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G2J Spiritus CLUB. VOL.5:Portrait of a Legend(伝説の肖像)/ SAM COOKE

 

サム・クックは19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。

1956年12月に「デイル・クック」名義で初のソロ・レコーディングを行うが、この時に録音された“Loveable”は、殆どプロモーションされることなく終わった。

その後サムはキーン・レコード(英語版)との契約を得て、本来の姓に「e」を足した「Sam Cooke」という名義で活動を始める。

1957年に正式にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。クレジット上では、「ユー・センド・ミー」の作詞・作曲者はL. C. クック(サム・クックの弟)となっていた。しかし、当時サム・クックはソウル・スターラーズ時代の所属レーベルであったスペシャルティ・レコードとの間に契約上の問題を抱えていたため、L. C.の名前を使ったという。

なお、クックは1987年にソングライターの殿堂入りを果たしており、ここでは「ユー・センド・ミー」はサム・クックが単独で作った曲という扱いになっている。

レコーディングは1957年6月1日に行われ、シングルのB面には「サマータイム」(ジョージ・ガーシュウィン作曲)のカヴァーが収録された。

「ユー・センド・ミー」は、サムの大ヒットの一つ、というよりは、正確には彼の最初のヒット曲であり、最初にして最後の全米ナンバー・ワン・ヒットでもある。

1957年11月30日付けビルボード誌「ホット100」でエルヴィス・プレスリーの“ジェイルハウス・ロック”に取って替わって1位に上がり、3週間トップを続け、200万枚近いシングルを販売した。

サム・クックは、ハリー・ベラフォンテと肩をならべるすばらしいポピュラー・シンガーでもあり、すぐれたエンターテイナーで、RCAビクター・レコードにとっては、「エルヴィス・プレスリー」、「ハリー・ベラフォンテ」につづく最大のベスト・セラー・アーティストであった。

サム・クックがアメリカのポピュラー・ミュージック界を代表するすぐれたアーティストの1人であったということは疑いもない事実であり、64年に来日したザ・プラターズの人気者、バスのハーバート・リードは、サンケイ・ホールの楽屋で、サムの死をいたむように次のように語っている。

「彼は本当に偉大だった。ベラフォンテ以上だったかもしれない。しばらく前、ニューヨークのコーパに出演したときは、大変な話題となったものだ。そのころ、タイムズ・スクエアにサムの大きなポートレートの看板が上がっていた。ベラフォンテのようなスポーツ・シャツ・スタイルで・・・」。

by JELLYE ISHIDA.



〖 Sam Cooke(サム・クック)〗

1958年1月22日、27歳の誕生日を迎えた青年はゴスペル歌手サム・クック(Cook)ではなく、成功したポップ歌手サム・クック(Cooke)だった。

前年9月にキーン・レコードから発売されたポップへの転向第1弾「You Send Me」は、見事に全米第1位に輝くミリオン・セラーとなったのだ。ゴスペルの世界からの非難を覚悟しての世俗歌手への転身の賭けは見事に成功した。

スターの座に就いたサムにとっての最初の挑戦が、2月のニューヨークの有名ナイト・クラブ、コパカバーナ出演だった。ロックンロールと呼ばれた10代向けの新しいポップ音楽は一時期の流行に過ぎず、やがて下火になると考えられていたし、この時点ではサム自身もそう考えていたからだ。

だが、サムはほとんど、高級クラブの白人の観客に慣れていなかったし、彼らもサムのようなゴスペル育ちの歌手の音楽をよく知らず、体を微動だにせずに聴いているだけだった。

彼がコパに戻ってきて、大成功を収めるのはそれから6年後、64年のことになる。コパ初出演が失敗に終わった後、サムはロックンロールのパッケージ・ショウ「ビッゲスト・ショウ・スターズ」に加わって、クライド・マックファターやエヴァリー・ブラザーズらと全米各地を回る。

巡業自体はゴスペル時代に経験を積んでいたサムだが、白人と黒人両方の若者が集まるロックンロール・ショウは特に南部に行くと反発も強く、人種差別の現場に幾度となく遭遇する。

そんな体験がサムに黒人意識や公民権について考えさせる。それが作品や行動にはっきりと現れてくるにはまだ年月が必要だったが、58年後半にその兆しも見つけられた。サムは白人のような直毛を真似て髪の毛を加工することを止めたのだ。その決断は黒人歌手仲間には驚きだった。

その中の一人、ジェリー・バトラーは自分と共通する育ちの人の中で、黒人らしさにそのような誇りを持つ知り合いはいなかったと振り返っていた。そんな黒人意識の高まりが63年に「A Change is Gonna Come」のような曲を書かせることになる。



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