのだから

僕を信じて
僕は本当に君のことが必要なんだ・・・



〖 Donny Hathaway(ダニー・ハサウェイ)〗

1945年、イリノイ州シカゴに生まれたダニーは生まれてすぐにセントルイスに移り住み、ゴスペル・シンガーだった祖母のマーサ・クラムウェルに育てられた。

ダニーはすでに3歳の頃から祖母のゴスペル・グループでウクレレの弾き語りをしていたという。またその一方で彼は子供の頃から先生についてクラシックを学び、アカデミックな音楽知識を身に付けていった。

1964年にワシントンDCにある黒人大学の名門ハワード大学に入学、ピアノと音楽理論を専攻した彼は奨学金を受けるほどの優秀な学生であった。彼がポピュラー音楽に興味を持つようになったのも大学時代で、後に深い関りを持つ事になるロバータ・フラックやリロイ・ハトソンと知り合ったのもこの時代だ。

やがてダニーは大学に通いながらリック・ポウェルというドラマーが率いていたジャズ・トリオのピアニスト/オルガニストとしてワシントンDCのクラブで演奏するようになり、この時始めて教会以外で歌う事を経験する。

大学中退後、彼は妻と後にシンガーとなる一人娘レイラを連れて故郷のシカゴに戻り、カーティス・メイフィールドのカートム・レーベルで働き始め、主にアレンジャーとして活動をしていたが、1966年にリロイ・ハトソンがリード・シンガーを努めていたメイフィールド・シンガーズの一員としてシングル「I’ve Been Tryin’ If」を録音。

また、1969年にはジューン&ダニー名義(ジューン・コンクェストという女性シンガー)のシングル「I Thank You Baby」を発表する一方、プロヂューサー/ライターとしてアレサ・フランクリンやジェリー・バトラー、ステイプル・シンガーズ、カーラ・トーマス等を手掛け、インプレッションズのバンド・ディレクターも努めた。

その後、カートムを離れ、スタックスやオン・トップ・レーベルなどでも裏方として活動を続けていたダニーは、やがてキング・カーティスと出会い、彼の後押しを受けて1970年、アトランティック・レコードと契約を結んだ。こうして発表された記念すべきデビュー・アルバムが「Everything Is Everything/新しきソウルの光と道」である。

まさしく彼の原点とも言うべき本作はアメリカ社会の厳しい現実や、黒人の苦悩や誇り、そして神への感謝と純粋な愛を歌い綴ったソウル史に残る傑作であり、同時に故キング牧師の意志を受け継ぐその姿勢に多くの同胞の共感を得る事になった。

初のシングル「The Ghetto」がR&Bチャート23位を獲得し、黒人社会が抱える問題にも踏み込んだことから、“マーヴィン・ゲイ”と共に『ニュー・ソウルの旗手』として一躍脚光を浴びた・・・。



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